top of page
Pink Sugar
検索

20世紀社会学小史


拙著『社会学の起源 創始者の対話』本の泉社、2015で、なぜ、社会学は19世紀半ばに生まれたのか、その学問がめざす目的はいったい何であったかを書きました。起源に関わったのは、A・コント、H・スペンサー、そして社会学と区別できる独自の社会理論を確立したK・マルクスでした。3人とも在野の人でした。20世紀にはいる境界で、社会学はアカデミーの一員として市民権をえます。そこから100年以上の本格的な社会学の歴史が始まります。社会学にとって世界とは何か、ではなく、世界にとって社会学とは何か、が問われねばならない。20世紀社会学のダイナミズムを社会史のなかで描くことを目指します。


デュルケムの植民地主義 その歴史意識と論理構造(『桃山学院大学社会学論集』第59巻2号掲載)

 

キーワード:デュルケム,社会学,植民地主義,経済,社会

 

 

はじめに

 É・デュルケム(仏  1858-1917)は,フランス社会学の第二世代(第一世代はA・コント)を代表するとともに,現代社会学にたいして直接の基磯を与えた人物である1)。19世紀社会学との関係で見ると,彼はコントから実証主義を受け継ぐ一方で,スペンサーに対してはきわめて批判的であった。コントが社会学を「社会静学」と「社会動学」に分けたことは,前著(『社会学の起源』2015)で紹介したとおりである。コントは,「静学」で家族秩序に合わせて個人と産業社会の双方がどういうふうに社会的秩序にたいして貢献するかを論じ,また,フランス革命以降の知識の変動が神学,形而上学を通過して実証主義へ進むと考えた。最後の知の形態は当然産業社会を求めさせるものである。デュルケムはコント社会学のこうした静動の二部構成を 19世紀末から20世紀の新たな状況に適応させた。後で詳しく述べるよう


1)  『社会学の起源』(本の泉社,2015年)で私は,経済人が織りなす機械的な領域とは区別される,有機体的な領域にコントが強い関心をもつことを論じた(同 143頁)。デュルケムは,コントの経済/社会という構想を受け継いでいることは明らかである。


に,デュルケムは「静学」にしたがって,ある秩序の内的編成に関心をもつとともに,「動学」にしたがって,産業社会が新しい秩序(私はそれを国家介入的資本主義と名づける)へ移行することを解明したといえる。産業社会の新しい秩序は,旧秩序(自由放任的な産業資本主義)を否定しながら出てこなくてはならない。それゆえデュルケムは,旧秩序の代弁者であったスペンサーを徹底的に攻撃したのである。

 したがってこの点から見ると,デュルケムは,ホブハウスとウェーバーとともに社会学の第二世代と言われるけれども,それはたんに年齢的に同世代だということではない。もっと内容的な意味で次の世代なのだ。すなわち,第一世代が産業社会の秩序の秘密を解明したのに対して,次の世代は自由放任的資本主義から国家介入的資本主義への「産業社会」の転換をするどく読み取り,その後の社会学に対して打ち消すことのできない新パラダイムを提供した。新パラダイムの特徴は,「社会というものの決定的な諸特徴は主観的な性質のものである」2)という点に関わる。ホブハウスの「マインド」,デュルケムの「道徳」,ウェーバーの「精神」は,すべてここに述べた「転換」に直面したことから出てきた。おそらくは3者の真の敵はマルクスだったのであって,かれらはマルクスを一種のタダモノ論的に理解したために,社会が物質的生産から説明されるべきではなく,社会の成員が抱く「主観的な性質」から説明されるべきだということを異様な情熱で力説した。現代社会学が,20世紀においてマルクス社会理論から物質的秩序という思想を取り込み,社会学の伝統から象徴的秩序という思想を取り込んで折衷しているのは,それじたいが非常に興味深い現象である。本稿では,互いに他を刺激


2)  スチュアート・ヒューズ,生松敬三,荒川幾男訳『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』みすず書房,1970年,192頁。社会がその構成員の主観的なものに負うているという着眼は,見ようによっては,古代以来のすべての社会観に見いだされる。しかし,第二世代社会学者の洞察は,いずれも産業資本主義から国家介入的資本主義への転換に促がされたものである。かれらは主観的なものをどこへ向かうやら訳の分からない要素とするのではなくて,新しい秩序の固有の次元として定着させることにおおいに貢献した。


するとともに,緊張関係をなすふたつの秩序という思想の一端が,まさしくデュルケムからもらい受けたものであることを探求しよう。

 デュルケムは,比較的穏やかな学究生活を送ったが,おそらくユダヤ人であることから受ける差別や窮屈を知っていた。ユダヤ教において聖職者は世襲であるが,彼が学者をめざしたのは,こうした慣例を抜け出すことを意味する。「分業が発展するためには・・人間が世襲の桎梏から解放されねばならない」というのは,ユダヤ教の支配下にあった低級社会(環節社会)から高級社会(組織社会)への移行の中にまさに自分自身を位置づけた命題であり,決して他人事ではなかった。社会学とは,社会(秩序と変動)の中に個人を位置づける作業である。デュルケム自身,社会学上古典とみなされる有名な著作をたくさん書いた。残された業績の数々は,いずれも開拓者的な業績であるが,どの著作にも一貫した考え方が貫かれていた。それは,個人が社会的であるというのは,社会が成員たる個人を創出するからだという考え方である。この考えに立つと,利己主義の極や利他主義の極は,いずれも個人が健全に社会化される様式を逸脱した病理である。デュルケムはこの意味において後にパーソンズが作った用語「制度化された個人主義」3)の社会学者であった。

 だが,断固とした文章と深遠な生の深みに達する彼の筆力は,彼の穏やかな暮らしのなかに浸透してくる「社会的なもの」への豊かなセンスを感じさせる。コントの系譜に立つ彼は実証主義的な社会学を育てた人であるとの評価が高い。けれども,彼の実証主義は,たんに物事の機能を論じるだけの,


3)  「制度化された個人主義」という用語は,T・パーソンズがデュルケムの思想を要約したものである。パーソンズによれば「近代社会に現れつつあるパターンは制度化された個人主義 institutionalised individualism である。このパターンの初期の定義者は,有機的連帯の概念に関連してデュルケムであった。有機的連帯とは,異なる個人や集団が異なる機能を果たす分化した社会を指す。その成員は同時に,社会への忠誠と市民としての相互の絆という共通の紐帯によって統合されている。」Leon  H.  Mayhew  ed.  Talcott  Parsons  on  institution  and  social evolution,  selected writings, Univ. of Chicago Press,1982,pp.328-329.


冷たくデータ的な圧力のことではない。データが人間にとってどういう意味をもつかということを彼はいつでも重視した。「われわれが人類に愛着し,また愛着しなければならぬ理由は,人類がこのようにして実現されつつある一個の社会であり,われわれがこの社会に連帯的であるからである」4)。この言葉にあるように,社会と自分をつねに不即不離にとらえる迫力は社会学者の本分であるから当たり前であるけれども,その透徹程度は他の追随を許さないほどである。本章は,デュルケム社会学を第二世代のフランス的特徴を最もするどく体現した人物の制作物として,できるだけ構造的に考察することを課題とする。


1.         個人史

 1858年4月14日デュルケムはフランス北東部の都市エピナルのユダヤ人のラビ(律法学者)の家の父母(モーゼとメラニー)の5人兄弟の末っ子として生まれた5)。この地は伝統的にカトリックが多く,プロテスタントやユダヤ教徒はあとから流入した。とりわけユダヤ人はゲットーに集まって暮らしたが,虐待と攻撃をうけた。若いデュルケムも肩身の狭い思いで世間をみつめていた。1870年に普仏戦争がおこり,エピナルにプロシア軍が入ってきた。同年第二帝政が崩壊した直後民衆は第三共和制を宣言した。フランス敗北後のフランクフルト講和条約は領土割譲と多額の賠償を認めたもので,支配階級の裏切りであった。このため1871年民衆は蜂起して,パリ・コミューンを樹立し,72日間市民が首都を自治都市とした。これは国軍によって鎮圧されたとは言え,共和制の性格をより進歩的なものへ変化させた。第三共和制のもとで王党派を排除した安定したブルジョア政権がつくら


4)  Emile Durkheim, De la division du travail social, p.401,田原音和訳『社会分業論』青木書店,1971年,388頁。以下,必要に応じてDT と略記する。

5)  Marcel Fournier, t ranslated by David Macey, Émile Durkheim a biography,

Polity Press,2013

pp.13-28.以下,伝記による場合はM.Fournier,ED と略記する。


れ,このもとで産業化,都市化が進行すると同時に社会問題も激化した。 エミールはラビを継ぐ気持ちはなかったので,1876年パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に入るためにパリに出た。一浪の末高等師範に合格した。卒業後,サンスのリセ(高等中学校)の哲学の教師になれた。高等師範の同級生にはJ・ジョレス,A・ベルクソン,A・ブルトンら錚々たる人がいた。ここに滞在した3年のあいだにデュルケムは社会問題に関心を持ち,社会学を学び始めた。1881年にH・スペンサー,A・コント,A・トクヴィルを読んだ。この頃からは哲学者に関心をもち,Ch.ルヌヴィエ(1815-1903)の「全体は部分の総和に等しくない」という命題とともに「連帯」という概念に大きな感銘をうけた6)。

 1886年,休職許可をとって彼はドイツ旅行へ出発した(1886年1月~8月)。様々な観察のうちにはむろん博士論文の執筆が含まれていた。「個人と社会」という抽象化されたタイトルの背後に,個人主義と社会主義という具体的なテーマが隠れていた。だからドイツの大学で講壇社会主義やマルクスの文献に出会った。後に書きのこしたものによると彼はマルクスを科学としては認めず,ただ時代の願望の代弁として,その限りでの社会的事実として観察したにすぎない。ドイツには,その時代の西欧がそうであるように,自由放任学派と講壇社会主義の対立があった。デュルケムは講壇社会主義に近い立場から,A・シェフレ(1831-1903)を発見した。シェフレはドイツの社会有機体説を代表する経済学者であり,社会学者とも言えた。彼はシェフレを擁護する立場から「社会は『市民の算術的総和』に還元できない」と論じた7)。

 ドイツ旅行は決して無駄ではなかった。彼は,自由放任論にも国家主義にも満足できなかった。いわば第三の道を追求した。第三の道とは,人びとの慣習,行動,世論が道徳性をもつという考え方である。それを彼は「社会的

                                           

6)ED., pp.39-42. 7)ibid., p.81.


連帯」と呼んだ。帰国後1887年ボルドー大学でフランス初の「社会学(社会科学と教育学)」講座を担当した。1893年に博士論文をもとに初の大著『社会分業論』を出した。2年後『社会主義論』の講義をおこなった。翌年,ユダヤ人将校が無実の罪を着せられるドレフュス事件がおこったので,救援活動をおこなった。『社会学的方法の規準』1895,『自殺論』1897,そののち,1902年にはソルボンヌ大学に移籍して「教育科学講座」を担当した。そして,フランスにおける社会学と人類学の雑誌『社会学年報』を1898年に発刊した。モースの影響をうけながら書いた『宗教生活の原初形態』を 1912に刊行した。処女作『社会分業論』には,もともと現代社会論として読めるが,そこには高級社会(組織的社会)を低級社会(環節的社会)と比較する試みがすでになされていた。今日,現代社会を扱う社会学と非文明社会を扱う人類学は学問上の分業にしたがって別物となっているが,デュルケムはその分岐の現場に立ち会い,二つの科学を創始した人物なのである。これだけの大きな仕事を果たしたその年に,フランスは事実上モロッコを植民地化した。また,彼は第一次大戦において共和国への愛国主義ゆえに対独戦争を熱烈に支持した。戦争はデュルケムの多くの教え子を犠牲にしたばかりか,息子を奪った。この悲しみのただなかで,1917年に脳溢血のため死去した。モンパルナスのユダヤ人区画に葬られた8)。


2.     『社会分業論』1893について

 ある程度物事に通じている人は,分業について,A・スミスやマルクスの「分業」ないし「社会的分業」という概念を知っているであろう。これは,農業と商工業のような職業分化のことであって,相互に商品交換によって媒介されたものである9)。では,社会分業De la division du travail socialとい



8)ibid., p.722.É. Durkheim, L’Allemagne au-dessus de tout:La mentalité allemande et la guerre, Revue de Métaphysique et de Morale,Vo.23,1915.


うデュルケムの概念は,これと同じものなのだろうか。この問いは,実は第二世代の社会学の誕生の必然性を考察するうえで避けられない。言いかえれば,この点の理解がデュルケムの社会学を理解するうえで決定的に重要である。スミスの「分業division of labor」やマルクスの「社会的分業Division du travail dans la société」とも似て非なるものである。すなわち,スミスやマルクスなど,政治経済学者の考えている「社会的分業」は,デュルケムからすればたんなる「経済的分業」にすぎない。どこが違うかというと,「経済的分業」のばあい,その担い手の間に特別な集合意識は不要である。担い手たちは,交換による利益(スミス)や能力の一面性(マルクス)によっていわば無意識につながりあっている。これにたいしてデュルケムの言う,固有の意味での「社会分業」というのは,たんに社会の中に様々な職業分化が並列的に存在するという意味ではまったくない。

 すなわち政治経済学の「分業」と社会学の「分業」は,言葉は同じでも,集合意識(共同意識)のないものとあるものとの好対照をなしているのだ。このことをデュルケムは「同じ社会の成員たちの平均に共通な諸信念と諸感情の総体は,固有の生命をもつ一定の体系を形成する。これを集合意識または共同意識 la conscianscience collective ou commune とよぶことができる」10)と述べている。

 お互いが仲間意識をもって,連帯して互いに結び合おうという,非孤立的な努力を払って,一体化し,一体性の意識をもつ「社会的労働travail social」を分割したものが「社会分業」なのである。

 しかし,政治経済学の強みは,この無意識的な分業こそが「見えざる手」によって経済を絶えず調整してくれるという発見であった。とすれば,なぜ,デュルケムは分業の識別にあえて集合意識を結びつけるのか,が問われる。しかも,デュルケムはしばしばものごとを誇張して,イギリスには「経


9)A. Simith, Wealth of Nations, 1776,K. Marx, Das Kapital, 1867.                                                           

10)É. Durkheim,DT., p.40,同80頁。


済的分業」しかないが,フランスには「社会分業」があるなどと言うほど,この点を重視していた11)。

 そうすると,デュルケムの場合,固有に「社会的なもの」とか「道徳的なもの」とは,人々をただお金目当てのためや商売上相手を一時的に利用するだけで良しとするような,利己主義の動機でつながりあうような「水臭い」関係ではなく,一緒に仕事をしていくために,君はそこをやってくれ,ぼくはこちらをやるから,というふうな有機的な仕事の分割をこそ指すものだということになる。しかも,それは小さい家族から,工場,果ては国民社会にまで達する集合意識をまとわねばならないのである。

 しかしながら,フランスに限らず,どこの国の発展した資本主義でも見られることだが,資本家,地主,小経営者,労働者など実に多様な利害に分かれて,生き馬の目を抜くような,抜け目のない活力で生きているような人々はあまりにも多く見られる。実際,スペンサーの社会学においては,社会とは(ただ無意識につながっているだけの)経済と同じものであった。だから,デュルケムはスペンサーに対して非常に攻撃的である。デュルケムのみるところスペンサーにおいては「要するに社会とは,諸個人がその生産物を交換しあっている関係状態たるのみであって,経済外の本来社会的な作用がこの交換 échangeを規制するようなことは一切ない」12)のである。スペンサーの言う「自発的協同voluntary


11)   DT.,   pp.266-267,同272-273頁。「とりわけある社会では,環節的類型がなおきわめて顕著であるにもかかわらず,ある分業,なかんずく経済的分業が非常に発達しているばあいがある。イギリスのばあいがそうであるようだ」。デュルケムがイギリスの分業の状態にたいして下すこの皮肉は,われわれがイギリスこそ異質異種分業の社会であることを知っているからこそ,またこの国がA・スミス,H・スペンサー,J.S.ミルを生んだ国であることを知っているがゆえに,環節的類型の語感と著しく相容れない印象をもつ。しかし,ここにはデュルケムがイギリスに対してもっているイメージが関わっている。というのもイギリスはいずれも利己心の交換次元しか扱ってこなかったために,デュルケムはこのことにたいしていら立ちを示しているわけである。英仏のこの対比は,デュルケムが二つの国の帝国主義=植民地主義の基本的性格をしばしば「残酷な帝国主義」(イギリス)と「優しい帝国主義」(フランス)として考えるところまで達する。そのかぎりでフランス帝国主義に対する批判は弱まる。

12)   DT., p.180,同199頁。


cooperation」とは,個別的な個人が私利のためにつながりあっている状態のことであった。スペンサーの『社会静学』1851の想定していた社会の均衡もまた,デュルケムから見ると「社会のない経済」にすぎない。

 いったい「社会学」という同一看板で研究しているスペンサーとデュルケムが,どういう理由で社会学の定義において相容れないか,ということについては,まとめて後述するが,先取りして結論じみたことを言っておくならば,要するに,資本主義そのものがもはや「見えざる手」でやっていけないところまで来ている,という発見がデュルケムの社会学の背景にある。だから,社会とは何かという定義が根本的に対立しあうのは,二人の生きた時代の違いから生まれているのである。およそ,学説の変化や発展というものは,生きた時代の違いからくることが多い。したがって,思想史的な比較を抜きに,社会とは何かという定義のみを対比しても,空虚な空中戦に終わる。生産的な学説史では,このような形而上学的な考察を避けることが賢明である。なぜA氏がa説を言い,B氏がb説を述べたかをその発生史的根拠から考え,社会学の更新の理由を合理的に説明できなくてはならないのである。

 スペンサーが「社会有機体」(1860)のなかで賞賛した人口増と分業の発展も同じである。それは,デュルケムの目をとおして見ると「正常」なものとは言い難い。なぜなら皆がエゴイストであり,共有する道徳などどこにもないからだ。そのような社会は,むしろ「病理」であり,「異常」なものなのである。社会学には他の社会科学とは異なって規normeという重要な概念がある。デュルケムの著作に頻出するこの用語は,正常か異常かという判断と密接にかかわっている。社会の規範normeを構成員がしっかりと共有しているばあい,その社会は正常なnormal社会である13)。

                                           

13)   Ibid.,   pp.596-620,『社会分業論』第1版序論,訳421頁.統計的平均は基準が一元的で,多数が正常で,少数が異常の場合である。これはいわば共時的な軸で考えた場合のことである。しかし社会を観察する場合,共時的な考察だけでは足りない。というのは社会はたえず変化するからだ。ゆえに通時的な軸で正常を判断しなければならない。第一に社会が進化すれば,社会的平均そのものが動くから,正常類型もまた違ったものへ移る。だから,その社会が幼児期,成人期,老人期のどこにあるかを調べる必要がある。第二に,そのうえでもなお一定の正常類型に信を置けない場合がある。それは健康状態の特徴が衰退と形成の入れ替わりの時期にある場合だ。過去の健康状態は壊れたのに,新しい変化に適応した健康状態がまだ固まりきってない場合,何が正常かをきめるのは簡単ではない。デュルケムは,新道徳は過去の道徳が果たしたのと同じ機能を代わって遂行しなければならないのだから,その代行を果たしえない間は正常とは言えないとみている。新旧道徳の機能の比較によって,正常か異常かを判定するというのがデュルケムの研究態度であった。しかも,かれはまだこれでも正常類型が完成度に達したか否かは確かではないと述べている。このように、共時的な判断と通時的な判断を社会状況に応じて使い分けるのがデュルケムのやり方であった。道徳的秩序に敏感な科学を樹立するために,こうした工夫が模索されたのである。


 まさに,デュルケム『社会分業論』が問うのはこの正常/異常なのである。彼によれば,「経済という集合生活の全領域は,その大半が規範的準則régleの作用をまぬがれてしまうような結果に終わっている。」具体的には①商工業恐慌と倒産,②労資の階級対立とストライキ,③科学が専門化しすぎて統一性を失っていること,をデュルケムは「病理」だとみていた。


14)   Ibid., p.28,同2頁。

15)   アノミーとは a-nomie,すなわちa-normalから転じたもので,正常の否定,異常である。もとは古代ギリシア語の a-nomos,法なき状態に由来するが,『社会分業論』で初めて使われ,次に『社会主義論』で使われ,『自殺論』で決定的に有名になった。


「経済界の悲惨な光景が呈する,あのたえまなく繰り返される闘争やあらゆる種類の無秩序がよってきたるべきところは,まさにこのアノミー(無規範)状態である。というのは,たがいに対峙している諸力を抑制するものも,それらに守るべき限界を指示するものも,いずれもまったく欠けているので,これらの力は際限なく伸びていこうとするし,互いに激突して,圧しあい,つぶしてしまうことになるからである。いうまでもなく,ついには最強者が最弱者を圧しつぶしてしまうか従属させてしまう結果となる」14)。

 ここに「アノミーanomie」という『自殺論』で有名なあの概念がすでに使われていることに注意してほしい15)。アノミーというのは,ふつうの辞書には載っていない。デュルケムの造語である。類語はanomalieで,変則とか異常をさす。アノミーは道徳的なアナーキー,規範的なものがまったく消え失せた状態,つまり異常のことだ。むろん,個人の場合だけでなく,現在の経済の状態もまた,彼の社会学からみれば「異常」である。目の前の現実をどういうものとして特徴づけるかというのは,科学としての社会学にとってとても重要な点である。よく私たちは「ふつう」ということを重んじる。

 「ふつうに学校へ行って,会社に勤めるようになる」と言う。だから大量にみられる,標準的な現象を「ふつう」と呼ぶ。ここで,日常語の「ふつう」は,正常というニュアンスを含んでいる。しかし,デュルケムは,たとえ大量に,標準的にみられる現象であったとしても,それらの全体が異常であり,病理だと言えるものはあるとみている。社会学は,このように常識人とは異なる形で,正常/異常を弁別できる学問である。しかし,この判断基準は独断ではないのかという疑問をもたれる人がいるだろう。実証主義といいながら勝手な独断で学問をつくってもらっては困る。ところが,デュルケムはきちんと根拠を準備している。

では『社会分業論』は,いったいどういう手続きによって正常/異常を弁別したのであろうか。それは,けっきょくのところ,経済は異常であり,社会が正常だという,彼自身の全体社会(経済/社会の区別と全体)観によるものである。デュルケムは,後続の少なからぬ社会学者が共有している「経済と社会」という区別を非常にクリアーに提出した。第二世代の社会学者,ホブハウス,デュルケム,ウェーバーに共通するのは,先行するスペンサーに代表されるような自由放任主義の考え方からいかに脱却できるかという課題であった。スペンサーは『社会静学』『社会学原理』などを書いて19世紀を席巻した人であるが,彼の言う社会とは経済のことであった。なぜなら,スペンサーは利己主義が社会をつくる力をもつと信じて疑わなかったからだ。

 ところが,利己主義を放任することは,18世紀以来健全ものであり,解放的ですらあったのだが,19世紀後半の西洋では,反対に様々な社会問題の原因となるものとみなされた。そうなると,社会学の根底には常に「エゴイズム問題」の告発という関心が隠れているのである。

 図式的に整理すれば,(1)利己主義の基礎には私的所有があるから,私的所有を維持するためにも利己主義を否定すべきではない。(2)私的所有は,いまや万病のもとであり,利己主義とともに廃止するしかない。これが社会主義である。これらとは違って(3)利己主義はすぐれて道徳や倫理の問題であるから,私的所有の廃止までいかなくても,なんとか道徳の再建で資本主義の秩序を維持できる、という3つの異なる立場ができる。19世紀末の西欧にはこれら三つの考え方が正当を争っていた。

 第二世代の社会学者たち(ホブハウス,デュルケム,ウェーバー)は,濃淡の差を含みつつ(3)を共有する。ここに,旧自由主義でもなく社会主義とも異なる,学問としての社会学の思想的立場をかなりはっきりと言い当てることができる。だから,どれほど,科学性を自称しても,社会学は両極の中間にあるから,完全にイデオロギーから自由であることはできないのである。

 デュルケムはこの中間的立場を概念化するうえで最も鮮明に「経済と社会」という区別を打ち出した。社会学者は第二世代以降,経済という領域から区別された「社会」に重大な関心をもっている。経済はエゴイズムの領域である。これにたいして社会は,経済とは違って反あるいは非エゴイズムの領域である。この経済/社会という構図は,もしもこの区別が成り立たなければ,社会学が成り立たないほど重要な意味をもつ。なぜならば,社会学は私的所有と市場を,外見上いかに強く非難しても,社会主義ほど断固としてそれを廃棄するとは言わないが,社会主義が過剰に出てくるときには個人の自由が失われてはならないというかたちでブルジョア社会を擁護するからである。

 だから,「経済と社会」という区別は,経済と社会が対立するという意味を含むけれども,経済と社会を相互補完的に考えるということでもある。この意味で『社会分業論』は,新しい社会学を定礎したのだ。


 デュルケムに代表されるように,社会学者が共通に考えているのは,経済というのはエゴイズムの領域だという断定である。これにたいして,社会はずっと多義的なものである。その多義性をどう把握するかは社会学者によって様々であるが,デュルケムの場合,社会は経済の外側にあって,まったく対照的な法則に従っている。つまり,経済/社会は,エゴイズム/非エゴイズム,没規範的/規範的,非道徳的/道徳的な二つの別個の領域なのである。

ここでちょっとしたエピソードをさしはさみたい。私が2000年にヴェトナムのホー・チミン市に行ったとき,ある女性社会学者と話をする機会があった。ヴェトナムは社会主義国である。そういうお国柄でいったいどういう人が社会学を研究しているだろうかと私は強い関心をもった。彼女は環境社会学の専門家だった。当時街を歩くと夥しい量のモーターバイクで道路は埋め尽くされている。ライダーは皆サングラスとマスクをつけているし,歩行者もマスクをつけていた。政府はドイモイという経済開発路線をとっている。モータリゼーションはその一環である。彼女は,経済開発の裏で起こっている環境破壊を研究しているのであった。ヴェトナムで社会学者として生きていくのには知恵がいる。政府のすすめるドイモイと彼女の社会学は,対立とまではいかないかもしれないが,ある緊張をおびていると私は思った。日本では福武直(1917-1989)という社会学者が,政府の「経済開発」にたいして「社会開発」という用語を立てて,バランスのある日本社会の発展の在り方を呼びかけたことがあり,彼女はそれを連想させた。話が終わって,別れ際に私は「あなたの社会学の理論ベースにあるのは誰ですか」と尋ねた。すると,「デュルケムです」と即答した。「経済と社会」という区別は,ヴェトナムの地でこういうふうに生きているのかと私は感動を禁じえなかった。

 もとに戻る。デュルケムによれば,無政府的な経済競争は,異常な状態である。このような異常を停めるためには,「市場に逆らう国家State against Market」が成立しない限り,無理であろう。

 そういう意味で,『社会分業論』のデュルケムは,集合意識=共同意識=道徳意識を人々が正常に持つようになれば,こうした病理を直すことは可能だと考えるのである。逆に言えば,デュルケムは,現在無規制のまま放置されている経済がいずれは規制(réglementation)されるべきであるという。では,誰が,どうやって規制するのか。デュルケムは「規範的準則」「道徳的準則」が,と応える。

 このあたりが,私のような者からすると,デュルケム社会学がなんだか非常にもどかしい,中途半端なところである。つまり,誰がそれをやるのかということを彼は指し示さないのである。誰でもよい,誰かが社会の要請をみたすべきだということになる。あまりに道学者的である。それでも仮にデュルケムの言い分を認めるとして,ではどうやって「道徳意識」を変えるのか。「経済的機能は,いまや大多数の市民を吸収しつくしているがゆえに・・・諸個人の生活の最大部分がいっさいの道徳からの影響を受けないままでうちすぎてゆくからである」16)と彼は言う。まったく非道徳的な人びとが支配的な状況で,いったいどうやって経済的アノミーを是正できるのか,という疑問を誰しも感じるだろう。

 だが,いったいどうやって(ハウツー)という問題はいわば入口の問題に過ぎない。もっと本質的な問題がある。それは,なぜという点にかかわる。デュルケムはいろいろな利害関係者を観察して皆アノミー(無規範状態)に陥っていると言う。ここでデュルケムに問いかけたい。しからば,市民が皆無規範化しているというのに,なぜあなただけは規範的なのか,なぜあなたはアノミーを免れえているのか。なぜ,異常の外に出ることができたのか。人々は,「病理」をまるで「正常」であると思っているかのうように生きているとデュルケムは言う。ではなぜ,社会学者たるデュルケムだけが大衆の感覚と真逆の感受性をもちうるのか。私は,この感受性を彼がどうやって


16)   DT, p.Ⅳ,同第二版序文,3頁。アノミーはしばしばアナーキーと互換的である。


獲得したのか,それを知りたいし,知らなくてはデュルケムを学者として根元から把握できないように思う。

 『社会分業論』は素晴らしい本である。それは経済とは異なる社会という領域を世界で初めて定礎した。だが,私からするととても大きな謎がある。

 『社会分業論』は,彼の判断基準を前提にしておいて,機械的連帯よりも有機的連帯が優越することや異常な分業と正常な分業について実に「客観的」に叙述しているのである。ところが,この「客観的」記述が本当はおおいにクセモノである。いったい何が正常で,何が異常であると,誰が決めるのか。なぜデュルケムは物事の正常/異常を決める権利をもつのか。しかも,学問がいまや科学の名において,言い換えれば実証主義を逸脱せずに善悪を決める権限を持つというのだ。その判断基準の根拠は何か。これは統計で応え得る問題ではない。数が多ければ正常と言えない何ものかをデュルケムは心に密かに抱いていることは間違いない。ところが「密かな規準」が『社会分業論』では覆い隠されている17)。私の考えでは,彼の判断基準が何かを知るためには,『社会分業論』と同年に出た『社会主義論』を見なくてはならない。そこにおいて,デュルケムは自分の判断基準を赤裸々に語ったのである。


17)   第1版序文問題において,正常と異常をどのように根拠づけるうるか,検討している。それを要言すれば,①正常/異常は社会類型ごとに異なること,②ある社会(類型)で平均的なものは正常であり,平均から逸脱すれば異常である。さらに,③正常/異常は,その社会の年齢(幼児,成人,老人)におうじて変動する。④急激な社会変動が起こると,古い健康状態は廃れ,新しい健康状態が未形成ということが起こるが,この場合も過去のデータと比較して平均的な正常さが機能するのと同じように新しい健康状態が機能すると言えるならば正常と言える。デュルケムのこうした実証主義にもとづく正常/異常の基準論は『社会学的方法の規準』でも再論される。筆者はよくわからないが,規範的なものを統計やデータで根拠づけるというのがデュルケムの立場なのであるが,これが果たして可能なのか,いまひとつ説得的でないように見える。デュルケム的な見地からすれば,完全雇用を規範として失業率を見てはならないことになるが,そうであろうか。交通事故死や戦死者の数は例年並みであれば正常なのか。けっきょくこうしたことは,個人の生命の重みをどう考えるかということに帰着する。デュルケムは広い意味では個人主義に肯定的であるが,データ処理過程では個人論を一切使わない。これが私の違和感のもとにある。個人の自立的生命への畏敬をどの程度考えていたのか,という点である。


3.     『社会主義論』1895

 デュルケムは1886年にベルリンに旅行にでかけた。そこで講壇社会主義,マルクスの文献,ドイツ社会民主党の活動を見た。社会学は社会主義理論とは別のものである。だが,第二世代の社会学者たちは,その違いを常に正確に描こうとした。デュルケムも,この時の成果を1895年に大著『社会主義』として出版した。

 この本で,彼はサン=シモン(1760-1825)からヨーロッパ全体に広がる多種多様な社会主義を見て,それらの共通点をまとめた。

 第一に,すべての社会主義教義は,例外なく,現在の経済機能の分散状態に抗議し,その転換を,突然に,あるいは漸進的に求めている。経済的分散とは,①個別企業が互いに独立していて,なんら共通の道徳的目標をもたないということ,および,②経済を構成しているのは「交換者」であって,彼らは国家(中央規制機関)が定期的に立ち入ることのできない特別の領域を形成している。

 第二に,社会主義とは,経済機能の拡散した状態を組織化された状態へと,突然あるいは徐々に移行させる傾向である。この意味で,社会主義とは,多かれ少なかれ,「経済力の社会化」を目指すものである。

まとめて言えば,「社会主義は・・・現に拡散的である経済的諸機能のすべて,あるいはそのうちの若干を,社会の指導的意識的・中枢部に結合しようとするすべての説」を意味する。

 さて,このようなデュルケムの要約は一見すると必ずしも独創的ではない。しかし,デュルケムの底意に気づかねばならない。とくに『社会分業論』との関係で言うと,デュルケムは決して社会主義者ではないが,そうであるにもかかわらず,ヨーロッパに蔓延しつつある社会主義を自分の道徳主義に利用したいと思っていた節がある。デュルケムからすれば,社会主義者は「経済機能の分散」を「経済力の社会化」に置き換えようとしているのである。社会主義は「社会の指導的中枢部」すなわち国家によって経済を制御するという思想だとデュルケムは見た18)。


 デュルケムの社会主義観は,基本的に市場/国家,私的領域/公的領域という,いわゆる近代の二元論の枠組内部で考えられている。二元論の枠組み内では,市場が強ければ国家が弱まり,国家が強ければ市場が弱まる。こうした理解自体が,社会主義を近代主義的に理解している証拠である。20世紀マルクス主義の自己理解でも,社会主義とは国家による無政府性の廃止である。ここでは十分論じることはできないが,基本的にデュルケムが勝手に社会主義を歪めて理解したというわけではない。20世紀マルクス主義とデュルケムが基本的に同じような枠組みで社会主義を理解していたということが,実は本稿では批判的な対象化の素材となる。市場/国家をそれぞれ無政府性/計画性という二つのモメントでつかみ,前者に抗して後者を強化すべきだと考えるところから,理論の退廃が起こった。そもそも論に立ち返ってみた場合,マルクスの理論体系は,近代哲学における公私二元論を労資二元論によって超克するというものであった。社会主義とは,マルクスによれば,私的労働が直接に社会的労働になるところに根拠をもつ。だから,計画性は国家にいきなり割り振られるのではなく,直接的に社会化された労働に発芽する。公私二元論が労資二元論によって壊されるというのは,国家論を導入する以前の論理次元において理論化されねばならない。すなわち,マルクス自身は計画性の主体が,労働の社会化を担う労働者自身であって,「国家」ではないということを押さえている。労働がますます直接的に社会化され共同的労働になる。とはいえ,労働の社会化はあくまでも資本のもとでの社会化にすぎないから,資本の専制を壊すことで初めて労働のコンビネーションをアソシエーションに転化させることが課題である。労働を担う労働者自身が直接的に社会化された労働を自治する,という理解はマルクスの固有のものであって,その補助的道具として国家が位置づけられる。20世紀


18)Durkheim,, Le Socialisme,  édité par M. Mauss, Alcan, 1928.



マルクス主義やデュルケムにおいて欠けていたのは,こうしたマルクス理解であった。この意味で,デュルケムは20世紀マルクス主義と同様に,マルクスを読めていない。この点で「社会的所有と民主主義」(1885)のデュルケムが「私的所有」を「個人的所有propriéte individuelle」と言い換えている点にも,マルクスの「個体的所有の再建」を読み取れなかったかれの限界が現れている。

 ともあれデュルケムは,通俗的な公私二元論的な社会主義観を前提にして規範あるいは「規範的規制」,「道徳的規制」を国家の次元に求めたのである。だからデュルケムは「このような革命は,深遠な道徳的変革なしには起こりえないことを,私たちは今や理解している。経済生活の社会化とは,経済生活の中で依然として優勢を占めている個人的で利己的な目的を,真に社会的で,したがって道徳的な目的に従属させることを意味する」と力説した。

 デュルケムは,自らは社会主義者でもないのに,どうして『社会主義論』という大著を書いたのだろうか。それは,まさに社会主義者たち自身の求めているものが,実は道徳的変革だということに無自覚であるからだ。これは,ヨーロッパの一部で流行っていた「歴史的必然」の信仰にたいして一撃を加えただろう。資本主義は必然的に社会主義に移行する,だから待っていてもそうなるという理解である。これが間違っていることをデュルケムは学問的に言いたかった。そしてこの目的を達成するために『社会主義論』を書いたのである。

 より一般化していえば,社会主義とは経済生活における無規範を是正するべきもの,経済を再規範化させるものである。経済/社会,非道徳的領域/道徳的領域の対照を概念的にはっきりさせ,そのうえで,社会が経済を指導すること,あるいは道徳が非道徳を包摂することを学問的に主張することができる。このことを言おうとしたのが彼の社会学なのだ。このように考えていくと,デュルケムは社会主義と一線を画しながら,しかも,社会主義が直面

している問題の本当の回答が道徳的次元にあるのだということを学問的外観によって,客観的に高い所から見下ろすことができる。学者としてのデュルケムは,まさに社会主義が一定の現実的要素となっておればこそ,そこに別の回答を与えることができるのである。社会主義を押し上げる力を利用して,しかもそれと一線を画し,別の方向へ転轍させようという彼の野心はたいへんなものである。


4.「交換者 échangist」から結社的人間へ

・・・資本主義的秩序の柔軟性

 『社会分業論』『社会主義論』の二つの著作で非常に注目すべき概念がある。それは「交換者 échangist」の概念である19)。もともとから言えばこの概念は経済学者が使う概念である。王や為政者が特許を与えたり,国家財政のために民業を圧迫したりしてきた。これに反旗を翻したのが「交換者」であった。「交換者」こそが,政治と経済が未分離な前近代社会を打倒して出てきたのであって,こういう人間類型なしに商品交換は自律的に展開しない。だから,「雇主と被用者,労働者と企業主,競争しあっている企業


19)なぜデュルケムが「交換」という概念を重要視するかは,彼の反功利主義的態度と密接に関わっている。スペンサーが「交換」にもとづいて社会を説明したとすれば,「交換」にたいする別のもの,あるいは交換を制御する力をもっと上位に求めなくてはならない。だから,デュルケムが「道徳的なもの」「社会的なもの」をシャープに打ち出せば打ち出すほど,「交換」との対立を論じることができる。このことが「契約の非契約的前提」という有名な概念と関わっていることは言うまでもない。しかも,注目すべきことに『社会分業論』にはすでに「交換」とは異なる「贈与」への注目がある(田原訳123頁)。モースは商品交換と異なるカテゴリーとしての贈与論をまとめるが,これは全体としてデュルケムーモース系の贈与/交換論になる。デュルケムもモースも交換を規制するのは国民国家であると想定していた。二人はフランス人類学の祖となるのであるが,フランスのモロッコ支配を含めて,フランス帝国主義に対する立場は非常にあいまいで,場合によっては支持している。

Durkheim, É, “L’Allemagne au-dessusde tout” : la mentalité allemande et la guerre, Gallica, Premiére publication la Librairie Armand Colin:1915.Gallica.

「ドイツは何よりも優越する」(1915) は,デュルケムがドイツの歴史学者トライチュケ(1834~1896)の思想が,ドイツおよびドイツ人の精神構造を異常へと導いたことを論じる。デュルケムの分析においては,ドイツが市民社会の同意を必要としておらず(国家はブルジョア社会の上に位置づけられ),ハーグ条約など国際法を無視し,「天命による覇権」を求めないという特徴をもつ。この批判は,市民社会の同意にもとづき,国際法の範囲を考慮し,天命による覇権を求めるならば,フランスの国家の行動は完全に合理的かつ正常であると暗に主張している。余談であるが,近年評判の柄谷行人氏の交換様式論について別途考えるべきであるけれども,本稿に関わる限りで言えば,その論調は基本的にデュルケム=モースの系譜のものである。つまり交換論は,もともと流通主義的な偏向からできあがっており,柄谷氏の場合もその特徴を共有していると言える。デュルケム,モース,柄谷らはたとえいかに社会主義に対して親密な態度をとっているとしても,生産様式における労働の社会化論の意味を見落とすという共通性をもつ。生産様式論が抜けると,資本の私的労働がますます社会的労働として組織化されるという矛盾,資本が資本の桎梏になるという矛盾を理解できなくなる。そこから出てくるのは,宗教や道徳の復権を課題とする様々な「高次復権論」である。20世紀マルクス主義を超克するという看板で柄谷理論は登場したが,実際のところは19世紀末のデュルケム社会学の焼き直しという側面をもつ。


家たち,企業家と大衆」(第二版序文)これらの人々は,皆多かれ少なかれ「交換者」になった。

 ところが,デュルケムによればまさにこの「交換者」は没規範的,非道徳的であってよいとされているから,経済的な利害闘争,経済恐慌,労資対立はとめどもなく激しくなり,社会を無規範的,無道徳的にしてしまった。社会主義者でさえ「階級闘争」をやれと命じて,道徳などそっちのけで闘争をやっているではないか。

 『社会主義』1895-6でデュルケムは,社会主義とは,国家という規制機関が定期的に立ち入ることができない交換 échangeの領域を社会化する思想とみなした。だが,自分自身も「交換者 échangist」に対して大いに疑いの眼差しを向けていた。たとえば『社会分業論』で「交換という事実そのものにおいては,多くの当事者はたがいに外面的な接触にとどまり,取引が済んでしまうと,各人はすぐさまもとの自分(エゴイスト)にたちかえってしまう」,「分業が連帯をつくりだすとすれば,あの経済学者たちが言っているように,分業はただ各個人を交換者 échangistとするばかりではない。分業が人間たちのあいだに,持続的に互いを結合させる権利と義務のまったき一体系を創出するからである。社会的類似が,それを擁護する法と道徳とを生み出すのと同様に,分業は,さまざまの機能の平和で規則的な協同(コルポラシオン)を保証する準則を生み出す」20)。

 ところで,大革命1789以来のフランス近代の発展というロングスパンでみたとき,デュルケムの社会学はどういう人間論の転換に立ち会うものであろうか。それは,一言で言えば,<交換者>から<結社的人間>への転換である。フランス革命は,教会やギルド,同業組合corporationsなど個人と国家の中間にある旧中間集団を一掃した。旧中間集団こそが封建制の腐敗の大元だったからだ。1791年に制定されたル・シャプリエ法は中間集団の一掃を目標に制定されたものであった。その第1条は「同じ身分・職業の市民たちのすべての種類の同業組合の廃止は,フランス憲法の根本的基礎の一つであるから,それを事実上再建することは,いかなる口実・形式のもとにおいてであれ,禁止される」と記す。これは,一方の極に孤立した個人(私人)を置き,他方の極に国家を置き,その中間にはいかなる集団も介在できないという公私二元論の純粋な表現である。

 ところが,フランスにもイギリスと同じように産業社会が発展し,近代的労働者が育ってくると,彼ら/彼女らは孤立的に闘うのではなく,労働組合をつくって,集団的な売買bargainingを試みようとする。しかしながら,公私二元論を原則とするフランスは,ずっとル・シャプリエ法を根拠に労働者の団結や労組を認めなかった。しかし,旧中間集団と新中間集団は別物である。後者は労働者の不利益を防止するために出現し,ますます力を持つようになった。それゆえ,ついに1884年,ル・シャプリエ法を廃止すると同時に職業組合法で職業組合syndicats professionnelsを合法化せざるをえなくなった。これを受けて1895年にはフランス全国労働総同盟CGTが結成された。1901年には,届け出なしに誰でもが自由に結社をつくる権利を持つとする結社法(アソシアシオン法)も成立する運びとなる。


20)DT, p.180,p.403,同199頁,389頁。


 デュルケムが『社会分業論』を書いたのは,まさにこのような時期であった。すなわち,フランスの原初の二元論がぐらつき,中間集団を積極的にみとめる途上でのことであった。これによって,<原子的個人─国家>という二元論から<結社的個人─中間集団─国家>という三層構造(修正された二元論)へフランス社会は大きく転換した。デュルケムは,こうした社会史上の動きを見逃さなかった。「われわれが職業集団groupe  professionelのうちにみるものは,一個の道徳力である。この力によってこそ,個人のエゴイズムを抑制し,労働者のうちにいきいきとした共同連帯の感情をたやさぬようにし,弱肉強食の法則が商工業の諸関係にこれほど露骨に適用されないようにすることが可能なのである」21)。職業集団は「犠牲と献身の精神」22)をはぐくむというのは,ル・シャプリエ法以降の動きという歴史的裏づけをもって言えることである。デュルケムがスペンサー流の「自由放任」を「異常」と判断するのも,こうした社会情勢の変化に裏づけられていた。社会変動論を実証主義的に考察することによって彼の価値判断は支えられていたのである。

ただし,デュルケムがいう「職業集団」は労働組合と同一ではない。むしろその反対物である。彼は階級的な組織ではなく,資本家と労働者が同一の専門職として協調する組織を道徳力の源泉とみなしていた。「大工業の体制下においては,企業家entrepreneuerが労働者ouvierと一致して活動することを心得さえすれば,企業家は労働者に依存すること大である」23)というのだから,階級は互いに利己心を抑制し,利他主義を強めて協調しなくてはならない。彼の言う道徳力は,資本家と労働者がむやみに争うのではなく,たとえば鉄鋼業ならその分野の専門人として尊敬しあうのでなければならない。デュルケムが主張した職業集団が現実に存在したかというと,どうやら


21)   Ibid., pp.Ⅺ-Ⅺ,同9頁。

22)   Ibid., p.XV,同11頁。

23)   Ibid., p.387,同377頁。


ほとんどその実例はないらしい。実際,フランス労働総同盟や財界の組織化が進んでしまうと,職業集団の構想は実現しなかった。ただし,フランス総同盟は非常に強い反戦平和組織であったにもかかわらず,いざ第一次大戦が起こると,ドイツに対して愛国主義的に戦うことを宣言し,軍需産業や兵站のための労働を引き受けていった。デュルケム自身は第一次大戦へのフランスの参戦を熱烈に支持したのであるから,労働組合が職業集団化する顛末を観察して,喜ばしく思ったに違いない。フランスを離れて言えることは,20世紀の労働運動において労組の成立を前提にしたうえで,労資協調主義が広がったことである。このことを見ると,デュルケムの職業集団論が根も葉もない空想であったとは言い難い。

 こうして,職業集団の超階級的特質からもうかがわれるように,結社的人間が連帯する社会は,経済を規制するものではあるが,決して私的所有を廃棄した社会を目指すわけではない。ぎゃくである,私的所有を前提し,そこから生まれる弊害やひずみを規制を受けいれて抑えるのである。そのことによってかえって私的所有は延命されるのだ。公私二元論から三層構造へ移ったとしても決して公私二元論という近代の枠組みは廃棄されるわけではない。職業集団を含む中間集団は,公私二元論の枠内で,市民社会をただ原子論的に放置せず,また国家主義に走ることもなく,道徳的,規範的な力によって市場を規制するのである。社会による経済の包摂は不断の道徳力の向上の過程である。

 だから,デュルケムが社会主義と社会学を厳密に区別したということが意味するものは,資本主義の秩序は,19世紀中盤までそうであったようにもっぱら経済的秩序だけで自己完結的に調整できる時代が終わり,社会のもつ道徳的力によって抑制や規制をかけていけば,なんとかまだ長持ちするということであった。だからデュルケムは言っている。「社会の秩序や平和は,まったく物質的な原因からは,盲目的なメカニズムからは・・・自動的にもたらされることはない。秩序は道徳の所産である」24)。

 ここで道徳が秩序をつくるという言葉に多少の違和感を覚える人がいるかもしれない。道徳とはなにか教科書に書いてあるような教訓めいたことではない。もっと実践的である。エゴイズム(私利私欲)の抑制であるというのが彼の言わんとするところだと考えれば,道徳は一般的利益を志向するものと言い換えることができる。私は,冒頭においてデュルケムの社会学が「第三の道」であると述べたが,それは私的所有の排他的擁護や根本的廃止という基準のいずれの極論も退けるということであって,この位置取りは,折衷的であるかもしれないが,十分状況にフィットしていた。というのも,「第三の道」は,20世紀西欧で主流となった。21世紀になって新自由主義のよる福祉国家の縮小化が続いているが,「第3の道」は「社会のバリケード」をそれなりに築いたから,民衆の支持を得て残っており,むしろ現代の新自由主義に対抗する遺産として再評価されているからだ。

 経済/社会,エゴイズム/非エゴイズム,没規範的/規範的,非道徳的/道徳的という二項対立を導入することによって,デュルケムが発見したのは,資本主義という秩序は,決してエゴイズムに凝り固まったものではなく,中間集団に依拠しながら国家に反映される道徳的力によって規制され,介入を受けいれ,ある程度抑制されうるものだということである。そうなれば,つまり一般的利益の方向へ誘導してやれば資本主義は,かつての自由放任を卒業して,もっと柔軟に生き延びていけるのだということを彼は社会学的という学問の中を再構成するなかで発見したのである。

 「社会の中枢」が経済を規制するというのは,現代の言葉で言いかえれば福祉国家にほかならない。具体的にデュルケムは「年少者教育の監督,公衆衛生の保護,貧民救済の(公的扶助)の運用の監督,運輸交通手段の管理な


24)   Durkheim, Leçons de sociologie : physique des mœurs et du droit , Presses universitaires de France 1950,pp.17-18.,デュルケム,宮島喬,川喜多喬訳

『社会学講義』みすず書房,1974年,46頁。


どに対する配慮は,すこしずつ中枢機関の活動領域に入ってくるようになった」と言う。しかし,国家がなにもかも一元的に統制するところまでは行かない。彼は注意深くこう言う。「正常な場合には,国家が,社会のどんな規制機関をもことごとく自己のなかに吸収しつくすなどと,われわれはいうつもりはいささかもない。ただ,国家は,自己の諸機関と同質の諸機関,つまりは一般的生活を律する機関だけは,これを吸収する。しかし,経済的機能のような専門的機能を管理する諸機関は,国家の吸引力の領域外のものである」25)。これは公私二元論の枠内で国家機能の拡大をデュルケムが選んでいるひとつの証拠である。

それは,第三の道である。自由放任と社会主義の中間を求めるならば,私的所有を踏まえながらも,国家の介入を認めていかねばならない。しかし,国家は大きすぎることもなく,小さすぎることもない程度に限定される。すると,公私二元論の私的領域はデュルケムにおいて集団論をつけ加えることになった。市民社会は,市場のみでなく,市場そのものが組織化される次元をつけ加えるようになるから,多元的な中間集団(そこに労資協調会もある)のふくらみをもつことになる。

 古典的自由主義にとって,国家から自由な個人は絶対的なものであった。デュルケムは近代において「個人を一個の神」とみなすこと,あるいは「個人崇拝」は捨ててはならぬ価値であることを,あらゆる自由主義の諸形態とともに,認めている。しかし,古典的自由主義に逆らって,かれは「国家が介入する必要」を肯定した。これは矛盾ではないのかと人は疑うかも知れない。しかし,デュルケムによれば,それは杞憂にすぎない。なぜなら,現代国家はまさに個人を一層発展させるために機能するからである。あまり目立


25)   DT,p.200,同216-217頁。同様のことを『社会学講義』は語る。「労

働協約,賃金配分,産業衛生,婦女子労働のいっさいにかかわること,等々の一般的原則が,産業に応じて多様に規定される必要があるが,国家には,この多様化をなす力がない」。Durkheim, É, Leçons de sociologie : physique des mœurs du droit, Presses universitaires de France 1950,p.50.デュルケム,『社会学講義』,74頁。


 たないことであるが,デュルケムはここできっぱりと天賦人権論を捨てたのである。自然が固有の,譲り渡すことのできない人権を個人に与えたという考え方を「個人の諸権利が個人に内在的だとする仮定」だとすれば,いまこそこの仮定を放棄しなければならない。「国家の諸機能が拡大しても,そのためになんら個人の地位を縮小することがないこと,なぜなら,個人はある意味では国家の所産そのものであり,国家の活動とは本質的に個人を解放するものである」ことを理解すべきだというのが彼の見解であった26)。

 すなわち,客観的にみて,資本主義は自由競争段階から独占資本主義的段階へ移行しつつあった。国家に絞って言えば,夜警国家から福祉国家への移行である。私の言葉で言うと,産業資本主義から国家介入的資本主義への移行においてデュルケム社会学が登場する。『社会分業論』『社会主義論』でデュルケムは,資本主義の段階的移行を社会学的に表現したのである。ずっと後になって,デュルケムの鋭敏な観察は経済学にもうけいれられた。M・ケインズ(1883-1946)が世界大恐慌を前にして「資本主義を賢明に管理する」と論じたのはそれである27)。経済学と社会学は,犬猿の関係にあるばあいがあるけれども,同時に学びあう関係でもあるのだ。


5.福祉国家と帝国主義の関係

 デュルケムは福祉国家をめざした。彼は,自由放任に反対するが社会主義にも反対した。だから,彼の福祉国家論は,労資協調を伴う一種の城内平和論たらざるをえない。

 ところで,ここで私は新しい主題を設定しよう。それは,フランスの植民地主義(もっと一般的に帝国主義と言い換えてもよい)の発展史にたいしてデュルケムはいかなる態度を示したか,という問題である。これは社会学と人類学の両方にまたがる大きな問題でもある。近年,植民地主義史または帝


26)   Durkheim, Leçons de sociologie, pp,70-71,同91-93頁。

27)   M・ケインズ「自由放任の終焉」『ケインズ全集9』東洋経済新報社,1981年。


国主義史の研究は非常に活発である。

 それによると,フランスの帝国主義はいくつかの時期に区分される。(1)植民地の前史(1795-1850),(2)植民地の形成(1850-1900),(3)植民地からの収奪(1900-1920),(4)植民地体制の完成(1925-1948),(5)植民地体制の崩壊(1948-1954)がその各段階である28)。この区分に従うと,デュルケムは第二期から第三期の帝国主義形成期の真只中にいた。では,彼は,帝国主義についてどう考えていたのだろうか。

ここにL・T・ホブハウスとの違いが出てくる。ホブハウスは競争より協調の立場であって,それは国内と国際を貫く原理である。しかし,デュルケム(およびモースなどデュルケム学派)には,国際平和論や植民地主義への反対の態度は必ずしもはっきりしない。むしろ,彼の福祉国家論は帝国主義(植民地主義)と表裏の関係にあったといえば言い過ぎだろうか。たとえばデュルケムは「生存競争に対して可能な唯一の解決策は,専門化ということだけなのではない。そのことを忘れてはならぬ。そこにはなお,移民 emigration,植民地化colonisation,さらに闘争のはてしない不安定な生存へのあきらめ,そしてついには自殺その他の手段による弱者の完全なふるい落とし,といった解決策もある」29)と述べていた。専門化というのは労働が細かく分割されることだから,そうなればなるほど同一労働で競争しあう人々の圧力は減るということである。しかし,それで足りなければ,移民と植民地化が必要になるとデュルケムはいうのだ。フランスの城内平和を保つためにならば,問題を植民地側へ押し付けても構わないという態度がうかがえるように思う。おまけに自殺すら解決策の一つだという。だから,デュルケム社会学が,社会問題をうけとめて,反功利主義的な思想をもって登場したからと言って,資本の運動から生まれる戦争と植民地主義への認識は弱い。手


28)   竹沢尚一郎『表象の植民地帝国:近代フランスと人文諸科学』世界思想社,2001年。

29)   DT, pp.270-271,『社会分業論』276頁。


放しの礼賛は慎まねばならない。デュルケムの実証主義は,フランス資本主義の帝国的秩序維持という価値判断を排除するものではなかった。

 それだけではない。彼の「社会分業」という概念自体が,ある意味では帝国主義を前提にするものであった。フランスのように発展した資本主義が外の「低級社会(環節社会」との間でたんに「経済的分業」をするだけでは,十分な意味で「社会分業」をしているとは言えないと強調するのも植民地主義批判の弱さからくる。デュルケムは宗主国側の植民地主義が利己心に応じていろいろな社会問題を生み出すことをよく知っていた。とくに,ライバルであるイギリスの植民地主義は,露骨な搾取によって植民地の原住民を奴隷扱いするものだった。だからイギリスと植民地の関係を彼は「どんな紐帯によってもひとつになれない諸民族,ときとしてそうとうに敵視しあいさえする諸民族がその生産物を交換しあったからといってこれらの事実はたんなる共棲関係しかよみとってはならないのであって,それは分業とは縁もゆかりもないのである」30)と特徴づけた。このばあい,フランスの帝国主義は,植民地との間に(自由・平等・友愛の)共同意識をもち,イギリスに比べてよく啓蒙された「優しい植民地主義」であるという自負がある。

 「低級社会」の原住民がフランスという宗主国にたいする祖国意識をもち,忠誠を誓うときに,はじめて「うわっつらの現象」ではない「社会という段階の社会」31)が訪れる。この仲間意識を低級社会に持たせることはデュ

 

30)Ibid., p.266,同271頁。

31)社会的事実の外在性,拘束性,強制性が個人にたいして一種の超越論的水準をなすことは,デュルケム社会学の重要な特徴である。たしかに,社会が個人に先行し,外在的,拘束的であるという主張は,第一世代の個人やその心理から,あるいは人間性からあらゆる「社会的なもの」を説明できるという蒙昧にたいする批判として妥当しており,鋭い。ところが,デュルケムは,ぎゃくの対極に振りすぎて,個人的なものを完全に締め出してしまう。だから,個人的なもの自体が社会の所産であるということだけを強調する。個人の行為の能産性あるいは抱かれた意味と価値が結果におよぼす原因性がまるで存在しないかのように言うのは行き過ぎであろう。デュルケムと同時代に,ウェーバーの理解社会学は,原子的個人の行為から一切の社会を説明できるのだと宣言した。それは,デュルケムの方法論的社会主義にたいして方法論的個人主義と呼ばれる。両者はながらく社会学上の方法の両極をなすものとして対照されてきた。だが,あまりにもこの対立を強調するのは生産的でないと考える人々もいる。この第3グループは,ミクローマクロリンクという問題を追いかけている。それで結果はどうなったのだろうか。不勉強にして私は知らないのだが,管見の限りでは3つのグループはすべて失敗していると言わざるをえない。個人が能産的主体であるにもかかわらず,かれらが彼ら自身から乖離した現実を生み出すのはいったいなぜかといえば,彼ら自身が私人であるからである。ウェーバーもデュルケムも,私人と個人を混同している点で同一の弱点を共有する。この弱点は,結果が生まれる以前の行為者の意味,意図,動機を重視する行為論と方法論的個人主義に固執するが,他方では,同じ弱点が,ぎゃくに行為者の意味,意図,動機ぬきに,できあがった 結果が不動で,外在的,拘束的であるという事態のみを重視する方法論的社会主義を生み出す。

 社会学者という職業は,見方によっては,自作自演の未解決問題を失業対策として必要とする専門家集団である。だが,デュルケム・ウェーバー問題がなぜ未解決かという前提そのものに立ち返って考えてみる必要があるだろう。社会学に二つの方法論が再生産される根拠を私人論の見地から考えていくと,この問題はかなりすっきりしてくるだろうと思われる。①私人を所与とすれば,私人は個々に見れば,ある限定のもとで自由であり,選択的に行動できるから能産的であるが,必ず,自分および自分たちから切り離され,物象化された自分の分身をうみだす。分身は社会となって主体から独立して現れる。②しかし,物象化が歴史的に蓄積してゆくと,私人を超克するための条件が意図されることなしに生み出される。③個体は私人の否定態であるのだが,上記の条件の成熟をテコにして,人びとは私人から個体への転回を意図的に遂行する。

 このような理路を構築したのは,マルクスであった。マルクスは,デュルケムとウェーバーのいずれとも異なって私人と個体を区別した。そして私人による自己疎外過程を通じてのみ個体を再建しうる道が開けるのだと論じた。デュルケムは,マルクスのうちの物象化された結果だけを論じ,他方でウェーバーは物象化以前の私人の能産性のみを論じる。そこには私人が社会化されることをつうじて初めて個体が登場する,という論理がない。高島善哉『著作集4マルクスとヴェーバー』こぶし書房,1997年(原著は1975年)147-156頁。高島によればウェーバーには物象化論がない。なぜなら,自由な行為者は,目的や手段や価値をえらぶところでは,ウェーバーが見た通りであるが,それがそのまま結果に現れることはごくまれであり,行為者の行為の結果は目的動機からみて常に挫折 し,転倒し,その目的や価値を実現できないことの方が多い。この点で,中野敏男の『マックス・ウェーバーと現代』三一書房,1983年は物象化=合理化の解読を試みるのだが,そこで語られる物象化=合理化は事態を計算合理的に予測することであり,操作可能性が高いということでしかない。つまり,主体から結果が独立し,自己の分身が自己から離れて独自の運動を遂げ,操作不能となるということではない。中野の掴む物象化=合理化と高島の主張は,その意味でまったく別物である。だから,中野はウェーバーに物象化論があるかのように言うわけ

だが,それは高島が言う意味での物象化論ではないのだ。私は高島の、ウェーバーにはマルクス的意味での物象化論がないという主張に軍配をあげたい。なおこの問題に関してアドルノは,ウェーバーにはない物象化論が豊富にデュルケムにあることを強調した。表弘一郎『アドルノの社会理論』白澤社,2013年を参照。このあたりの複雑な問題をどう理論的に検討したらよいか,容易な解決策 はないとしても,私見ではけっきょく私人/個体の区別という見地で問題をあるていど先取りしておかないと迷路に入りこむのではないかと思われる。


ルケムの「社会分業論」の見地からする宗主国と植民地間のあいだの「社会的なもの」の完成である。

 デュルケムは,ホブハウスのような究極の人類社会の普遍主義のようなものを,一応望ましいとは言うが,問題は帝国主義と人類社会の関係をどう把握するかである。むろん,ホブハウスは帝国主義と人類社会の形成は相いれないと考えていた。帝国主義が戦争をするのに,どうして平和な人類社会が生まれ得ようか。ところが,デュルケムはそのようには考えていなかった。彼は言う。「可能なことと言えば,せめて同一種のいくつかの社会が一つに集合することであり,われわれの進化の方向は,まさにこの方向をとっているように見える」。そして念を押すように彼は「高級社会の絶えざる膨張は,その結果として,あまり進んでいない諸社会を吸収したり,消滅させたりして,いずれにせよ,この多様性を減ずる傾向がある」32)と述べていたのである。この発言は「高級社会の絶えざる膨張」すなわち帝国主義的侵略が,知的道徳的多様性を減じることをつうじて,人類社会の形成にむけて文化的多様性を減じて均質性をもたらすことを認め,そこへ向かって漸進することを肯定しているように見える。デュルケムは,『社会分業論』では「知的道徳的多様性」を減じることをもって人類社会に近づきうる可能性を論じたが,これは植民地主義を前提にして,フランスの「自由・平等・連帯」を輸出するという彼の「社会連帯」の思想とつながっている。

 私見では,デュルケムには,こうした人類統合的な社会的連帯の形成を望むために植民地主義は貢献できるという判断があるが,同時に,また高級社会と低級社会が同時並存するかたちで,多様性は残りつづけるという判断もあった。それは晩年の『宗教生活の原初的形態』での考え方である。文化的多様性の削減から多様性の強調へ,判断は揺れていたようにも思われる。しかし,いずれにせよデュルケムがこうした両義性のいずれに傾こうがそれはたいした問題にはなるまい。というのも,現実のフランス植民地主義は,そ


32)DT., p.402,同392頁。


れ自体がこの両義性をもって発展したからだ。すなわちフランス政府は原住民に対して「母国」の「自由・平等・連帯」に帰属意識をもたせようとする文化政策を宣伝したが,けっして,宗主国と植民地の間の差別,格差,この意味での多様性を消すことはなく,また消せるものでもなかった。後者の現実を見たデュルケムは,以前には多様性を否定していたが,晩年には住民文化の多様性の存続を人類学的宝とさえ考えた。

 もし,わたしのような解読が可能であるならば,彼の環節社会/組織社会,低級社会/高級社会,機械的連帯/有機的連帯,非道徳的社会/道徳的社会などの二項対立のうち,フランス社会は西欧で急激に前者から後者へ移行する。これを国際社会のスケールでとらえ返すと,宗主国が高級化し,膨張するとき,前項に属する低級社会を吸収し,合併し,本国の文化に同化させようとすると同時に植民地主義側には政治的意思決定の権利を与えなかった。この結果,低級社会を低級社会のままで搾取し続けた。世界システム論が言う「低開発の開発」をデュルケムは後付けで,低級社会の存在価値を称揚したのである。

 デュルケムが『社会分業論』で列挙している低級社会の実例は実に豊富である。アメリカ・インディアン,イロクォイ族,カリビア人,インドの奇妙な風習(寡婦の後追い自殺),トンキンでの厳しい礼儀違反への罰則,シナで医師が処方箋を間違えた場合処罰される,フィジーとトンガの記述,北アフリカの土人の独創性の欠如,ダホメの女性が男性同様に戦士であること,ニグロ土族の気質の同質性など実に多彩である。

 しかし,これらの低級社会の記述には高級社会には高度な分業があるのに対して低級社会にはそれがない,という序列が与えられた。彼は,フランスをはじめ西洋帝国主義を高級社会とする立場から低級社会をみている。しかも低級社会は,高級社会の侵略先から得られた実例ばかりなのである。デュルケム自身は,いろいろな社会の実例をできるだけたくさん集めて「客観的」「実証的」に分類しているつもりであろう。しかし,この実証主義的態度は,植民地主義を前提にしたうえでの「ありのまま」を認める帝国主義者の態度そのものである。ちなみに以下は『社会分業論』における記述がいかにフランス政府の植民地獲得と相関していたかを示す。


『社会分業論』における植民地主義の記述(頁数は青木版田原訳より)

植民地

フランス政府

デュルケムの記述

(『社会分業論』)

1608年  カナダ・ケベック

を侵略,植民地化 17~18世紀ルイジアナ

アンリ4世(1589~1610)の治世下,1608年インディアンを侵略。

カナダ・にケベックに拠点

アメリカンインディアンの記述60,132,172,175,   203―4の各頁

「イロクオイ族は,女性が政

治生活に口出しする」60頁

1635年  カリブ海マルティ

ニクを侵略

ルイ13世

カリビア人では氏族の政治

175頁

東インド会社(インド東部ポンディシェリ拠点)  1674年 インド・ポンディ

シェリを侵略

ルイ14世

インドの寡婦の後追い自殺

(239頁)

カーストからの解放と分業

の進歩(297頁)

1856年 ヴェトナム・ダナンを侵略

1885年 トンキンを侵略

ナポレオン3世

トンキンでは,礼儀を欠いた場合きびしく罰せられた

(156頁)

1856年  英と共同で中国・

北京を侵略

同上

シナは人口が大きいが,環

節社会(253頁)

1881年 仏領ポリネシア植民地化

第3共和制 ジュール・グレヴィ(共和党)

ポマレ王国崩壊

英の植民地フィジー,トンガなども記述

1883年  北アフリカ・チュ

ニジア保護領化

第3共和制

北アフリカの土民は「めったに独創性がない」「宗教が

私生活を規制する」133頁

清仏戦争

第3共和制

シナでは医者が処方箋を間

違えると処罰される(156頁)

1894年  西アフリカダホメ

王国侵略,植民地化

第3共和制

フランスは,Dahomey現在のベナン共和国(1960年

独立)

ダホメでじゃ女性は男性と同じく戦士である(60頁)

1895年  仏領西アフリカ連

邦ギニアを含めて

侵略

第3共和制

ニグロ士族の気質同質性

(133頁)

                   

 デュルケムの高級社会/低級社会の構図は,たんなる類型論ではなく,相互に有機的に関係しあっている。福祉国家は社会問題を解決するための西洋社会の選択である。デュルケム自身良かれと思って,国内の福祉国家を押し進めている。それは,一種の「城内平和」の願いである。フランス資本主義が直面する社会問題を解決するためであった。だが,この解決の中には国内の生存競争の圧力を外へ向かわせる植民地化が含まれており,デュルケムはそれに対してまったく無批判であるどころか,肯定的であった。この点で,デュルケムはフランスの植民地主義を前提にしており,その反対側に低級社会を必要とした。デュルケムの福祉国家論が帝国主義論と相関していたことには深刻な問題が含まれていた。つまり,社会的事実をモノとしてみるという彼の「社会学的方法の規準」はそれなりに徹底したものであるが,方法が徹底されればされるほど,それだけ一層近代世界システムの植民地主義に価値的に追随せざるをえないというジレンマが含まれていた。事実求是が西洋植民地主義へ転化するということは,ひとつのパラドクスである。第二世代の社会学者は,もっとも国際平和に熱心なホブハウスの場合を含めて,誰一人このパラドクスを解体できなかった。その意味で西欧社会学ぜんたいが負うべきパラドクスであった。だが,私の見るところデュルケムはホブハウスとウェーバーに比べて,抜きんでてこのパラドクスに鈍感である。


6.その他の著作についての若干の言及

以上,『社会分業論』『社会主義』を中心にデュルケム社会学の理論的特徴を考察してきた。紙幅の関係で『自殺論』『社会学的方法の規準』『宗教生活の原初的形態』については詳しく触れることはできない。それでも,ここまで考察してきたところの彼の社会学的観察のやり方から派生するものとして,後の諸著作を最小限次のように位置づけることはできるであろう。

第一に,『社会学的方法の規準』1895。ここで言う規準は régleであって,基準standardではない。社会学的方法はかくあるべきだ,お手本はこれだという意味である。ではいったい社会学はどういうふうに社会を見るべきなのか,という「べき論」である。一般人が目にする社会とおのずと違った社会学者独自の社会の見方がなければ,常識と科学の区別ができない。では,常識と異なる社会学の見方とはどういうものであるのか。デュルケムは(1)社会的事実を「意のままには変形しえない性質の事物chosesのように見よという。言いかえれば,社会的事実は,「個々人の意識の外部にen dehors des consciences individuelles」,いわば超越的に存在するということである33)。ここで,デュルケムの言う「個人individu」がマルクスの言う個別者 Einzelneであることを知っておく必要がある。デュルケムは,個人だろうと集合だろうと,いずれの場合も,近代社会の基底にある私人Einzelneを無意識のうちに前提している34)。ゆえに,デュルケムの修正資本主義の立場には,古典的な自由主義における私人と個体の混同をそのまま引き継いでいる。だから彼が「社会的なもの」を強調するばあい,「公共意識conscience publique」は公私二元論を前提にしているので,「市民への行為への監視とそれの課することのできる特別な罰をもって,道徳的格率を侵すいっさいの行為を抑制する」ということにならざるをえない35)。社会的事実の外在性,拘束性,強制性をデュルケムが主張するのは,科学を常識から守るためなのであるけれども,これは眼前に現にある私人の集積がうみだす物象化された


33)Ibid., pp.266-267,同273頁。

34)   私人と個体の区別に関しては拙著『近代社会と個人   <私人>を超えて』御茶の水書房,2022年を参照。一見対極にみえるデュルケムとウェーバーは,いずれも私人と個人を同一視するなり,混同するなりしている。また,そうであるがゆえに,個人を強調するか,それとも社会を強調するかという,「あれかこれか Entweder-Order」に陥る。デュルケムは私人を基調にしたうえで「キリスト教にある適度な個人主義」(宮島喬訳『自殺論』272頁)を考えた。過剰ではなく,過少でもない個人主義を意味するものと解せられる。社会秩序をになう個人観をこういうふうに表現するしかないのは,質的なものを際立てる「個体」観念がないために,個人主義の過剰から過少へのグラデーションを量的に考えるほかないからである。「適度な個人主義」を望んでいるということは,デュルケムが「功利主義」に反発しつつも,私的所有の基礎上で,福祉国家の要請する「社会化された私人」を彼が求めているからなのである。「社会化された私人」とは,資本主義を基礎としつつ,フランス共和制との間に折り合いをつける,労資協調的個人主義のことである。それはブルジョア的個人主義に労働者階級を巻き込む統合的な状態のことである。筆者はそれが悪だと言いたいのではない。まさにそれを社会学が体現する点が学問に内在するイデオロギーなのである。

35)   Durkheim, E, Les Regles la Methode Sociologique, 1963,p.4,デュルケム,宮島喬訳『社会学的方法の規準』岩波文庫,53頁。


分身を外在的,拘束的,強制的な「もの」として固定してしまうために,社会学を一層深くブルジョア的偏見に立脚させるものになっている。

 続いて,社会的事実をどうやったら正常と異常(病理)に分けられるか,が問題である。デュルケムは『社会分業論』1893ですでに分業の正常な 形態と異常な形態を分類した。それは彼自身の方法論に照らして適切であったのだろうか。デュルケムは,ある理論によれば事実には善も悪もな く,ただ事実があるだけで,それを評価することはできないと言われているとする。だが,デュルケムはそれには満足しない。正常と異常を識別できる,事実に内在した客観的根拠 critéreがあるはずだという。『社会分業論』を考察した時,正常と異常は何によって区別されたか。規範=道徳と一体化した現象が正常であり,それを失った事実が異常であった。ではあらためて『規準』を読むと,どうなっているのだろうか。デュルケムは,個人にも社会にも,健康とはよいものであり,望ましいものであるように,病気は悪しきもの,避けられるべきものということが言えるという。つまり,社会をひとつの有機体としてみれば,医者が身体を診るのと同じように,社会学者が社会を診ることができるはずだというのである。けれども,身体は可視的であるから傷や患部を発見できるが,たとえばフランス社会が健康なのか病気なのか,人はどうやって知りうるというのだろうか。『社会分業論』の立論を想起すると,およそ道徳や規範を踏まえる事態が正常であり,それ以外は異常とされた。

 『社会学的方法の規準』でも,同一の考え方がより簡潔に導入されている。それは一種の統計的手法である。①ある社会で平均的に発生する事 実は正常である。②ある現象がかなり一般的であり,これが当該社会の一般的条件にもとづいているばあい,この現象は正常である。③社会進化の過程で何が一般化するかに応じて正常/異常を検証できる。

この規準を彼はさらに脱常識化した。それは,彼自身をも驚かせるほどの命題であった。たとえば,いかなる社会でも犯罪のない社会はない。すると,犯罪の発生率が法外でない限り,犯罪は正常である。むしろ,犯罪 は社会の健康(正常)の一要因でさえある。この論法でいくと,常識で悪とされているものであっても,現象の一般性をもって正常な社会的事実であると認定できることになる。いかなる社会でも戦争のない社会は存在しない。だから戦争は正常である。いかなる社会でも軍隊のない社会は存在しない,だから,憲法第9条は異常である。いかなる社会でも搾取のない社会は存在しない。したがって社会主義は異常である等々。

「社会学が諸事実を事物のように取り扱うには,社会学者は,事実の学校のもとに身をおくことの必要性を感じなければならない。個人的なものであれ,社会的なものであれ,生にかんするいっさいの科学は,要するに,正常的状態を規定し,説明し,これをその反対の状態から区別することを主たる目的とするのであるから,かりにもこの正常性が,諸物のうちに与えられていず,逆にわれわれがなんらかの理由で外部から諸物に刻印したり否認したりするような特徴であるならば,この正常性に依存することの有益性もまったく無駄に終わる。・・・社会学が真に諸物にかんする一科学となるためには,現象の示す一般性がそれらの正常性の規準とされなければならないのだ」36)。

つまり,社会的事実に外在的な尺度を持ち込んで事物の良し悪しを決めてはならない。反対に事物に内在して,事柄それじたいの一般性を究めることが社会学を科学にするというのであった。私は『社会分業論』にあった一種の道徳的ラジカリズムがここでは後退して,統計的な手法に取って替わられたように感じるものであるが,どうであろうか。

第一に,『自殺論』1897は,フランスを87の県ごとに,非社会的原因,社会的原因に応じて統計的に分類した素晴らしい仕事である。社会的原因とは,宗教,年齢,性,結婚の有無,家族,政治的変動などのことである。注目すべきは,デュルケムが自殺を原因論ないし動機論的に3つに分類した点である。自殺は誰でも認める悲惨な出来事である。だが,決して純粋に個人


36)Ibid.,  pp.73-74,同163-164頁。


的な出来事ではないとデュルケムは見る。自殺は社会的原因で起こる。それは①利己主義的自殺,②利他主義的自殺,③アノミー的自殺の三種である。従来,①は自己本位的,②は集団本位的と訳されてきたが,デュルケムの狙いは,利己主義と利他主義は,ともに「適度な個人主義」が壊れた結果である。個人化と社会化の間に適切な均衡がもたらされていないから利己主義と利他主義へ両極分解する。この点をはっきりさせるための2類型だった。もっと言えば,両極に振り切らないで,「適度の個人主義」に収まれば,またパーソンズ風に言いかえて「制度化された個人主義」の幅の中に納まるならば,自殺を生み出す要因を緩和できるという処方箋が用意されていたのである。だから,彼は利己主義的自殺を「過度の個人主義」と言い換えるし,利他主義を「個人化が微弱である」と説明している。

さて論理的にみてこれら二種類で分類はたりている。ところが『自殺論』をひときわ有名にしたのは,第三のアノミー的自殺という類型であった。ではなぜ,二種類ではなく三種類の分類になっているのであろうか。第三の類型が加えられる,という点にデュルケム社会学がまさに固有の歴史的転換の所産であることが関わっている。というのは,個人と社会という共時的軸では,利己主義か利他主義かで両極ができあがる。ここで第三の類型が必要になる論理的余地はない。しかし,デュルケムは,資本主義の段階的変化に敏感であった。すなわち共時的(静学的)軸の分類に対して,アノミーだけが通時的(動学的)な軸を入れて考察されたのである。軸が異なるからこそ,利己主義と利他主義のいずれでもない類型が構想できるのだ。アノミーという第3類型が説明される文脈を説明するに際して,デュルケムは1873年の金融経済恐慌をあげている。デュルケムによると,これはたんなる周期的な景気変動ではなくて,ある規範の崩壊と関係していた。私の言葉で言えば,まさに1873年こそ自由放任的資本主義が国家介入的資本主義に移行する時期にあたっていた。秩序そのものが以前の秩序とは違った秩序に転換した。だから,共時的な軸で言う利己主義と利他主義とは

異なって,通時的軸か

ら自殺を考慮しなければならないと彼は考えた。すなわち,社会動学的な変動が自殺に及ぼす変化を押し出さねばならないとデュルケムはここで考えたというべきである。「無規範」というものの歴史的存立構造が問題にされているのだ。デュルケムが言うように,「真の理由は,それらの危機が危機であるから,つまり集合秩序を揺るがすものであるからなのだ」37)。すなわち,どうして1873年の集合的秩序の危機が特筆すべきなのかといえば,古い社会規範が崩れ,まだ新しい規範ができていない,特有の規範の真空ができるからである。「社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり,個人はその優越性を認めている」からこそ,人は安定した人格を保てる。ところが,社会の集合的秩序そのものが危機に陥ると,信頼できる基準を与えるはずの社会が存在しなくなるのだ。利己主義や利他主義は社会規範としての「適度な個人主義(実はここでデュルケムはEinzelneを理想化しているのだが,いずれ論じよう)」で収拾できるかもしれない。だが,社会規範そのものが崩壊するときには,もはや「適度な個人主義」を与える社会を当てにすることができない。その結果生まれる自殺をデュルケムは第三の類型,すなわちアノミー的自殺として提出したのである。

 彼のキャリアから見た場合,そもそもデュルケムの関心は,「個人と社会」という問題にあった。この共時的視点からすれば,常軌を逸した利己主義とその反対に常軌を逸した利他主義が両極をなすことがわかる。だが,デュルケムは『社会分業論』『社会主義』のなかですでにアノミーという概念を手に入れていた。経済に対する無規制は,近代社会の中で徐々に進行した。それでもなお,宗教や同業組合や家族は経済への規制をおこなう伝統的な力を保ってきたのに,徐々に衰退し,1873年,経済が金融経済恐慌で暴走したとき規範ゼロの状態が訪れた。「交換者」のつくる社会は金融恐慌によって完全に行き詰まった。社会化socializationと個人化individuationがあるべき


37)   Durkheim, Le Suicide, Presses Universitaires de France,1967,p.271,デュルケム,宮島喬訳『自殺論』中公文庫,1985年,300頁。


均衡をとっていれば「適度の個人主義」が生まれる。しかし,それが可能なのは,生きた規範,生きた道徳があるばあいに限られる。「人間の感性は,それを抑制しているいっさいの外部的な力を取り去ってしまえば,それ自体では,なにものも埋めることのできない底なしの深淵である」「この苦悩こそが,個人を駆って,その味気ない生活を・・放棄させてしまう当のものなのだ」38)。デュルケムは自殺をたんなるスキャンダラスな対象から,社会学という学問の真剣な対象に引き上げることに成功したと言ってよい。

 第三に『宗教生活の原初的形態』1912。これまでの著作はいずれも近代社会を扱うものであった。その際,機械的連帯の社会,環節社会(氏族を基底とする組織)が衰退して有機的連帯の社会,組織的社会(氏族を基底とする組織)がそれに取って代わるとされ,それにつれて,宗教も衰退するとされていた。この図式にもとづくならば環節社会における宗教は低級社会が社会としてなりたつための不可欠の要素である。そこで,デュルケムは,主としてオーストラリアのアボリジニを対象に宗教生活のエレメンタルな形態をさぐった。ここでエレメンタルとは,根源的という意味である。オーストラリアを選んだのは素材の質量の充実に惹かれたからであった。原初的なもののなかに「進化の起源」39)を見いだすことができれば,この根源はなんらかの機能をもつはずであるから,近代社会においても機能は消えることはなく,別の形態に転移するだけである。

 では氏族社会は,どういう社会であったのだろう。各氏族集団は固有のトーテムを所有する。また死んだ人の形見にあたるチュリンガという卵型か長楕円型の石または木の小片は神聖な崇拝対象である40)。原始人たる氏族はトーテムやチュリンガに自分たちの紐帯を見いだし神聖なものとして崇拝した。これが神の始まりである。言いかえれば,社会が神を生む。「神とは,まず


38)   Ibid., p.273,p.280,同,302,310頁。

39)   Durkheim, Les Formes Elementires de la vie religieuse, 1925,p.135,『宗教生活の原初形態 上』岩波文庫,1941年,171頁。

40)   Ibid., p.168,同上,212頁。


人が,ある部面から自らよりも高級であると表象し,かつまたこれに依存している,と信じている存在である。ゼウス,またはヤーヴェのような意識的な人格であろうと,あるいはトーテミズムで働いているような抽象的な力であろうと,信仰者は,いずれの場合でも,ある種の行動の様式─信仰者が交通していると信じている聖原理の性質によって課せられた─によっていると信じている」。だから神または宗教的なものは,高級低級に関係なく,それぞれの社会に応じて様々な形態をとることができる。崇拝をもって人々を結びつけるのが神だとすれば,現代では無神論と科学がそれであろうし,また金や権力もまた神なのである。つまるところ,社会はその都度なんらかの信仰対象を編み出して人々を統合する。デュルケムは言う。「社会は,われわれが自らの利害を忘れてその忠僕となることを求め,またそれなくしては社会生活は不可能となるあらゆる種類の障害・窮迫および犠牲をわれわれに強いる。それゆえ,われわれはいつでも自身で作りもせず,望みもしない,そしてまた,ときには,われわれのもっとも基本的である性向や本能に反しさえもする行為や思惟の規準に服従することを強いられている」41)。

 日本人がつい先ごろまで天皇を信仰し,進んでいのちを捧げようとしたことを振り返るとき,アジアで最も近代化に成功した社会が同時に天皇制のもとにあったこと,また現代でも象徴天皇制という信仰形態を維持していることは重要な研究対象でなくてはならない。デュルケムの視座からすれば戦後日本人の宗教的次元は象徴天皇制にあるだろう。

 したがって,アボリジニの氏族の宗教力が人間力であり,道徳力であったという証明は,宗教力=人間力=道徳力が低級社会をなりたたせていることを示すばかりでなく,たとえ形態が異なるとしても高級社会における宗教の転移物があるはずだという洞察を支持させるものであった。

 社会学者の中にはデュルケムを評して,当初近代社会を研究していたにもかかわらず,低級社会研究というあらぬ方向に迷い込み,戻ってこれなく


41)Ibid., p.295,同上 374頁。


なったと評するひとがいる。だがこれ以上にデュルケムを誤解するものはない。デュルケムは低級社会研究に大きな野心を与えていた。それは社会の原型を低級社会においてみるという野心であった。宗教力=人間力=道徳力という紐帯なしには,高級社会も含めて,いかなる社会も存立しえない。このことが最も手に取るように可視化されているのは低級社会においてである。彼は,一応進化論の立場を借りているから,低級社会は進化すれば高級社会になりうると想定する。しかし,低級社会は,それが高級社会に進化しようがしまいが,デュルケムにとってはどうでもよいことであった。以前よりも,進化論の考えは後退したようにも見える。晩年はより文化相対主義に近づいた。そうなると,低級社会は高級社会と相並んで地球上に同時存在することになる。デュルケムは近代において宗教がまったく欠けた社会的活動がひとつだけあるという。それが経済的活動である42)。この主張は,まさに

『社会分業論』で主張したテーゼである。経済的活動は,個人が社会に本源的に結合しているということを認めないでなされている。あらかじめ独立した個人があって,彼らが契約をする(それが社会的になる唯一のやり方である)という幻想で経済は動かされている。デュルケムによれば,こうした非宗教的活動領域は存在するが,(これだけでは宗教の代替機能尾を遂行するものを欠いているから)全体的な社会に埋め込まれなければならない。したがって経済は,近代社会の経済/社会という二次元の柔軟性のなかのごく一部分を構成するだけのことであって,社会によって制御されないならば秩序破壊要因になる。社会学は経済学的抽象に反対する。個人がホモ・エコノミクスであるという思考は,ある特定の時期にだけ許された抽象的思考でしかない。いまや経済を自己完結的に考えるのは間違いなのだ。「集団的思考は,個人の集団によってのみ,可能だ。集合的思考は個人を前提するものであり,個人は集団をなさなければ維持できないから,個人もまた集合


42)Ibid., p.598,同下 329頁。ただし,『宗教生活の原初形態』では『社会分業論』よりも研究が進んでいる。経済の中心をなす貨幣はもともと宗教的起源をもつと言うようになる。現在の貨幣は宗教との連結を持たないが,もともとはそれじたいが宗教的な道具であったという。一種の汎宗教論にますます近づく。


的思考を前提しているのである」43)。だから,逆説的に言えば,「経済」というものを社会が特化させた時期があっただけである。1873年以降は,経済の特権化は認められない。

 全体を要約すればこうなる。低級社会には、トーテムがやチューリンガがあった。高級社会では経済が(宗教を欠いたままそれじたいが)宗教になる時期があった。しかし,功利主義が反省されるようになると,社会が経済を規制すべき段階が来る。すなわち,いつの時代であろうと,社会が成員にたいして「社会的なもの」に忠誠を向けさせるのである。

 私たちは物事を思考するばあい,言葉を使って思考する。言葉は,範疇,概念,単語,観念等々である。言葉を提供するのは神ではない。「神は死んだ」と叫ばれる現代にあっても,言葉が絶えず進化するのはなぜか。それは社会があり,社会が進化し続けるからだ。人間の紐帯,あるいは道徳的力はもともとはマナという力として,あるいはトーテムというかたちで低級社会を統合した。マナやトーテムは,まさしく宗教生活の原初的形態である。だから,神が衰退し,科学的思考が発展していったとしても,「神」  という形をとることなく「社会的なもの」,「社会」が永続するかぎり,我々は個人を超えて,非人格的なかたちで社会を次の世代へ送り届ける営みをやめない。社会が個人を生み出し,当の個人は社会が提供する言葉によってだけ世界を理解しうる。いかなる思考も社会的思考以外ではない。だからこ そ,どんな天才的で,独創的な思考も,個人のものではなく,必ず社会から生成し社会へ還元されるのである。

 社会→思考→社会という連鎖をみつめてみると,個人が短い人生で行っていることのすべては社会の再帰的運動のほんの一断片である。したがって,もし,経済が独り歩きし,非規範的に運動する領域が支配しているように見えるとしても,それは近代がすぐれて経済的社会であるからにほかなら  ない。だが,社会が経済を神に指定した時代は終わったのだ。産業資本主義か


43)Ibid.,p.636,同下,373頁。


ら国家介入的資本主義へ社会が客観的に変化するにつれて,当の利己心や私的利益という範疇もまた,もともと社会が提供した言葉にすぎなかったことが明らかになる。そうなれば,低級社会がそれ独特のやり方で統合されたように,高級社会でも健全な社会を創ろうとする力が湧きおこらないわけにはいかないであろう。『宗教生活の原初的形態』をつうじて,このことをデュルケムは最後まで訴えたのであった。

 最後にひとつだけデュルケムの小さくない自己矛盾をあげておく。『宗教生活の原初的形態』の執筆にあたって彼は一度もオーストラリアに現地調査入りしなかった。ゆえにB・スペンサー&F・J・ギレンの研究や間接的に植民地下にあったオーストラリア政府報告書を参照した。またJ・G・フレイザー『金枝篇』も頻繁に参照している。『社会分業論』ではあれほどイギリス帝国主義をこき下ろした彼が,オーストラリアの低級社会の研究のために,それが豊かな資料価値を有しているという理由で,全面的にイギリス帝国主義とその御用学者に依存していたというのはもうすこし弁明がほしい所である。ただし,デュルケムはあくまで実証主義を貫いて,人種的偏見や差別を批判した。進化論を完全に捨てたわけではないが,一種の文化相対主義に立った点は評価できる。しかし,デュルケムおよびモースは英仏の帝国主義=植民地主義にたいする真正面からの批判は行わなかった。『社会分業論』と『宗教生活の原初的形態』は第1作と最後の著作である。そのいずれにおいても,彼は西洋帝国主義の支配にいわばただ乗りしたのである。

 また,デュルケムの共同体論の理論上の弱い所は土地所有論が欠けている点である。実在する帝国主義はアボリジニの共同体的土地所有を破壊し,私的所有や政府所有に転化した。トーテムは,デュルケムによって社会の宗教性の根源を示す証拠とみなされたが,統合機能として掴まれたのであって,部族の共同体的土地所有に対応する文化(イデオロギー)として把握されたわけではなかった。西洋帝国主義からすれば,共同体はいずれ破壊されるべきものであったし,アボリジニは侵略者が入ってきた1788年以降,トーテムを含む共同体文化によって帝国主義に結束して抵抗した。したがって,トーテミズムが存在したのは,まだ侵略の手が及んでいないか,あるいはアボリジニによる抵抗がそれを守っていたからなのである44)。ところが,こうした西洋帝国主義による侵略とアボリジニ側の抵抗の狭間にかろうじて残っているトーテミズムを,土地所有をめぐる攻防から切り離して,社会統合次元の例示として扱うデュルケムにたいして,侵略側に加担した学問であったという非難が出てきたとしても当然である。

 しかし,デュルケムやモースは一切このような西洋帝国主義批判はしなかった。それがかれらの実証主義の限界であった。そこに用心深い保身がある。もし真正面から批判したならば,ソルボンヌ大学の社会学ポストはただちにはく奪されたであろう45)。


おわりに

 はじめてデュルケムの『社会分業論』を読んだ時のことを思い出す。彼が個人主義と社会連帯をひとつのセットとして,それらの同時存在と昂進化を擁護したいと考えたことはすぐにわかった。個人主義の方は,功利主義的(所有的)個人への批判をつうじて「適切な個人主義」を守る態度につながっている。デュルケムは「所有的個人主義 possesive individualism」を批判したいのだ。これはまことに真っ当な狙いではある。しかし,そうであれば,所有論が展開されるべきである。ところが『社会分業論』にはまとまった所有論がない。これは不思議なことであった。なぜなら西洋思想史の伝統においては,一貫して社会の基底に所有があることを明確化し,それをいかに正当化するかが最大の(理論の)使命だったからだ。もし,デュルケムが西洋思想史の伝統的論理に根ざすためには,自らの科学において,どのように所有の問題と関わるのかに取り組まねばならない。

 にもかかわらず,20世紀社会学の中心に座るはずのデュルケムに所有論がないのは,学問的な正道から見て部品が足りないように思えた。伝統を革新し,本流に名を遺すためには,ただたんに社会学を実証科学として基礎づけるだけでは足りないはずではあるまいか。

だが,丁寧にみていくとやはり彼なりの所有論はあった。「社会的所有と民主主義」46)は目立たないが,まさにデュルケムの所有論をコンパクトにま


44)   Reynolds,  Henry, The Other Side of the Frontier : Aboriginal resistance to the European  invasion  ofAustrallia,   Penguin  books, 1982.レイノルドによると, 1788年のイギリスのアボリジニにたいする侵略はただちに様々な抵抗をうみだした。19世紀中盤のイギリス公文書においてアボリジニの抵抗は数多く記録されていた。しかし,デュルケムはそうした記録をまったく使わなかったのである。

45)   デュルケムは社会学と道徳教育および文化人類学の3つの分野でフランス共和制に貢献した。いずれにおいても,フランス政治体制と無縁なジャンルはない。この意味で時の政府との太いパイプが彼の学問的権威と結びついていた。一般に,デュルケム研究史において,彼の社会学を抽象的な原理へもっていく解釈と具体的な状況と結びつける解釈があるとすれば,私は後者を選ぶものであるが,その場合にこそ学問の社会的機能が浮き出てくると考える。「デュルケム学派が帝国主義を世界支配の政治システムとして容認しているように見えたこと,あるいは少なくともそれを当然視していたことは,フランスにおいて社会学と民族学が科学的な学問分野として制度的に認められることを容易にした。そして学術的承認は,学問的正当性を帰属させることを可能にしたのである。」Fuyuki  Kurasawa, ‘The DurkheimianSchool and Colonialism Exploring the Constitutive Paradox’in Sociology & Empire,  Duke University Press, 2013,p.205.なお,これに関連して,ポール・ニザン(1905-1940  小説家,政治活動家,サルトルの友人)がデュルケムを「番犬」と辛らつに罵ったことはわりによく知られているかもしれない。もしニザンの言う通りであったとしても,「番犬」が常に反動的であったわけではない。フランスに福祉国家が建設されたのは,ド・ゴール大統領の下で1944年にピエール・ラロック(1907-1997)が社会保障局初代長官に任命されて以降である。ラロックは,イギリスのヴェバリッジに対応する人物であった。もしデュルケムをフランスの社会的自由主義の社会学者として位置づけることができるならば,旧自由主義と国家社会主義の両極のあいだにフランスを定着させた改革者がデュルケムである。ニザンが上記の発言をしたのは彼がもっともラジカルな活動家であった時期においてであるから,デュルケムを保守的論者と見たとしても不思議ではない。だが本稿の立場からすれば,改革者であったことと番犬であることは論理的に両立する。

46)   Durkheim,, La science sociale et l’action, Presses Univ. de France, 1970, pp.171-183,デュルケム「社会的所有と民主主義」(1885年)ジャン・クロード・フィユー編,佐々木交賢,中嶋明勲訳『社会科学と行動』恒星社厚生閣, 1988年。


とめた文書であった。そこに社会的自由主義の所有論が明瞭に書かれている。その後の全著作は実はこの(短いが要所をえた)所有論にもとづいているのだ。

そこで彼はまず,私的所有(デュルケムは「個人的所有」と呼ぶ)が,従来的なかたちではもはや正当性をもちえないことを論じる。「無制限の,そして制約なしの絶対的所有は正当化された所有とは考えられない」「すべての所有においては個人の役割の他に自然および国民の役割が存在するのである。伝統的経済学はこの協力を無視するという誤りを犯している」。つまり,デュルケムはいわゆる私的所有が発展して大規模に協業的になってくると,私的所有じたいが「問題になっている環境,呼吸している空気,彼をとりまく社会など,すべてのものが彼(私的所有者)に浸入し,彼がそれに気づくこともなく,感じることもなく,特にそれに不平を言わねばならないということもないうちに,彼をこねまわし,加工し,そこにその痕跡を残す」と論じる。すなわち,独占資本は,まったく無自覚に「社会的共同資本」「コモンズ」を無償で取り込んで欲しいままとするがそれはますます許されなくなってくるに至るという。

このように従来の排他的私的所有論を社会的自由主義の見地から批判する一方で,かれは言う。「しかるに同じような理由で,まさしく絶対的社会主義は間違っているのである。個人がすべてをつくらないとしても,全体をつくるのは個人によってである。もちろん個人は多くの援軍を持っている。しかし彼こそが生産の本質的担い手なのである。」「ところが社会主義は多かれ少なかれ,固定給の公務員の大軍で社会をつくる。その時から,各労働者は各自の任務にもはや直接的に興味を失って機械的に任務を遂行するだけとなる。」「この国家という巨大な団体の中で,匿名でしかも目に見えずに消えていくような努力をしても何の役に立とうか。」47)

絶対的資本主義と絶対的社会主義のいずれにも反対するところのデュルケ


47)   Ibid.,  p.173,同「社会的所有と民主主義」『社会科学と行動』135頁。


ムの立場こそ,第二世代社会学者に共有される社会的自由主義の立場にほかならない。これはいわば第三の道である。

しかし,第三の道には様々な濃淡がある。それは,(1)私的所有を維持しながらその正当性を変化させるタイプか,それでなければ,(2)修正資本主義を媒介としてけっきょくは社会主義を認めるタイプかの,いずれかである。デュルケムが(1)であったことは疑う余地はない。20世紀に入って,社会的自由主義は西欧福祉国家の正統的学説となるのだが,我がデュルケムは1880年代にこうした全運動を先取りしたのである。

従来の学説史では,デュルケムが社会党のジャン・ジョレスと友人であったことをもって,彼が親社会主義的であったことの証拠とみなす傾向があった。ジョレスとデュルケムの間には,公私二元論という前提を疑うことがないという近代主義的視角が共有されていた。だが,その限界のなかで,ジョレスはやはり社会主義を志向する者であって,1912年に「もし戦争が起こりそうになれば,労働者階級はあらゆる手段でそれを阻止し,戦争が起こってしまった場合には,それを利用して資本主義の打倒をめざす」とするバーゼル宣言を起草した中心人物であった。いよいよ開戦となったとき,ジョレスは反戦を訴えたために,開戦前夜にナショナリストによって暗殺されてしまう。ジョレス亡き後のフランス社会党は,バーゼル宣言を放棄して,祖国防衛に賛成したのである。これを一因として第二インターは崩壊したのである。この点で,愛国戦争派のデュルケムは,ジョレス亡き後のフランス社会党の方針を肯定したのである。デュルケムは,労働戦線(CGT)においても,また社会党に対しても,国民主義的な愛国主義になびくように一貫して働きかけていた。そして,ついにそれに成功したわけである。

ところで修正資本主義を維持するために総資本側は,労働者や民衆が私的所有の新しい正当化に不可欠の労働組合や結社を容認し,一定の社会政策と所得再分配の機構を編成していかねばならない。労資協調が基調となり,労働者も資本家も自己の利益だけにこだわることなく,国民的な立場をひきうけねばならない。だからこそ,デュルケムは国民道徳を論じて,第三共和政の行政機構に積極的に介入していった。

要約しよう。資本主義の所有的秩序は,1870年代からいわゆる独占段階に入った。すると,独占と競争の矛盾は激化し,もはや経済的な自己調整メカニズムは自律性を保ちえなくなる。資本の私的空間に封じ込められていた労資の対立は,閉鎖的ユニットで解決できなくなる。それゆえ,経済における労働者と資本家の対立は,国民次元の富の再分配の次元へ転移される。人々はもはや階級的利害で行動するべきではなく,市民あるいは国民としての自覚がどうしても必要になって来る。それが,デュルケム社会学においては,経済と社会という大区分となって受け止められた背景にあるものだ。そして,階級的な道徳ではなく,国民的道徳を政府と財界は求めた。だから,デュルケムもまたソルボンヌ大学に招聘された。

デュルケムがなにゆえにあれほどスペンサーを毛嫌いしたかは,19世紀中盤のブルジョア理性と世紀末のブルジョア理性の差に起因する。デュルケムは所有的個人主義を批判する場合に,所有論に第三の道への加工を施した。社会の本質は道徳的なものであり,経済は社会全体の一部分であるにすぎないと語った意味はここにあった。ここから,部分/全体は経済/社会に等しいという考え方が出てくる。

この考えを思想史的に解きほぐすと,近代ヨーロッパの「所有的秩序の限界」から「社会的道徳の再構築」への転換が,なぜ社会学という学問を生んだのか,が説明可能となる。

18~19世紀中盤まで,資本主義社会は「所有者の社会」として自足していた。

経済的自由と所有権の保障こそが,近代国家の正統性を支える柱だった。しかし,産業化と資本主義の成熟によって,この秩序は徐々に自壊し,機能的不全に陥る。それが明瞭になったのは1873年の恐慌である。あらためて,労働者は法的には自由だが,実際には所有から疎外された存在であることが露呈した。また市場は「自然的秩序」ではなく,無制御な力として社会的な規範を破壊してきたと罵られるようにまでなった。

デュルケムは人類史のロングスパンのなかに,所有的個人主義を位置づけてみせる。すなわち低級社会が信奉する宗教的・共同体的価値においては社会が集合表象によって統合されていた。ところが,近代化が進むにつれて,社会から経済が分離して,「利害の闘争」がむき出しになる。デュルケムは,こうした事態は所有による秩序が道徳的接着剤を欠いたまま暴走したものだというふうに診断した。これがデュルケムの言う「アノミー(anomie)」=規範の喪失である。

A・スミス以来の古典派経済学は,市場メカニズムを自動調整メカニズムとして描きだした。このときは,経済的秩序は無規範でよかった。あるいは無規範であることが規範であるとされた。しかし19世紀末,労働争議,貧困,階級闘争,帝国主義的戦争が現実となり,「市場が社会を自動的に調整する」という物語はもはや信じられなくなった。

所有に基づく市場秩序は,もはや自律的に自己統治できない。この現実を前にして,ヨーロッパ社会は新しい結合原理(moralité  sociale)を探さざるをえなかった。まさしくここにデュルケムが登場した。

デュルケムは『社会分業論』で,分業を「道徳的現象」として再定義した。従来の分業論を知る人にとっては奇妙に響いたが,彼の問いは,市場的な所有秩序に代わって,何が社会を統合しうるのか?という問いをあらためて立てたということであった。彼の答えは,「連帯」という道徳的原理,  そしてそれを内面化する「国民的道徳」である。したがって,彼の社会学 は経済学ではなく「道徳の科学」として構想された。彼が明言するように,

「社会は神聖なものの体系である」(『宗教生活の原初形態』)。本源的にみたばあい,社会とは単なる利害の調整メカニズムではなく,超越的な価値秩序として再聖化されねばならない。それを担うのが「国民国家」という新たな宗教=世俗的道徳共同体である。

この文脈でデュルケムの反功利主義を理解するなら,それは単に哲学的批判ではなく,社会統合の再編という政治的・歴史的要請に応えるものであった。

 

背景

内容

経済秩序

所有・市場にもとづくが,統合力を失う

社会的危機

階級闘争,アノミー,孤立,無秩序

対応

道徳的秩序の再構築

学問ジャンル

社会学

目的

修正資本主義

つまり,デュルケムの社会学は,本質的に反功利主義的であるけれども,決して私的所有の廃棄へは向かわない。むしろ,道徳的秩序という新しい次元をつけ足してやれば,従来の所有秩序は国家介入をうけいれる余地がある。企業の所有と取得はあいかわらず私的なままであるが,経済メカニズムが働いた後で国家がその富を強制的に集めて再分配する。資本家と労働者は,もはや必要以上に階級闘争などせずに,それぞれが純粋私人であることをやめ,いわば「社会化された私人」にならねばならない。「社会化された私人」というのは,具体的には,国民という道徳的自覚をもった資本家または労働者である。これによって19世紀の産業資本主義のような我利我利亡者の社会を卒業し,道徳的国民主義(moral nationalism)によってメロウに包まれた修正資本主義を構想することができる。これによって国家とはもはや所有者階級の独占物ではなく,「連帯によって結ばれた道徳的共同体」として再定義されるのである。


ブルジョア社会科学の中心は,いまや経済学から社会学へ大きく転換しなくてはならない。この呼びかけは,フランス政府に社会学を公認させるうえで大きく貢献した。近代の自己防衛のためには社会学が必要である。所有的秩序の自壊 → 社会の解体 →「道徳的社会」の発明。この流れの中でデュルケムは,「社 会」を「所有」でも「契約」でもなく,「道徳的な事実(chose  morale)」として再構築した。これが他の科学から「社会学帝国主義」と悪口を言われた。しかしながら,こうした転換がなければ,「第二世代社会学」という学問そのものが成立しえなかった。こうして,社会学は,所有的近代の崩壊に対する自己防衛的反応として登場した。デュルケムは,したがって,所有論に社会的自由主義の加工を施すことによって,資本主義的秩序の延命に貢献する道徳的秩序をさぐりあて,労資対立がどれほど激烈化しても,国民社会の社会政策的な防衛によって,修正資本主義を柔軟にマネージしうるという見通しを第三共和制に提供した。西洋思想史総体のなかでデュルケムの位置を明示して終わろう。


① 所有的秩序の自律性(ホッブズ~スミス),

② 産業化によるその自律性の崩壊(市場のアノミー)

③ 社会的統合の再要請(国家・教育・連帯)

④ デュルケムの反功利主義=道徳的補完の理論化

⑤ 社会学=「所有的個人主義の限界」からの必然的誕生


20世紀の初頭にデュルケムが発見した道徳的秩序は,一見道学者的な説教じみた匂いがするけれども,実は経済学に先立って,ブルジョア社会科学のあるべき方向を明確にしめす預言であった。いわゆる古典派経済学は,横目で第二世代の社会学の誕生をみつめていたが,まだ市場に対する態度決定をなしえていなかった。しかし,1920年代にM・ケインズが登場して,「資本主義は賢明に管理されるかぎり」まだ体制を維持できるという考え方を導入した時に経済学の革命を起こすことになった。これはデュルケムが経済的秩序と道徳的秩序の二つの秩序の複合化によって近代の危機を救済できるというアイデアに後続するのである。この意味で,社会学の革命が経済学の革命に先行したと言っても決して過言ではあるまい。

冒頭で引いたようにS・ヒューズは,「社会というものの決定的な諸特徴は主観的な性質のものである」というデュルケムの思考の特徴を指摘した。この「主観的な性質」とは哲学的な主体/客体という図式を克服するところの共同主観的なものである。だが,さらに限定されている。この共同主観は,市場に介入することで得られる国民主義的な共同主観である。もちろん,国民主義的な共同主観は,「社会化された私人」を要請するものであるから,私人を基底に置く物象化された共同主観の一種にほかならない。ここで物象化というマルクス的用語をデュルケムの道徳論の説明に用いるのは,アドルノがデュルケムの集合意識論を物象化されたものに関する記述とみなしたことに啓発されている。一般に,物象化は私人という存在から生まれる。そして物象化された共同主観としての道徳は,私的所有の排他性を自明化させる。だが,国家介入的資本主義の到来にともなって,たんなる私人ではなく,いまや「社会化された私人」が要請された以上,デュルケムに求められたのは,物象化された共同主観の国民道徳版であったから,それを集合意識という用語で,諸個別者から独立した社会的事実を扱う社会学が生まれる必要があった。そうである以上,私的所有の排他性は次の段階では,国民的道徳がある種の排外主義をもつように人々に求めてくるようになる。

第一次大戦のさなかデュルケムは戦争を肯定し,国民道徳の結集の好機とみなした。それを1916年に書き留めている48)。


48)   Durkheim, Lettre á la Revue de l’Histoire des Religions58,1908,pp.298-299.


『教師週刊誌』83(17)1916年1月8日:217-218頁に明日への学校に関する調査の一環として,『フランスの道徳的偉大さ』というタイトルで掲載された。ジョレスは階級的視点から平和を貫いて暗殺された。デュルケムは国民的視点から戦争を大いに讃えた。しかし,デュルケムは彼自身の道徳主義が教え子や息子アンドレを戦死させたという理論上のアポリアに衝突し,おそらくはこれを原因とする神経症のために死を早めた。自己の学問の代償は決して小さくなかった。すなわち社会という道徳的なものが,生命の源泉であると同時に死(戦争)の源泉でもあるならば,彼が拠って立つ正常が病理であることになる。これはデュルケム社会学の全体に関わるパラドクスである。

「親愛なる先生,尊敬する同僚の皆様

皆様から光栄にもお寄せいただいたご質問,『明日への学校はどうあるべきか』について,お答えいたします。

しかし,未来を推測しようとする前に,少し過去を振り返ってみましょう。なぜなら,過去に基づいてのみ,未来を推測することができるからです。紛れもない事実として,戦争以来,フランスは世界の意見において,比類のない道徳的立場を確立してきました。すべての国民,ドイツでさえも,フランスが示した美徳,その軍隊の英雄的行為,そして歴史上類を見ない戦争という恐ろしい災難に国が耐え抜いた厳粛で冷静な忍耐力に敬意を払っている。これは,私たちの教育方法が期待された主な効果を生み出したことを意味しているのではないでしょうか?学校は,託された子供たちを立派な大人へと育て上げました。公立学校は,当然のことながら,この成果の大部分を占めています。その生徒たちが,学齢人口の大部分を占めているからです。したがって,公立学校はその任務を十分に果たしたと確信を持って結論づけることができます。いかなる場合でも,その教育の基盤となる原則を放棄することはありえません。

戦争は,その原則の価値を証明しました。これは議論の余地のない事実であり,特定の論争に終止符を打つべきです。しかし,戦争から得られる教訓は明らかであり,それを考慮に入れる必要があります。私たちの仕事に満足できるとしても,それを継続し,改善していく必要があります。

この17か月近く続いている恐ろしい経験は,私たちの努力を主にどの点に注ぐべきかを教えてくれます。戦争直前まで混沌とした平凡な公共生活を続けていたフランスが世界が称賛する英雄的行動を起こしたのは明らかに,その中に,明確な目的が定まらず効果的に発揮される機会を待っていた国が危機に陥ると,共通の目的が自然にすべての意志に割り当てられ,それらは互いに衝突し,互いに麻痺し合うことをやめ,収束し,その行動の収束によって,偉大なことを成し遂げました。前述の奇跡的な復活は,非常に単純な心理的現象に過ぎませんが,それは私たちの誇りであり,多くの希望を与えてくれます。なぜなら,それは私たちの活力の証であり,何をすべきかを明確に認識したときに,私たちが成し遂げることができることのすべてを示しているからです。したがって,過去の過ちを繰り返さないためには,危機的状況においてだけでなく,通常時においても,すべての意志が,あらゆる宗教的象徴や政党の標語よりも優れた,単一の目標に向けられる必要があります。そして,その目標を見つけ出すのは難しくありません。それは,フランスの道徳的偉大さです。この数語には,私たちの祖国に対する義務も,人類に対する義務もすべてが含まれています。

私たちの教育はすべて,この考えを中心に展開されなければなりません。この考えに相応しい感情を目覚めさせ,それを人々の心に根付かせ,可能な限り育むこと,それが学校の主な任務であるべきです。」


こうして社会主義者ジャン・ジョレスとデュルケムは,大戦をめぐる態度において決定的に決裂した。ジョレスは各国労働者の国際主義的連帯によって戦争を防ごうとしたのにたいして,デュルケムは左翼が愛国主義に同化するようずっと働きかけ,ついにジョレス死後のフランス社会党が国際主義を放棄することへと導いた。第二インターが崩壊したあと,世界はそれぞれ国民主義的な単位で二度にわたって大きな戦争をした。しかし,二つの大戦後,今日にいたるも第二インターを継承する等価物は再建されていない。冷戦期のソ連を中心とした国際共産主義運動は,国家間の関係にすぎず,階級による誓約ではない。

デュルケム社会学がこうした国民主義をただ一人でつくったわけではむろんない。ただ,資本家と労働者に国民意識を持たせるという道徳的戦略がある程度成功すると,このことを基調として次に労資関係に起因する経済的危機が発生したばあい,すでに階級的視点を失っている以上,国民という統合軸を凝集の単位とみなすことは自明のことであるから,わが身を守るためには外国人や移民を排斥しなくてはならないという右翼排外主義へ向かわざるをえない。21世紀の労資関係,国民的統合,排外主義のつながりを検討するばあい,デュルケム社会学は労資対立を超えて国民的統合を創出する道徳主義にひとつの希望を見いだした。ところが国民的統合がある程度定着した後,新たにこの次元で危機が生じたときに,労資関係へ問題を投げ返せないならば,自然と排外主義へ進むことになる49)。

排外主義の行方を考察することは本稿の目的を超えるので,むしろその拠って来たるところを考えて締めくくろう。ジョレスの階級的視点とデュルケムの国民的視点の違いが何であったかに,ことは帰着する。ジョレスは最後まで自覚的に反戦を貫いて暗殺された。これとは違って,戦争を煽ったデュルケムは,彼自身の道徳主義が教え子や息子アンドレを戦死させるという事実に衝突し,おそらくはこれを原因とする神経症のために死を早めた。自己の学問の代償は彼の生命を追いつめた。すなわち社会という道徳的なものが,生命の源泉であるとデュルケムは一貫して主張してきたのだが,第一次大戦を契機にして国民道徳は死(戦争)の源泉でもあることを認めざるをえなくなった。彼が拠って立つ正常の条件は異常の条件でもあることになる。彼は戦争の善悪をもはや語りえない奈落へ落ちた。これはデュルケムが体を張って,自己の社会学の解決不能なパラドクスを示したということではあるまいか。


49)   階級を国民として統合するという(道徳的)戦略がとられると,国民に与えられる福祉サービスを守ろうとして,難民や外国人にたいする排外主義が起こる。これが,21世紀の最初の四半世紀に世界で起こっている新右翼の運動である。行き場を失って困っている人は,主として南北問題から出てくる以上,南側の貧困をなくさない限り北側へ国境を越えようとする人々が生まれるのは当然である。このために国境警備の強化か,それとも寛容な難民受け入れか(ドイツのA・メルケル首相のケース)が争点化する。いずれにせよ,帝国主義を前提とする福祉国家体制は19世紀末から構想されたものであったが,現在は経済/社会という複合的秩序そのものが新自由主義によって揺さぶられる段階が到来している。だが,新自由主義は主権国家の対応を消し去るのではなく,むしろ一層国家間の対立をあおる。だから,ポスト・デュルケム的な状況の中にあっても,各国民意識ごとの相互敵対的統合を求める動きは消えないのである。



Durkheim’s colonialism

―His historical consciousness and logical structure—

TAKEUCHI Masumi

 

 This paper examines the background and content of the sociology of Émile Durkheim among the so-called second generation of sociologists.

 The defining characteristic of the second generation lay, to a greater or lesser extent, in their engagement with social liberalism. This involved accepting, either positively or as an unavoidable development, the system that was at times termed a mixed economy or, more humanistically, defined as the welfare state.

 In his early work, Durkheim began his research under the theme of “the individual and society”. To put this more concretely, it was “individualism and socialism”. The French Revolution established a regime of extremely strict public-private dualism.

 This was embodied in the Le Chapelier Law, which decreed that all intermediate groups should be eliminated. However, with the subsequent development of industrial capitalism, demands from the populace for freedom of trade unions and associations grew ever stronger. Consequently, the thinking shifted towards accepting modern intermediate groups, even if the old ones were to be excluded.

Durkheim emerged as a sociologist precisely during this period, necessitating recognition of the historical backdrop: the transition, or transformation, from laissez-faire capitalism to state-interventionist capitalism.

 The purpose behind his endeavour to establish sociology as a science becomes clear upon examining its content, yet this content must be explained within the context of its historical background.

 His aim was the reconstruction of society’s moral order. Even within the first generation, in H. Spencer’s sociology, society was understood as being constituted primarily on an economic plane through contracts and commodity exchange. People were seen as pursuing only their own interests, with no need to consider others’ interests; thus, the economic actions of self-interested individuals were thought to create social order. In contrast, Durkheim argued that Spencer’s doctrine, which equated the economy with society, was a perspective that ignored the moral dimension of society.

 Durkheim argued that humans can only generate order because they possess collective conscience and share morality among themselves; exchangers (enchangist) devoid of morality cannot produce social order.

 In this sense, Durkheim’s sociology forcefully argued that the image of humans as mere exchangers must be transformed into one of humans as members of associations, and that the economic dimension must be augmented with a social dimension.

 In short, it counterposed a dualistic view of “economy/society” against the monistic view of “economy = society”.

 Having thus established the foundations in his 1893 works The Division of Labour in Society and Socialism, Durkheim subsequently published The Rules of Sociological Method and Suicide relatively smoothly. The former consistently maintains that social facts constitute a “social element” preceding utilitarian individuals. Furthermore, the latter work presupposes that both egoistic and altruistic suicide represent deviations from “moderate individualism”. It also clearly articulates his normative stance: that while the 1873 crisis had swept away old social norms, new ones remained unformed. Here too, the traces of capitalism’s transformation are imprinted.

 For Durkheim, who sought to rebuild moral order, the path leading to the First World War must have increasingly appeared as the disintegration of society’s moral order. Though he emphasised the importance of the moral individual, the reality of the West was one of ever more violent warfare, aggression, colonialism, and imperialism, with savage economicism coming to the fore.

 The 1912 work The Elementary Forms of Religious Life was written on the path towards Western imperialist warfare. Yet, faced with people dragging even nations into killing each other for economic gain, is any discipline purporting to demonstrate that every society possesses a religious dimension not fundamentally impotent? In this sense, we cannot help but feel some doubt about the practical efficacy of Durkheim’s research.

 Yet Durkheim seemed to have his own calculations. In a sense, he sincerely tackled social problems such as labour-management relations and suicide. These were directed towards inward-looking social policy issues within the domestic society. Similarly, he was extremely passionate about moral education. These constitute the academic foundation for rebuilding the national society not merely as an economic society, but as a composite order of economy and society. For this purpose, it is ideological education to instil in both capitalists and labourers the consciousness of being fellow nationals.

 However, the French welfare state required the plunder of immense wealth from its vast external colonies. Consequently, the national consciousness for sharing this pie was complicit with French colonialism.

 The Primitive Form of Religious Life stands as a classic, marking the starting point of French cultural anthropology. It placed totems, thyrses, and the gift economy on the analytical table, paving the way for figures like Marcel Mauss and Lévi-Strauss.

 Yet Durkheim’s positivism, while robustly maintained, never critiqued or denounced the centrality of high societies over low societies within the modern world system. He likely desired France’s “gentle colonialism” as an alternative to the economic exploitation of British colonialism. Yet, to the extent that positivism unquestioningly rode the wave of the modern world system, it paid the price of completely cutting off another face of reality: the anti-colonial resistance movements by the Aboriginal people. In this sense, Durkheim’s positivism became a one-sided positivism that excuse the French imperialism.


Keywords : Durkheim, Sociology, colonialism, economy, society


 
 
 

コメント


bottom of page