自分史的な出来事(日記風の個人史)
- 竹内真澄

- 12月3日
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更新日:7 日前

2025年12月3日 「思想は原則的に、行動は節度をもって」
真田是先生(1930-2005)は、わたしにいろいろ教えてくださった。そのなかでまだ私が会得できていないのは「思想は原則的に、行動は節度をもって」の、とくに後半である。状況があり、そこから情報を分析し、主体は「間」(反射ではなくて)をもって状況に働きかける。この「間」が、すなわち思想である。誰にも迷惑をかけず、関係もせず、誰も巻き込まないような、純粋に私的なことなら、直情径行的であっても大目に見てよいかもしれない。しかし、自分以外の誰かに関わること、共同で行動するばあい、は物事と人間をよくよく考えて、塩梅が大切である。フライイング、スタンドプレイ、足の引っ張り合い、近親憎悪などは、たいていは、状況分析と自己認識の不足からくる。つまり、節度の欠落は、思想と状況のあいだにある多元的要素の見落としからくる。危機感があり、焦りがあると見落としが起こりやすい。かといって何事にも泰然自若というのでは、昼行燈だ。焦らず、しかしゆるりと進むくらいが丁度なのであろう。
2025年11月29日 過労死をどう考えるのか
従来までの過労死論に多くを教えてもらってきたが、ちょっと原理的に考えてみたい。長労働時間が悪い、という論調が支配的であった。したがって、手帳に毎日どのくらい働いたか、つけておきましょうという教えが書かれた。しかし、こういうのはやや現象論ではないか。本質論から言えば、いつまでに、これこれの仕事をして、成果をだしなさいという専制のもとに働く人は置かれている。ノルマを専制的に設定されている。このノルマは高すぎて無理ですとは言えない。やってみますとしか言えない。資本は専制的に「労働処分権」を持つ。労働力を売る雇われ人に「労働処分権」はない。時間を短くしたら、過労死を回避できるかもしれないが、高密度労働や高めのノルマはなくなりはしない。たとえば、退社はするが、ノルマは高いので、民間の小オフィスで無理をして働いて、間に合わせるというようなことはありうるのではないか。街や駅や喫茶店にパソコンの使える設備が普及して人はうわべだけ便利になったと感じるが、それは長く働かせておいて残業代を支払わない新種の政策かも知れない。
だから過労死というは、労働力の商品化、それにもとづく「労働処分権」を全部ボスに握られているところから生まれているということではあるまいか。とすれば、KAROSHIが日本的だと言われるのは、長時間労働というよりも、「労働処分権」の強さから来ているのではないのか。ここを争点化せずに、会社滞在時間の時短や、裁判で使える資料作りに向かわせるのは変じゃないか。なにやら本末転倒なことをやっているように感じるわけである。
むろん、そういうのは労働運動が強いころは言えたけど、いまは無理だからそうなっているというのはわかる。だが、時短はひとつの手がかりであって、本質は「労働処分権」であると一行くらいは書いても罰はあたるまい。過労死弁護団の弁護士の方がたに文句を言うのではない。むしろ社会科学者の責任が重いと言うべきだったかもしれない。
2025年11月14日(金)ジャン・ジョレスとエミール・デュルケムの死
ジャン・ジョレス(1859~1914)とエミール・デュルケム(1858~1917)は、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)の同級生で、互いに一目置く程度には知り合いだった。
ジョレスはフランス社会党のリーダーで、1904年にL'Humaniteユマニテを創刊した。ジョレスは、第一次大戦が迫る前、1912年11月24-25日にスイスのバーゼルで開催された第二インター臨時国際大会において、バーゼル宣言の文案の作成委員会に名を連ね、「諸国労働者は戦争を阻止するためにはあらゆる手段を取る義務がある」と明記した。こうした労働者国際主義は、好戦主義者やナショナリストには目障りであった。それゆえに、1914年7月31日ジョレスは暗殺された。同年8月になると、各国の第二インター諸党は祖国防衛戦争に賛成する側に転向した。ともにバーゼル宣言をつくったドイツ社民党指導者K・カウツキーとオーストリア社民党指導者ヴィクトル・アドラーは、国家防衛論に与した。こうして、ヨーロッパ左翼は分裂し、第一次大戦のなかでレーニンだけが反戦の原則を守る生き残りとなった。左翼が国家防衛や軍隊の「活用」を論じることがどれほど危険で、後の階級的連帯にたいして大きな傷を残すか、ジョレスの死は世界史的な意味をもつ。
さて、これらにたいしてデュルケムは、社会主義にかんする著作(1893)はあるけれども、決して社会主義者ではなかった。デュルケムは社会主義が、国家を使って自由な商品交換を規制するという共通項をもつ考え方であると書いている。デュルケムは、社会というものが道徳的本質をもつし、道徳的次元がなければ統合不可能なものだという考えをもっていた。この「道徳的なもの」というのは、けっきょく国民道徳のことである。資本家も労働者もフランス国民として、功利的なエゴイズムを捨てるべきだというのがその中身であった。しかも、第一次大戦が迫ったとき、ジョレスとはぎゃくに、デュルケムはフランスが「正しい戦争」を戦うべきだと考えた。祖国のために戦うことは、国民の道徳を結集させる好機だと考えた。もともと、デュルケムは学者になったときから、道徳こそが人の生命を生き生きさせると考えた。道徳がなくなると、人はアノミー(無規範)状態に陥り、自殺が増える。しかし、戦争は国民道徳の結集だから、とりわけフランスのように「自由な市民社会」の伝統がある国では、自発的に参戦する国民を下からつくることができる。だから、ドイツのような国家主導の戦争ではなく、フランスは市民主導の戦争を仕掛けうるのだと、非常に好戦的になった。
おそらく1914年8月の第二インターの崩壊を、デュルケムは歓迎したであろう。国際主義は障害であり、国民主義が正しいと考えたからだ。
「道徳は人間の生命の源泉である」というテーゼは1893年の『社会分業論』以来の彼の考え方である。20数年後、この考えはなお不動であった。ところが、実際に戦争が始まると、戦争は決して綺麗ごとではない。デュルケムの教え子や息子のアンドレは戦死した。デュルケムは眠れなくなり、神経症に悩み、一切の仕事ができなくなった。なぜなら「道徳は生命の源泉であると同時に死の源泉でもある」ということが、彼にはどうすることもできない自己矛盾となったからである。
ジョレスの死は悲惨だが、敵に殺される死を彼はある程度予想したかもしれない。それでも覚悟があったのではなかろうか。かれが成熟した思想家であるならば、そうであろうし、またそうでなくてはならない。
これにたいして、デュルケムの死をどう考えるべきであろうか。1915年5月デュルケムは精神的ショックのためソルボンヌ大学の講義を中止し、あれほど多作であった原稿を書くこともやめた。1917年11月15日彼は死んだ。家族の死亡通知によると、かれは脳卒中で死んだとなっている。ユマニテは「脳の発作による急死」と報道したし、甥のマルセル・モースも追悼文で「脳卒中」と明記している。
彼の死を理論との関係で位置づけると、道徳が人を生かすと言ってきたフランス最高の社会学者が戦争の道徳性を強調し、毎日講演や新聞で、活動した。にもかかわらず、まさにその道徳主義がとりかえしのきかぬような犠牲者を生み出し、愛する人々を彼から奪ったのである。いったい、道徳とは人を生かすものだったのか。反対に、殺すものなのではないかという反省は、デュルケムの道徳論の前提をいやおうなくむしばんだ。デュルケムは、なぜ戦争が起こるのか、どうやったら本当に人を生かす道徳を構想できるのか、わからなくなった。最後の2年余りの休養にもかかわらず、彼はもはや出口をみつけることはできなかった。
ジョレスとデュルケムの死は、およそ自覚的に何かを考えようとする者すべてにとって、非常に異なる教訓を与えている。
2025年11月2日(日)『東京物語』の紀子の台詞
4泊5日の北海道旅行に家族と行って、一昨日帰った。道南各所それぞれよかったが、ウポポイ(白老町)が一番だったかな。毎晩疲れていたけど、夜中に『東京物語』をスマホで観た。若いころから何回観たか知れないが、5回目くらいだろうか。もっと多く見た人はおそらく山ほどいるにちがいない。
ながらくわからなかったのは、紀子(原節子)の「わたし、ずるいんです」という台詞だ。何がずるいのか、わからない。自己反省がきびしすぎるように思えた。
映画は、東京見物を終えて尾道の家に帰った平山周吉の連れ合いとみ(東山千栄子)が死ぬところだ。紀子は、尾道の義母とみの葬式に列席し、義父周吉(笠智衆)と二人きりになったとき、「わたしらには気兼ねせんと、お嫁に行っとくれ、お母さんもそう言うとったよ」と言われる。同じことをとみからも言われた。とみは実の子が引き取ってくれず、ふたたび紀子のアパートにやっかいになる。そのときにとみは次男昌二の卓上の写真を見て「遠慮のうお嫁にいってもらってええんじゃから」と言う。灯を消して二人並んで寝るが、紀子は美しい目を天井に向けており、決して泣いてはいない。むしろ、意志的に見えた。
夫昌二が戦死して8年経っている。紀子は、一途な愛の思い出に生きるか、それとも新しい伴侶を探すか、悩んでいるのである。
紀子はとみの葬式後一番最後まで残った。とみの死は死別により一人残される周吉と自分を重ねる契機になる。しかし、紀子はまだ若いのだ。
浦山桐郎(1930~1985)は小津安二郎監督(1903~1963)の弟子である。彼は新聞に「東京物語は静かな反戦映画である」と書いたことがあった。映画雑誌『キネマ旬報 小津追悼集』(1963年)に同じ趣旨の発言が載っている。「『東京物語』は静かな反戦映画だ。戦争が奪ったのは命だけでなく、家族の形そのものだった。紀子はその犠牲者として描かれている」。
浦山に啓発されて紀子を考えてみると、もしも昌二が生きていたら、最愛の夫と共に生きていけたはずだったのだ。そこからすれば、周吉がうらやましいほどなのだ。いま、周吉と自分は伴侶を失ったという意味では同じだが、夫婦で生きたという過去を持ちえなかったという意味では違うのだ。紀子はこのままでは、長い孤独を生きねばならない。それは怖い。葬式はまさに紀子をその恐怖に決定的に直面させた。
実の子はみなエゴイストで、親が来てもろくに面倒をみない。長男幸一(山村聡)と長女しげ(杉村春子)は、「こどものころはもっと優しい子じゃったがのう」「そうですなあ」と親に見破られている。対照的に血のつながりのない紀子だけは、献身的なほどやさしく二人の世話をした。
紀子は聖女なのだろうか。小津はそういうふうには描かなかった。紀子は、都会で孤独に働いている。その孤独を埋める温かい人間関係がほしい。じぶんの孤独から逃げるために、彼女は義理の親の世話をやきたいのだ。それで親には感謝されるが、紀子は幸一やしげと別格というわけではない。それぞれの生活を守っている幸一やしげのような生活が、紀子にはないのだ。自分はこれからの短くない人生をいきいきと生きていきたい。だが、昌二のことを忘れることは裏切りのようにも思える。正直、思い出さない日があると周吉には告白する。息子思いの「よき嫁」と誤解されるのは、苦しい。
紀子が周吉ととみの面倒をみるのは、平山家の一員だからだ。だが、平山家とはいずれ別れねばならない。家を出る決意は固まっておらず、とみにも言えなかった。親の世話をすることで、暖かな人間関係を味わいたいという気持ちもある。でも本当に解決すべき課題を先送りにしているべきではないとも思う。紀子がエゴイストではないと誤解されるのは困る。自分もエゴイストなのだが、手が込んだエゴイストであるために、本質が覆われて人にはそう見えないだけのことだ。まだそれに見合う生活ができないだけなのだと紀子は省みて自己を思う人なのだ。「私、ずるいんです」というのは、幸一としげよりも倫理的人間と見えるだろうが、実は同一のエゴイストであるという彼女の自覚の現れである。英語版字幕では、「I am selfish」となっているそうだ。少しニュアンスが強すぎるが、核心をはずしていない良い翻訳だとぼくは思う。映画は、このシーンで日常的なやりとりから一気に異次元の総括へ飛ぶ。ここから「ええんじゃよそれで、あんたはやっぱり正直なええ人じゃ」という会話は、自己分析と慰めが最高に盛り上がる場面だ。本当に素晴らしい。
浦山桐郎は、そういう戦争未亡人の葛藤そのものが、戦争の犠牲だと言う。戦争は人が人を殺す修羅場だが、戦争が終わって平和が回復されてから後になっても、こんなにも残酷に人を苦しめる。小津安二郎が紀子にきびしすぎる反省を語らせたのは、もう二度と紀子のような人間をつくってはいけない、戦争をやめろと伝える効果を最大限にする演出だ。これこそ「戦後」日本映画の傑作中の傑作と言って過言ではない。
2025年10月16日(木)漱石の自筆原稿
昨日から天理大学参考館で「文豪たちの自筆展 漱石・子規・鴎外」開催中である。行った。『猫』の原稿の名前の「漱」が口へんになっていた。これは『ホトトギス』に連載中の第10章の名前で、夏目は省略している。ふうんと思って、『坊っちゃん』の冒頭原稿を見ると、あら不思議、こちらも口へんで、作りが消えかかっていた。どちらも出版時には氵になっている。もともと漱石はペンネームを『晋書・孫楚伝』からとったとされる。晋の国に孫楚という人がいた。隠居するときに、親友の王済に自然の中で悠々と暮らすつもりだと言いたかったのだが、つい間違って「流れに枕し石に口すすぐ」と言ってしまった。流れに枕し、石で口をすすぐことは無理だと王済に質された。孫楚は、流れに枕するというのは、俗世のくだらないことを聞いてもこれを洗い流すことであり、石で口をすすぐというのは、石で歯を磨くということだ、と強弁した。負け惜しみで、強情な偏屈者である。漱石は、正しいことよりも、この偏屈が気に入った。
「くちすすぐ」は古代中国では「嗽」という字で書かれていた。のちになって「漱」と書き直された。だから、漱石は、古代中国の原典通り「嗽」を使ったのだと思われる。「漱」を使ったとしても別段間違いではない。口すすぐだから嗽の方が感じが出る。だから初めのうちは「嗽」を使ったに違いない。だが、何らかの理由があって漱石は嗽を諦めた。なぜか。それは明治の活版印刷の事情と関係している。漱は植字で使われる字だったが、嗽はないか、非常に難しい字だった。それで植字の職人の苦労を忖度して、漱を選んだのではないか。もしそうだとすれば、漱石は偏屈者たることを捨てて、慣例に従った。だから、漱石は意味上は偏屈者を指すのだが、嗽石を捨てたことで偏屈を捨てた。カッコつけて言えば、「漱石」はそれだけのパラドクスを抱えた名前だ。こういうことに何度も何度も衝突して人は胃潰瘍になるのである。
2025年10月6日(月)分裂病と近代
ヘーゲルが近代とは大いなる分裂の時代である(1807)、と言ったことを皆忘れている。ヘーゲル学者もなんら例外ではない。分裂というのは、自分がままならぬ、ということである。人を殺したくはないが、殺してしまう。傷つけたくはないのに傷つけてしまう。仲良くしたいのに、仲たがいにしてしまう。そういう大きな哀しみの時代が近代である。戦争、経済格差、環境破壊、人間劣化に直面する人類の日常を当の人類がどうしてよいものやらわからなくなっている。それはいったいなぜなのか。どうして泣いて暮らさねばならないのか。自己が分裂しているがゆえにそうなるのだ。
西洋近代は分裂の時代だとすでにフランス革命後のヘーゲルは見通したのである。ある意味ではヘーゲリアンである丸山眞男は、たとえそうであっても、当の近代をひとたびは迎え入れねばならない、と考えた。分裂をくぐらぬ具体はない。抽象をへぬ実感は弱いと考えた。だから、いかに近代的な主体が丸山の理想であるように見えたとしても、もう一枚底に、さらに深い理想が隠されていたと考えなければならない。近代をくぐらねば次はない。ならば、近代をつくらねばならず、分裂を引き受けねばならない。だから、丸山が「超国家主義の論理と心理」1946において「自由なる主体」という展望を語ったときでさえ、せいぜい天皇制の呪縛から相対的に解き放たれた「自由」を便宜的に語ったにすぎない。そう考えなければ、ようやく西洋並みになったのちの戦後民主主義を考えることはできないはずである。丸山が日本をただ西洋並みにしたかっただけだとは考えにくい。
もし分裂をひっかぶって生きれば我々はどうなるのだろうか。そのように考えることが丸山から出てくる恐るべき問いであるように思われる。この考え方は、中井久夫が考えていた『西欧精神医学背景史』(1979)、『分裂病と人類』(1982)と矛盾しない。浅学の者は、丸山と中井の間に近代主義と反近代主義の深淵を発見して、衝撃を受けたり、安っぽい野心を抱くかもしれない。
しかし、そんなことを考えても何にもならない。中島みゆきなら、「包帯のような嘘をあばいて学者はわかったような気になる」というところがオチである。
ぼく自身のことを素材にふりかえると、外から声が聞こえたり、靄がかかって脳が動かないということがたびたび起きた。それは、生きている環境と自分との間に被膜ができて、外界にはいりこめない状態だった。環境の複雑さに対応するだけの準備が自分の方に十分備わっていないために、状況に飛び込むと足をすくわれる。かといってひきこもると状況に置いていかれるというジレンマに置かれた。なぜぼくが発病し、何度も再発したか、この根を探っていくと、中井の言う「近代的自我」の引力圏から脱出できていなかったからではないかと思われる。近代は近代的自我を強要する。すると、適応が過剰適応となり、状況と十分な距離がとれなくなる。そうなると、判断停止のままで走ることになる。走るのではなく、実は走らされているので、自分では止まれない。急ブレーキをかけると足がもつれて転倒する。そういう危機的状況であった。
ではなぜ治癒したか。それは被膜を十分複雑化して、状況との適切な距離をとれるようになったからだ。ぼくのばあい『近代社会と個人』(2022年)を書くことで距離をとれた。ようするに、近代的自我をつくることとそれに囚われぬことの論理的な関係を整理した。
コギトの努力で切り抜けたという意味ではない。そうではなくて、過去500年を再検討して、近代の分裂をわがこととしてじぶんなりにくぐってみたということである。だから、丸山と中井のあいだを、矛盾なく往復できるようになったと言いかえることもできるだろう。倒れてもただでは起きぬがめつい奴だと笑われるかもしれないが、およそ物事はそういうふうにできているのである。
2025年10月2日(木)UNLEARNって知ってます?
京都自由大学の会場は、できるだけ交通が便利で、終わった後の懇親会にも好都合な場所が望ましい。あれこれ考えていた。本当に偶然だけれど、また、会場探しのためにお話ししたわけでもなかったのだが、後輩に中村正さんという男性学の専門家がいる。長い間交信なしで、かれこれ40年ほど経っていた。その中村さんと再会した。
1990年代に立命館大学は「平和と民主主義」から「自由と清新」へ、ちょっとした劇的転換をしたらしい。今頃になって、それを知ったのだが、その渦中にあって、中村さんは当時副学長をやった。そのことは風の便りに聞いてはいた。偉いさんになったもんだと外から見ていた。本能的に偉いさんには近づかないほうがいいとぼくは思った。
今年の全国唯研機関誌『唯物論研究年誌』にぼくは編集部に依頼されて「メディアはつくるものだーある体験的断章」というエッセイを書かせてもらった。それは10月末か11月初めには出版されるだろう。そこに1970年代の立命館の思い出を書いたので、中村さんにも送っておいた。
外から観察していたぼくと中で関与していた彼とが、同一物をどんなふうに見るかということにものすごく関心があった。最近何してるという話になって、退職後社団法人UNLEARNをたちあげて、そこの事務所で暴力に悩む男性のカウンセリングをやっている、というのだ。それでもう権力者ではないし中村さんの事務所に遊びに行った。
一般社団法人UNLEARNは〒604-8382京都市中京区西ノ京北聖町24新二条ビル3Fにある。一階は感じのいい喫茶店CAFE Phalamだ。パラムとは、サンスクリット語で「果実」をさすらしいが、自分の行動の結果をさすものらしい。
3Fの事務所は10畳くらいのこざっぱりした内装で、千本通りに面しており、千本二条のバス停のすぐ後ろだ。斜め南にJR嵯峨野線二条駅が見える。まことに交通の要所であり、嬉しいことに時々会場に使わせてもらっているAtlas518や三条会商店街にも近い。
ここだな!と勘が働いた。自由大学のスケジュールでは12月20日(土)に大阪公立大学の上柿崇英さんに哲学的労作『<自己完結社会>の成立 環境哲学と現代人間学のための思想的試み 上下』(農林統計出版、2021年)をかみくだいて講義してもらう予定になっている。当日このUNLEARN事務所を使わせていただけることになった。中村さんの協力にお礼を申し上げたい。
ついでに、UNLEARNは「まなびほぐし」「まなびなおし」という意味だそうだ。中村さんは鶴見俊輔さんの言説から名づけたと説明していた。ぼくの記憶では、その昔I・ウォーラーステインが京都国際会議場に来たことがあった。「Unthinking Social Science」と銘打って話をした。そのときに司会役の鶴見俊輔さんがun-thinkとは再考re-thinkではなく、脱思考、考え直すことだと説明していた。ウォーラーステインによれば、社会諸科学Social Sciencesは史的社会諸科学と呼ぶべきもので、一定のイデオロギーに立脚しており、そのうちに消滅する。すると単一の「脱=社会科学」が成立するのだそうだ。すなわち、ものごとの成立の前提をつきくずす、そのことをUnthinkという。おなじように、暴力をふるう男性は何かを学んで暴力するに至る。だから、暴力はたんなる衝動ではなく、彼が学びの上で身にまとった「男性的なるもの」のひとつの結果である。だからUNLEARNによってしか解決しない。
そういうわけで、自分や身の回りに虐待したり、恋人に捨てられて後悔している男性がいたら、ぜひUNLEARNを訪ねて欲しい。ここは厚生労働省の認可をうけているそうだ。UNLEARN
2025年9月30日(火)『福翁自伝』に何を見るか
昨日から大学の秋学期授業が始まった。「社会学特講 福沢諭吉と夏目漱石」も最初の2回は遠隔でそのあと対面授業の予定だ。タイミングのよいことにNHK ETV「100分で名著 福翁自伝」をやっていた。第3回目の番組冒頭で福沢が訪問した国と都市を一覧できる世界地図を見せてくれた。
『福翁自伝』には、①1860年の咸臨丸(105頁)、②1862年のオーヂンという軍艦でのヨーロッパ訪問(124頁)、③1867年のコロラドという郵便船での2度目の渡米(163頁)である。彼は3回洋行したが、すべて幕末であり、明治維新以降は行かなかった。
斉藤孝さんはこの中で①の福沢の咸臨丸乗船を取り上げ、なんのコネもない時にどうやって乗船までこぎつけたかをサラリーマンにも参考になる交渉術だと位置づけて大層褒めた。
確かに福沢には要領の良さがある。それは愉快である。だが、要領の良さは全て彼の目的に従属している。だから、要領の良さだけを切り取って視聴者に示すのは、方法を目的から切り離して伝えることになる。『福翁自伝』を手段論と読むか、それとも目的論と読むかで、彼のスケールはぜんぜん変わってくる。では『福翁自伝』の面白さは何か?それは西洋近代とは何かを発見するという目的があることだ。それを手本に日本近代を作ることができる。
①でワシントン大統領の子どもは何をしているかと尋ねたのは、身分が廃止された時人は身分を知らないように振る舞うかどうかを確かめたかったからだ。②のオランダ訪問の時ある使節はアムステルダムで「土地は売買勝手なるか」と尋ねた。オランダ人は「ソンナコトはこれまで考えたこともない」と当惑した。このシーンは福沢をして西洋近代を把握する核心となった。日本にはまだ田畑永代売買の禁があったからだ。『西洋事情』1870年に私有という概念を丹念に紹介した。『福翁自伝』では陸海軍の基地、官私の工場、銀行、病院、寺院、学校、クラブを見たとし、さらに議会の二大政党を見に行ったことを取り上げる。
ではこうした実地見学で福沢の目的とするところは何か。西洋近代とは、身分なき社会であり、官民の2領域から成り立つことを予想している。そして、官よりも民が主導することに気づいて、それが土地・財産の自由な私有と売買に基づくことを福沢は他のどの日本人よりもクリアーに見届けようとした。
福沢は幕府内で最も西洋通であった。だから、内心開国を望んだ。しかし、尊王と開国で日本は揺れていた。『自伝』によれば遅くとも1862年に福沢は「ますます平生の主義たる開国一偏の説を堅固にした」(129頁)と書いている。すなわち、福沢の目的は西洋近代とは何であるかを知ることだった。
幕府は福沢が出歩くたびに役人をつけて監視させたらしいが、それを振り切って福沢は見たいところを見たという。何を見たいかが問題である。西洋近代とは何か。この目的に一切は規定された。
学問上の近代主義について現在様々な議論がある。ヨーロッパ中心主義への批判もある。
私はそれを重視する。にもかかわらず、福沢の西洋近代とは何かという問いかけの切実さに大いに学ぶものがあると思う。
2025年9月20日(土)戦中と戦後の断絶について
「みなさん!進駐軍の方がたに、声高くハロオと叫んで迎えましょう!隣の町では幼稚園の生徒までハロオといってます。この村で子供たちみんなが黙っていたら、村の恥です。みなさん!ハロオと叫びましょう」「さあ、声をそろえてハロオ!」「さあ、力いっぱい、もう一度、ハロオ!ハロオ!」「大変よろしい、力いっぱい、ハロオ!」「ハロオは日本語の、ようおいでなさいです。お客さんがきたら、おまえらもいうじゃろうがあ、ようおいでなさい、ようおいでなさい、ハロオ、ハロオ!じゃあ」「ハロオ、ハロオ、ハロオ!ようおいでなさい、ようおいでなさい、ようおいでんさああああいいい!」
今朝、忽然とこの部分を思い出した。唱和させているのは朝礼台の上に立つ頭の小さい片足の筋肉質の教頭である。「教頭は村の小作農の次男、三男や、傘屋の長男を義勇軍に志願させ満州に送った男だった」
大江健三郎(1935~2023)が1960年に発表した『遅れてきた青年』(新潮文庫、1970年、70頁)の印象的なシーンである。
教頭は学校のNO.2であるけれども、実務的には、権力をにぎる人物である。戦中にすでに教頭であったこの男は、敗戦後もそのまま教頭である。戦中はごりごりの軍国主義者であっただろう。そして、あの憎っくき鬼畜米英と一億総火の玉となって戦うのですぞ、と叫んでいただろう。同じ男が手のひらを返すように、進駐軍を歓迎しようと訴える。子どもたちは戸惑い、主人公であるわたしは、どうしても「ハロオ!」と言えない。突然、わたしの喉は「なむまいだぶつ、なむまいだぶつ!」と叫んでしまう。
軍国主義はひとつの権力体制であった、しかし、進駐軍のもたらす民主主義もまた別の、ひとつの権力体制だ。日本は、両極の間に立たされた。いったい何を信じるうるのか。
大江は、9条を守り、原発に反対する立場を選んだ。その感性的根拠は父と息子の関係だった。やなせたかし(1919~2013)は、ひっくり返らない正義とは何かを追い求めて、アンパンマンを思いついた。
敗戦時に10歳だった大江と26歳だったやなせを比べて、どこがどういうふうに違うか、軍国少年だった大江と、実際に中国戦線へ駆り出された兵隊だったやなせでは、どこがどういうふうに同じなのか。ふと問いかけてみたくなる。
2025年9月12日(金)「ありえない」という言葉は、ありうることの証明
どうしてかわからないが、夏が来るとつげ義春を読みたくなる。「ねじ式」(1968)には、意表を衝く蒸気機関車が出てくる。さびれた漁村の路地から機関車が飛び出てくるシーンを、つげファンは愛しているに違いない。そんな馬鹿なことがあるはずがない。こんなところにどうして機関車が走るのか、わけがわからない。
約40年前のことだ。ぼくは今住んでいるところへ引っ越してきた。旧山陰街道の近くだ。この道は平安京の羅城門から西へ向かい、桂川を渡り、老ノ坂峠を越えて、鳥取から下関に至る。その狭い街道の両側には昔の家並みが残り、藁葺きの家もある。現在は国道9号線が並行しているから、路線バスは9号線を走る。ところが、置き去りにされたはずの旧街道にバスが走っているのだ。見捨てられた路地のような道をバスが走ってくるのを初めて見た時、ぼくは「ああ、つげ義春だ」と思った。確かめたくなって「ねじ式」を買い、今朝再読した。ありえないけど、ありえないことは本当はあるもんだ。「ありえない」は、ありえている現実を前に発せられる。この言葉を私たちが知っていること自体、ありえないことがいかに頻発しているかを証明している。つまり、私たちは、幸か不幸か、可能性に満ちた世界を生きている。
2025年9月8日(火) 精神科医と反植民地主義
アフリカや中南米のことをもっと知りたいと思うようになった。海老坂武さんの『フランツ・ファノン』(講談社、、1981年)をファノン(1925-1961)の本と平行して読んでいる。ファノンを読むとアメリカの黒人の気持ちがわかってくる。若いころのマルコムXはファノンの分析でわかる。ファノンはフランスの植民地、カリブ海のマルチニック島出身の黒人だ。もう少し南へ行けば、あのE・ウィリアムズ(1911-1981)を生んだトリニダード・トバゴだ。植民地の黒人は色が黒いのを恥じた。すこしでも白っぽいのが上だと多くの黒人が考えたし、黒人内部の、より黒っぽいのは下だという序列があった。ファノンは精神科医だったので、黒人の劣等コンプレックスを治療したかったが、白人を羨望する黒人の意識を変えるためには、植民地であるアフリカの経済構造を変えなくてはならないことを知っていた。医者としてのファノンは患者にたいして黒人も白人もおなじ人間であると主張した。黒くもなく白くもない、同じ人間というのはいったい何色なのだろう。人間を解放するためには、黒にも白にも関係ない「人間」というものを認めなくてはならない。それは、シェパードも秋田犬も同じ犬だというのと同じ種類の抽象能力だ。色がない、ただの人間一般という、それだけでは実在しないものをイメージできなければ、人間を人種差別から解放することはできない。だが、理性によって皆が人間だと思えるようになったからといって、植民地が消えるわけではない。消えなければ、何度でも黒人差別はつくられるだろう。しからば、いまだに植民地が消えていない状況下におかれた人びとが、人間という理性を信じることに何の意味があるのだろうか。これは、教室で学びうるのが理性であること、しかし理性は現実の中で実効的にならねばならず、それは教室のなかで実現されるものではないということである。だからといって、教室は無力であるとか、無意味であるとかいうことにはなるまい。教室は理性を目指す。これは必要条件である。現実を変えるのは街頭闘争の課題である。これによって十分条件が満たされる。教室には教室の役割があって限界もある。その限界を承知で、街頭には別の意味がでてくると言わねばならない。ファノンに帰っていえば、彼は診療室で病状を記述した。しかし、それで足りないとかれは考え、ついに『地に呪われたる者』という植民地解放闘争の理論書を書いた。医者と革命家のふたつの側面は、かれにとって切り離しがたいものだった。これほど緊密な人生を送ったことは、短い人生を、いくぶんか幸せなものにしている。それがせめてもの慰めである。
2025年 8月27日(水)天性寺、金平茂紀さん、ドリアン助川さん
今日、9月13日(土)の第16回ZOOM自由大学の会場を、Atlas518からどこかへ移さねばならなくなり、あたふたした。20年ほど昔に寺町三条の天性寺を使ったことがあり、あそこは無理かなと思い、聞いてみたところ、縁のある方にしか貸しませんということだったので、諦めた。すると、直後にお寺から電話があって、京都自由大学とは昔ラジオカフェでやっていたかと聞く。それでそのとおりですと応えたところ、それならお貸ししようと嬉しいことになった。それでお寺からもう一度電話をもらえることになったのだが、合間にイオンシネマで映画を観たために、電源を切っていた。すると、受信歴にあちこちから受信記録が残っており、てっきり天性寺からだと思って、京都自由大学です、と名乗ったところ、ああ、自由大学ですね、金平ですとおっしゃる。あれ、天性寺は金平さんという担当者だったかと思い、ああ、天性寺さんですねと念のため言って続けようとすると、話が通じない。どきりとした。なんだか声をきいたことがある別の人なのだ。しばし頭が白くなった。金平さんとはジャーナリストの金平茂紀さんなのであった。それで自由大学の講座をお引き受けすると言ってくださった。ああ嬉しいと話がひとつまとまった。そのあとで、今度はドリアン助川さん(明治学院大学の教員 助川哲也さん)から、来年はじめなら講座をお引き受けするとのメールが届いた。ふたつもの講座講師が一挙に決まったことはいまだかつてない。まったく嬉しい一日であった。







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