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問い返される日本史像

更新日:10月2日

 2025年9月21日(日)  西洋が、武家社会を完成した


 日本史を、15世紀までと16世紀以降で大きく二つにわけて考えたい。日本史というと、この島に人々のかたまりがあって、それが竹の子のようににょきにょき育ってきたかのように、植物主義的なイメージで掴む人がいる。一番極端な史観では、宮家があって、その他大勢は本家からの分家で赤子なんだという歴史観だ。井上哲次郎(1856~1944)、高田保馬(1883~1972)、和辻哲郎(1889~1960)、文部省が学校に配布した『国体の本義』1937、平沼麒一郎『臣民の道』1941とかにそうした記述がある。

 でも、初めからかたまりがあったわけではない。ずっと西から人は流れ者として移動してきた。最初は日本列島は無人だった。どんな家もない。草原と山しかなかった。流動のなかで日本を掴まねばならない。

 世界は、もとはアフリカから始まった。日本人はみな元を辿ればアフリカ人だ。およそ30万年前に東アフリカで人類が生まれて、いろいろなルートで地球上に散らばっていった。ゆえに、見た目は多様になったが、もとをただせば人類は皆アフリカの兄弟だった。天皇家だってさかのぼればアフリカ人だ。行く先々で塊というか、共同体をつくり、そこから脱出して、また寄り合い、さらに移動を続けた。

 ところが、もとは皆兄弟であったとしても、数十万年の長さでジワジワ移動するから、途中の塊に生まれた人からみるとずっと後ろや前に行って住んでいる別の塊は異人にみえる。

 東アフリカから地球各地に至る巨大な旅をグレート・ジャーニーと呼ぶ。いまのところ、南アジアから台湾、琉球をへて、九州の西南端にたどり着き、列島にひろがった先行集団がいた。一番最初は1000人くらいしかいなかったらしい。これが縄文人だ。狩猟生活をした。そこへ、おそらく中国、朝鮮半島をへて稲作文化を持ち込んだ人々が割り込んできた。弥生人だ。縄文人は狩猟生活だから、たえず移動するが、弥生人はより定住度が高い。先住民が縄文人で、あとから入ってきて稲作文化で支配したのが弥生人だろう。

 日本の古代から中世までは、弥生系の制覇ということになるから、当然、中国と朝鮮の影響が強い。ウォーラーステインのいう世界帝国のひとつが中華帝国であるから、帝国周辺に日本は形成された。倭の女王卑弥呼が魏に朝貢した見返りに「親魏倭王」の称号を得たというのは238年のことだとされる。いわゆる冊封体制という中華帝国のアジア支配の傘に日本は15世紀までは入っていた。

 12世紀ごろから、公家の所有地に配置された武装ガードマンたちは、次第に地頭となって、公家の土地を非合法に占拠し始めた。ひさしを借りて主屋を奪う形勢であったが、公家にはそれを防ぐ手立てがなかった。これが武家社会の起源である。武士は次第に土地所有をめぐって武装闘争することになり、戦国時代にはいる。

 さて、ここで16世紀を考えるばあい、西洋による近代世界システムの影響下にはいる事件が起こった。1543年に種子島にポルトガル人が漂着した。これは教皇子午線1493年の指令に基づく世界分割の手が、東アジアおよび日本まで伸びていたことを意味した。種子島氏は、鉄砲技術を九州諸大名に売り、関西に普及した。堺、山城商人、長浜で量産ができるようになり、1550年代に商品化した。1575年の長篠の合戦で実践化され、織田・徳川軍が武田に勝利した。秀吉の天下統一は、鉄砲によるものと言わねばならない。武士社会の起源は12世紀であるが、武士社会の完成(16世紀末)は近代世界システムとの接触なしには説明できない。

 従来、武士社会は日本固有の社会とみなされてきた。というのも、軍人が王権から独立した支配者になるという事態は中国にも朝鮮にも起こらなかったからだ。中国の支配は王と官僚による文人統治であり、軍人は科挙に受からないから、独立できなかった。また朝鮮でも科挙に合格した両班が力を握っていて、軍人はその下だった。ところが日本では軍人がいわば軍事独裁政権をつくってしまい、武士自身が儒教の教養を身につけた。荻生徂徠(徳川幕府の儒教ブレーン、1666~1728)は、宦官ではなく、両班でもなく、武士であった。

 なぜ、日本には武士社会があるのか。なぜ軍部独裁がなりたったのか、なぜ文人統治ではなかったのか。これを説明するためには、近代世界システムを主導する西洋との接触が東アジアの中で日本で飛び抜けて強かったことを上げねばならない。イエズス会は、平戸のみならず、中国、朝鮮にも入ったが、布教に失敗し、鉄砲技術を求められることもなかった。戦国時代にフランシスコ・ザビエル(1506~1552)が九州に来た時期に、同志イグナティウス・デ・ロヨラ(1491~1556)はインカ帝国侵略をすすめていた。

 中国・朝鮮の鎖国と日本の鎖国は、したがって意味が異なる。なぜなら、日本の鎖国は世界システムとの接触による武家社会の完成のうえでの徳川による貿易独占であり、「鎖国」というのは、西洋による侵略を避けるために外国船来航を排除するという意味であって、一切の無接触とか完全引きこもりではない。幕府は、ちゃっかり中国とオランダに限定して、東西世界に門戸を開いていた。だから、中国と朝鮮が世界システムの外での鎖国だったとすれば、日本の鎖国は世界システム内での鎖国だった。

 徳川幕府260年は、それゆえ、対外的には幕府による貿易独占・諸藩の自由貿易禁止であり、対内的には徳川による幕藩体制であった。明治維新が他のアジア諸国よりもいち早く近代化へ向かいえたのは、徳川260年が、世界システムに対して完全鎖国ではなく、半開きだったからである。とりわけ蘭学の影響は国内に医学のみならず、社会・政治的影響を強めていくから、大村益次郎、橋本佐内、佐久間象山、吉田松陰が出現した。こうした人物に匹敵する人間が中国や朝鮮にはついに出現しなかった。倒幕思想は、半開きの「鎖国」の産物である。

 この意味で、武家社会を日本固有のもの、日本的なものと考えるべきではない。そうではなく、戦国末からの世界システムとの接触が武家社会を完成させた事実を重視しておきたい。

 したがって、武家社会の完成(豊臣秀吉の天下統一)、文禄慶長の役(1592~93、1597~98の朝鮮侵略)、徳川による「鎖国」、武家社会の崩壊(黒船のインパクト)という一連の過程は、いわば「儒魂洋才」の内外体制が破壊されて、世界システムに完全に包摂される過程であった。

 16世紀からあとの日本史を、孤立した島国的現象と従来の日本史学は捉えすぎたのではあるまいか。世界史的視野からすべてを考えなくてはならない。思い切って単純化すれば、列島に引っ越してきて以来15世紀まで、日本の古代から中世は中国帝国の周辺にいたものとして説明すべきだし、また、16世紀以降の日本は、近代世界システムの巨大なインパクト抜きには考えようがない。すなわち西洋が武家社会を完成させ、存続させ、「鎖国」させ、最後には破壊した。ずっと我々は世界史的存在である。その形態が変わるだけだ。要するに、奈良の飛鳥寺596年から明治維新1868年までの約1300年は中国一辺倒、明治維新以降現在までの160年が西洋一辺倒である。

 いずれにせよ、中華帝国の冊封体制から近代世界システムへ移行したことが、現代日本人のコンピテンス(遂行能力)の内的構造を規定している。私たちは、学校で「ひらがな」「カタカナ」「漢字」「英語」の順で言葉の勉強をする。いや、させられる。これは、やまと言葉と中国文明および西洋文明が混合するような独特の自我の構造をつくりだした。自我とはすなわち言語である。これこそ、中華帝国と世界システムの周辺または内部に私たち日本人が生きていることの証明である。人間はその現実において、社会的諸関係の総体である。私たちは、日々このことを抜きには生きられない。

 
 
 

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