問い返される日本史像
- 竹内真澄

- 1月17日
- 読了時間: 12分
2026年1月17日 丸山眞男『日本政治思想史研究』1952を思想史の方法として読みなおす
1983年に丸山は本書の英語版への著者序文を書いている。それじたいが非常に読み応えのあるもので、先行の思想史研究から丸山を区別させるものが何であるかを彼自身が非常に丁寧に書いており、その方法論上の緊張感がまことに行き届いている。ぼくは最近『日本政治思想史研究』を読みなおして、自分なりに結論づけたのは、第一論文「近世儒教の発展における徂徠学の特質、ならびにその国学との関連」と第二論文「近世日本政治思想における『自然』と『作為』」は、ともに前近代から近代へという思想史的移行を扱っているわけだが、いったいどこが違うのかという問いについてである。まず、第一論文は、非常にマルクス主義的に書かれていると言ってよいが、ところが1930年代までのマルクス主義が思想を階級利害の代弁や生産関係の機械的反映とみなす水準にとどまったことに対して不満をもっていた点だ。丸山は「思想の自律的な内的論理の展開を、社会的基礎・・・と結びつける具体的な方法を提示することには成功していなかった」(全集第12巻、89頁)と指摘する。ここで「自律的な内的論理」とは何かというと、「非人格的な思惟範疇」のことだと述べたことは見落としてならぬところだ。
つまり、社会的基礎は、なんらかの「非人格的な思惟範疇」を誰かの人物を通じて生み出すものだと丸山は想定しており、その範疇を見つけることができれば、うまくいくのではないかという展望をもっていたのだ。第一論文が、並みのマルクス主義と違うのは、いわゆる土台・上部構造という手法を取らなずに公私二元論(公私分裂)を選んだことである。もし、土台・上部構造でやっていたら、徂徠学から国学への思想的展開を説明することはできなかった。公私未分化の前近代には、公を公とし、私を私とする、二つの領域区分がない。政治を政治技術として確立し、私にそれなりの自律性を許容する思考は徂徠の古学において初めて誕生した。丸山が徂徠を発見するためには、したがって、近代とは公私二元論のことだという尺度がまえもって頭の中にできあがっていなければならない。
もし、公私二元論を選ばずに、土台が資本主義経済で上部構造が近代国家である、それが近代であると見なしてしまうと、徂徠を発見できないし、いわんや「もののあわれ」という心情主義に耽溺する本居宣長がどういう意味において近代的か、わからない。だから、ホッブズの政治哲学とドイツ観念論哲学の葛藤から、初期マルクスが公私二元論をうけついでいることを丸山が熟知していたことを、第一論文は教えてくれるのである。第一論文は、この意味において公私二元論という構造にどういう「非人格的な思惟範疇」が対応したのか、という外在的観察である。
外在的とここで言うのは、公私二元論に対応する範疇、たとえば「天道」と「人道」を別ものと見る言葉の使い方を、いわば客観的に外からみているからだ。公私二元論は、いわば社会の構造である。すると、言葉は「内的なもの」ではあるが、社会の構造に対応している限りでは、外在的に観察できる。第一論文は、主として構造と範疇の結合を観察者側から、外在的に考察したのである。
では、同じく近代化をなぜまた第二論文で扱わねばならないのか?丸山によれば、「第二論文は、元来第1章の補論として書かれたものだ」(92頁)。しかし、どうして補論が必要なのか。「政治的=社会的環境にたいする諸思想家の直接的な反応を・・・狭義の政治的イデオロギーの方に移した考察を補う必要を感じた」(92頁)からだ。このばあい、近代化が市民勢力の力で革命までこぎつけた西洋に比べて、安藤昌益の除いて、西洋の社会契約説、人民主権論、抵抗権の思想さえない徳川思想史で目立った素材のない260年をどうやったら前近代の終焉へ向かう傾向を取り出せるのか。丸山は悩んだすえに、例の思惟様式は、表面の政治には保守的でも、徐々に近代化したと読み取る。丸山自身が「苦しまぎれに」「思われざる結果」と評して近代意識が準備される過程を描いたと論じている。もっと言えば、社会契約説的主体が成熟せぬまま、封建制内部で「頽廃」(丸山、1952、250頁)するところに、どのように屈折したかたちで「封建制の解体」の思惟範疇が溜まるかを見ようと苦心した。
安藤昌益と本居宣長が、綱渡り的工夫を支える希少な素材を与えた。丸山は、安藤を上手に位置づけ、かつ処理しただろうか。そこが実はよくわからない。何度読んでも論理がつながっていないように見える。総括的に言うと「朱子学的自然はその否定として徂徠学的作為を生み、更に否定の否定として昌益的自然に到った」(同、263頁)としている。この思想史的文脈化はレトリカルだが、実にわかりにくい。というのも、自然→作為→自然となっており、昌益は大事なものを継承できなかったかのように書いている。
実は昌益の「直耕」を、丸山のごとく、「万人平等の直耕にもとづく物々交換の社会」「封建社会以降よりはむしろ以前の社会」と考える必要はない。昌益の自然は、決して朱子学的自然への本家帰りではないのだから、この自然は自己労働にもとづく所有の萌芽であり、作為的自然である。昌益は、徳川の政商的支配(それは徂徠の絶対君主の延長)が八戸に押し寄せて経済を荒らすことにたいして怒りをもっていた。それゆえ、政商に対する農村を重農主義的に純化して理念型化した。それが直耕である。よって、これはそのままでは政治的な次元の社会契約論に接続しにくいけれども、迂回的に重商主義→重農主義→古典派経済学への途上にある。昌益は、だから経済学史上のケネーと政治学上のロックをたすき掛けにする位置にある。そのように考えるならば、徂徠的作為に対抗するのは、昌益的自然ではなく、昌益的作為と解してなんら不都合はない。けれども丸山の昌益論の中には一度も重農主義という範疇が出てこない。その理由は、丸山があまりにも政治学史の内部に立てこもるからだ。昌益の作為は直接的には経済的行為であり、しかも、この理念型をもとにすることで一切の神道、仏教、儒教的支配者のイデオロギーを排除する政治性をもつ。だから、経済学史と政治学史を交錯させ、撚り合わせて、昌益を位置づけるべきではなかったかと思われる。そうすれば、昌益は決して頽廃ではなく、反動でもなく、非常に順調な重農主義的思想である。
では、残りの宣長はどうか。宣長は、外来の一切の規範を嫌い、ただただ人欲のおもふがままの自然に依拠する。これは、西洋の個人(233頁)が規範を構築できたのとは大違いである。だから、丸山は国学の非政治的立場というものは、何か新しい政治的秩序を構築するわけにいかないし、また既成の政権を正当化するわけでもないと見る。宣長論の最後の文章は「この(国学の)思惟構成を通じて『作為』の論理は既に不気味な発酵を開始しつつあった」と締めくくる。封建制は腐ってゆくが、国学的主体もまた腐ってゆくということであろうか。
第二論文がなにゆえに書かれねばならなかったかは、第一論文が外在的な構造論だったことと対比すればわかる。すなわち、自然と作為という二つの制度観は、社会秩序を所与の動かしがたい自然とみるか、それとも人間が主体となって作るものとみるかの違いである。これはふたつのパースペクティブの違いであるから、すぐれて内的なものの歴史的転換であり、これこそが思想史が扱うべき主体の歴史である。
第一論文は、だから、なぜ思想の変動が起こるかという社会史的根拠を示す。そして、それを受けて第二論文は、すぐれて思想の内的カテゴリーを抱くところの主体の歴史を扱ったのである。これらの外在と内在の弁証法的な関連をなすものとして、二つの論考は互いを支えあうものにほかならない。
思想史の方法を整序するという見地から見たばあい、丸山は外在的思想史と内在的思想史を自覚的に提供したのである。世界の思想史の遺産はいろいろあるだろう。けれども、戦後思想史においてこれだけの達成が現に現れたということを私たちは大切にしてよいのではあるまいか。
2025年9月21日(日) 西洋が、武家社会を完成した
日本史を、15世紀までと16世紀以降で大きく二つにわけて考えたい。日本史というと、この島に人々のかたまりがあって、それが竹の子のようににょきにょき育ってきたかのように、植物主義的なイメージで掴む人がいる。一番極端な史観では、宮家があって、その他大勢は本家からの分家で赤子なんだという歴史観だ。井上哲次郎(1856~1944)、高田保馬(1883~1972)、和辻哲郎(1889~1960)、文部省が学校に配布した『国体の本義』1937、平沼麒一郎『臣民の道』1941とかにそうした記述がある。
でも、初めからかたまりがあったわけではない。ずっと西から人は流れ者として移動してきた。最初は日本列島は無人だった。どんな家もない。草原と山しかなかった。流動のなかで日本を掴まねばならない。
世界は、もとはアフリカから始まった。日本人はみな元を辿ればアフリカ人だ。およそ30万年前に東アフリカで人類が生まれて、いろいろなルートで地球上に散らばっていった。ゆえに、見た目は多様になったが、もとをただせば人類は皆アフリカの兄弟だった。天皇家だってさかのぼればアフリカ人だ。行く先々で塊というか、共同体をつくり、そこから脱出して、また寄り合い、さらに移動を続けた。
ところが、もとは皆兄弟であったとしても、数十万年の長さでジワジワ移動するから、途中の塊に生まれた人からみるとずっと後ろや前に行って住んでいる別の塊は異人にみえる。
東アフリカから地球各地に至る巨大な旅をグレート・ジャーニーと呼ぶ。いまのところ、南アジアから台湾、琉球をへて、九州の西南端にたどり着き、列島にひろがった先行集団がいた。一番最初は1000人くらいしかいなかったらしい。これが縄文人だ。狩猟生活をした。そこへ、おそらく中国、朝鮮半島をへて稲作文化を持ち込んだ人々が割り込んできた。弥生人だ。縄文人は狩猟生活だから、たえず移動するが、弥生人はより定住度が高い。先住民が縄文人で、あとから入ってきて稲作文化で支配したのが弥生人だろう。
日本の古代から中世までは、弥生系の制覇ということになるから、当然、中国と朝鮮の影響が強い。ウォーラーステインのいう世界帝国のひとつが中華帝国であるから、帝国周辺に日本は形成された。倭の女王卑弥呼が魏に朝貢した見返りに「親魏倭王」の称号を得たというのは238年のことだとされる。いわゆる冊封体制という中華帝国のアジア支配の傘に日本は15世紀までは入っていた。
12世紀ごろから、公家の所有地に配置された武装ガードマンたちは、次第に地頭となって、公家の土地を非合法に占拠し始めた。ひさしを借りて主屋を奪う形勢であったが、公家にはそれを防ぐ手立てがなかった。これが武家社会の起源である。武士は次第に土地所有をめぐって武装闘争することになり、戦国時代にはいる。
さて、ここで16世紀を考えるばあい、西洋による近代世界システムの影響下にはいる事件が起こった。1543年に種子島にポルトガル人が漂着した。これは教皇子午線1493年の指令に基づく世界分割の手が、東アジアおよび日本まで伸びていたことを意味した。種子島氏は、鉄砲技術を九州諸大名に売り、関西に普及した。堺、山城商人、長浜で量産ができるようになり、1550年代に商品化した。1575年の長篠の合戦で実践化され、織田・徳川軍が武田に勝利した。秀吉の天下統一は、鉄砲によるものと言わねばならない。武士社会の起源は12世紀であるが、武士社会の完成(16世紀末)は近代世界システムとの接触なしには説明できない。
従来、武士社会は日本固有の社会とみなされてきた。というのも、軍人が王権から独立した支配者になるという事態は中国にも朝鮮にも起こらなかったからだ。中国の支配は王と官僚による文人統治であり、軍人は科挙に受からないから、独立できなかった。また朝鮮でも科挙に合格した両班が力を握っていて、軍人はその下だった。ところが日本では軍人がいわば軍事独裁政権をつくってしまい、武士自身が儒教の教養を身につけた。荻生徂徠(徳川幕府の儒教ブレーン、1666~1728)は、宦官ではなく、両班でもなく、武士であった。
なぜ、日本には武士社会があるのか。なぜ軍部独裁がなりたったのか、なぜ文人統治ではなかったのか。これを説明するためには、近代世界システムを主導する西洋との接触が東アジアの中で日本で飛び抜けて強かったことを上げねばならない。イエズス会は、平戸のみならず、中国、朝鮮にも入ったが、布教に失敗し、鉄砲技術を求められることもなかった。戦国時代にフランシスコ・ザビエル(1506~1552)が九州に来た時期に、同志イグナティウス・デ・ロヨラ(1491~1556)はインカ帝国侵略をすすめていた。
中国・朝鮮の鎖国と日本の鎖国は、したがって意味が異なる。なぜなら、日本の鎖国は世界システムとの接触による武家社会の完成のうえでの徳川による貿易独占であり、「鎖国」というのは、西洋による侵略を避けるために外国船来航を排除するという意味であって、一切の無接触とか完全引きこもりではない。幕府は、ちゃっかり中国とオランダに限定して、東西世界に門戸を開いていた。だから、中国と朝鮮が世界システムの外での鎖国だったとすれば、日本の鎖国は世界システム内での鎖国だった。
徳川幕府260年は、それゆえ、対外的には幕府による貿易独占・諸藩の自由貿易禁止であり、対内的には徳川による幕藩体制であった。明治維新が他のアジア諸国よりもいち早く近代化へ向かいえたのは、徳川260年が、世界システムに対して完全鎖国ではなく、半開きだったからである。とりわけ蘭学の影響は国内に医学のみならず、社会・政治的影響を強めていくから、大村益次郎、橋本佐内、佐久間象山、吉田松陰が出現した。こうした人物に匹敵する人間が中国や朝鮮にはついに出現しなかった。倒幕思想は、半開きの「鎖国」の産物である。
この意味で、武家社会を日本固有のもの、日本的なものと考えるべきではない。そうではなく、戦国末からの世界システムとの接触が武家社会を完成させた事実を重視しておきたい。
したがって、武家社会の完成(豊臣秀吉の天下統一)、文禄慶長の役(1592~93、1597~98の朝鮮侵略)、徳川による「鎖国」、武家社会の崩壊(黒船のインパクト)という一連の過程は、いわば「儒魂洋才」の内外体制が破壊されて、世界システムに完全に包摂される過程であった。
16世紀からあとの日本史を、孤立した島国的現象と従来の日本史学は捉えすぎたのではあるまいか。世界史的視野からすべてを考えなくてはならない。思い切って単純化すれば、列島に引っ越してきて以来15世紀まで、日本の古代から中世は中国帝国の周辺にいたものとして説明すべきだし、また、16世紀以降の日本は、近代世界システムの巨大なインパクト抜きには考えようがない。すなわち西洋が武家社会を完成させ、存続させ、「鎖国」させ、最後には破壊した。ずっと我々は世界史的存在である。その形態が変わるだけだ。要するに、奈良の飛鳥寺596年から明治維新1868年までの約1300年は中国一辺倒、明治維新以降現在までの160年が西洋一辺倒である。
いずれにせよ、中華帝国の冊封体制から近代世界システムへ移行したことが、現代日本人のコンピテンス(遂行能力)の内的構造を規定している。私たちは、学校で「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「英語」の順で言葉の勉強をする。いや、させられる。これは、やまと言葉と中国文明および西洋文明が混合するような独特の自我の構造をつくりだした。自我とはすなわち言語である。これこそ、中華帝国と世界システムの周辺または内部に私たち日本人が生きていることの証明である。人間はその現実において、社会的諸関係の総体である。私たちは、日々このことを抜きには生きられない。







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