月刊『一望荒野』毎月25日に 論考とエッセイを出版。
- 竹内真澄

- 3月25日
- 読了時間: 165分
更新日:3月26日
誌名は、幸徳秋水『兆民先生』(岩波文庫、1960)緒言から得ています。
「想起す 去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて荼毘に附するや、ときまさに
初冬、一望荒野(いちぼうこうや)、風つよく草枯れ、満目惨凄(まんもくさんせい)として万感胸にたたえ、去らんと欲して去らず、悄然車にまかせて還る。」(6頁)
兆民先生は1901年12月13日に満54歳で死去、このとき秋水は30歳であった。思いもよらないことであっただろうが、秋水はまったく無実であったにもかかわらず、国家のでっちあげで処刑される。兆民先生を見送ってわずか10年足らずであった。
『一望荒野』2026年2月 第7号
「成員・個別者・個体」(2) ・・・第6号からの続き
5.公私二元論を労資二元論で超克する場合に考えるべき論理
かつて竹内芳郎氏は『国家と文明』1975で、マルクス主義国家論を再構成するにあたって、幻想国家論、分業国家論、階級国家論という3つのカテゴリーを抽出したことがある。これは示唆的な問題提起であると私は思う。一部には階級国家論をあいまいにする解読だという批判がみられたが、そんなことはない。むしろ、近代階級国家を考えるうえで、マルクス自身がこれら3つのカテゴリーをどのように関連づけながら理論構築したかをみるべきなのである。氏は必ずしも3つのカテゴリーの関連づけをおこなわず、3側面を並列にならべた感があったので、ここで私なりに考察してみたい。
本稿ではかの3つのカテゴリーを上向の終点を構成する3つの部品として表象しつつ、<成員―個別者―個体>という諸個人の歴史的現象形態の問題と関連づけてみたい。
第一に 幻想国家論について、これはもともと公私二元論から引き出された問題構成に由来する。すなわち、ブルジョア社会の個別者は、それぞれが私利私欲で動くことを強要されるので、誰も「国益」や「一般的利益」を主張したり、ひとりでそれを体現することはできない。現実には、社会的権力の強い、いずれかの個別的資本やその集合としての財界が、その他の諸階級を排除し、力づくで「一般的利益」や「国益」を詐称する。経済過程における力の差異が背景にあって、濾過されて政治過程に上呈されるわけである。竹内氏のいう幻想国家論は『へーゲル国法論批判草稿』『ユダヤ人問題によせて』に理論上対応させることができる。ここで国家は、市民社会の利害対立を前提にしながら、あるいは対立を前提とするがゆえに、それらの個別者間の利害闘争を「一般的意思」「公共性」の次元で観念的に止揚したかのように見せかける装置であると言える。これとの関係で、ヘーゲルは個別・特殊・一般というカテゴリーをあてはめて、国家とは真実一般的利益にあたると見なした(『法の哲学』)のであるが、マルクスは言うところの一般性Allgemeinheitはみせかけであり、幻想的であると批判した。マルクスは『ド・イデ』から晩年まで、「一般性Allgemeinheit」と「普遍性Universalität」を厳密に区別する。それは、個別者の利害を決して止揚することのない欺瞞的な一般性と個別者の利害を止揚した普遍性を区別する必要を考えたからなのである。
日常的にわたしたちは国家が「国益」のために働いてくれているなどと言うが、これは幻想である。市民社会が「万人の万人に対する闘争」であるときに、どうしてすべての人を満足させる「国益」などありえようか。「国益」の名において力なき人々が排除される。ただ、それを合法化するために「国益」概念を便利につかうというだけのことである。伝統的な国際政治学もナショナル・インタレストなどという用語を使うが、これも幻想である。19世紀前半にこういう虚構にはっきりと終止符を打ったのが「ド・イデ」なのである。
私人の闘争領域がそれとしてあるからこそ、公私二元論が存立する。だからこそ抽象的公民の幻想的共同の領域が存立する。ここに幻想国家論がでてくる。
もともと、近代とはいったいどういう社会であるかという問いがあり、それにたいして公私二元論(市民社会と国家は分離している)であるという答えをマルクスはひきだした。幻想国家論は、こうした近代把握に直接結びついた国家論なのである。だから、幻想国家論は階級国家論と別のものではなく、むしろその最も単純な基礎なのである。すなわち、眼前の国家を一度商品論的な基準で抽象すると、私人と公民の分裂という国家像がえられる。近代階級の基礎に商品がある。ゆえに、近代の階級は、公私二元論をふまえて国家を建設するはずである。近代のブルジョア階級が自己を「一般性」のかたちで表現せざるをえない、というのは、国家が階級社会貫通的にまとう「一般性」の特殊近代的な現象である。公私二元論という強力な近代社会の内的編成から、幻想国家論が基礎範疇として引き出されたのである。
このように、幻想国家論は、自律的に運動する経済メカ二ズムとそれを保証する公的メカ二ズムという近代社会把握を、商品視座に立って、公私分裂という否定性からとらえ返したものである。むろん、実在的な土台は市民社会のほうである。社会契約論的国家論は、国家が私的所有の保護のために作られることを明らかにしていた。
だからマルクスも「公」は「私」のために、国家は市民社会の維持のためにあることを踏襲している。だが、ロックまでの契約論にないのは、マルクスが商品論を詳細に分析するにともなって、国家が「一般性」を僭称しなければ、市民社会の自律的運動を担保できないこと、だからこそ、国家が独自に「一般性」を詐称する必要があることを反省的につきとめた点である。社会契約論は、商品論のうえに出てくるブルジョア的イデオロギーなのだということを、マルクスはブルジョア国家の外側に立って、対象化できたのである。
月並みな土台・上部構造論ではうまく説明できないが、公私分離論に依拠して考えて行くと、ブルジョア社会が維持されるためには、特殊な私的利益しか追求しない私人が国民主権の源泉と宣言されたばあいでも、特定の私利がむきだしのままで国家権力内に混入することは禁じられる。ぎゃくにいえば、立法、司法、行政はあげて私人の直接参加を拒否するから、一切の参加民主主義を拒否するものとなる。伝統的マルクス主義は、代表制民主主義と参加民主主義の違いに鈍感であるが、土台上部構造論と公私二元論をきちんと区別しないためである。
公私二元論は市民社会と国家が分離する点を基底にすえた認識を開く。すると、この分離の表現として、代議制民主主義、官僚機構、行政、司法の自立性がブルジョア社会の再生産課題になるということになる。それらを憲法学者や民法学者、裁判官、行政学者などはそれぞれ個別に研究するのであるが、これらは事実上皆イデオローグであって、公私二元論こそが「一般性」の源泉であると思い込んでいるから、公私二元論という前提を問い返すことができない。
まして、直接民主主義、公務労働者による官僚機構の民主化、議院内閣制の首班が世論から乖離して行動する場合の歯止め、司法審査の民主化などを具体的に論じることも絶対にやらない。
後になると商品から貨幣が発生する論理を『資本論』が解明したので、あらためて公私二元論が豊かに組みなおされる可能性が生まれた。政治学者はふつう、国家が政治的な国民国家の統治技術として独立する点を非常に強調する。マキャベリやホッブズを古典として崇拝する。政治学者は政治の経済からの相対的自律性に関心をもつ。政治学という科学の枠を説明するためだ(たとえば丸山眞男の『日本政治思想史研究』1952をこの視点から読むことは可能だ)。
しかし、これでは「政治学」は「政治学」として経済から切り離されてしまうから、公私二元論そのものを政治学は問題化できない。
これをマルクスから見つめ直すとどうなるか。ここにジャンル越境的な視座が必然的になる。『資本論』で、価値形態論は個別的商品群から内在的に貨幣が、まさしく「一般的」等価物として平民的商品から除外され、それらの上に君臨するメカニズムを解明した。価値という社会的実体が他の商品の使用価値の身体性を使って表現されるという事柄の解明であった。価値形態論は、「個別」からの「一般性」の析出論である。価値形態論の応用範囲は非常に広い。だが、ただそれを経済に自己完結させて読むから、伸びないのである。
似たような問題意識で、ときに「第三項排除」(今村仁司)とか、「第三審級」(大澤真幸)などという近似的な問題関心を示す者もいないではないが、ことごとくマルクスの原意からはずれている。というのは、今村や大澤は、人類史や社会一般がどう秩序化するかという一般理論に関心を持っており、権力一般とか秩序一般への関心へ流れてしまう。しかし大事なのは「固有の対象の固有の論理」である。近代を固有の対象として解明しきる前に一般化を目指すのは邪道である。一般化の課題は残るとしても、いったんは近代の固有性を考察したうえでの話である。学問的な順序を分かっていない者が多すぎるのだ。
ここで、資本の権力を国家権力と区別するべく「社会的権力」と呼ぶならば、ひとまず公/私二元論に立って、「私」領域すなわち市民社会で社会的権力がなぜ成立するのかを問題にしなくてはならない。国家権力は所有の保護のために二次的に作られるものであるから、論理的な説明の順序からすれば社会的権力(資本という所有が属性とする社会的権力)の存立を先に問わねばならない。
すると、資本はG-W-G‘であるから、その前提は、価値形態論のもとで成立した貨幣の一般性の成立メカニズムであることがわかる。ここに登場するのは、「個別的商品」のランダムな集合である。商品が使用価値と価値という二要因からなる以上、交換は以下のようなプロセスである。すなわち、いままさに二つの商品AとBが交換される場面を想像してみよう。使用価値から見てA≠Bであることは自明である。Aは倉庫にあふれており、客観的に欲しいのはBという別の使用価値である。Bからしても欲しいのはAなのだ。ゆえに、相異なる使用価値間の立場置換(譲渡)が起こるのだが、この使用価値の置換がなりたつためには、価値から見てA=Bであらねばならない。要するに、使用価値におけるA≠Bと価値におけるA=Bが同時に遂行される。これが商品の交換である。
さてここから一段論理が上昇する。価値は、社会的実体である。私的所有にもとづいて行われる私的労働が対象化され、価値量として凝固したものが価値実体である。けれども、私的労働が自然発生的に編成される社会では、当の私的労働が必要な労働かどうかは、市場に出してみて、売れることによって事後的に検証されるほかはない。
いま商品Aの側から交換を眺めてみよう(AのPerspektive)。すると、Aは自己の価値を表すために他の個別的商品Bの一定量の使用価値に等量の価値をもつ素材としての位置を担ってもらわねばならない。Aの位置を相対的価値形態と呼び、Bの位置を等価形態と呼ぶ。相対的価値形態のサイドにある商品Aは等価形態のサイドの商品Bと、いままさに交換される。すると、すでにここで、Bの使用価値がAの価値を表現する属性をもつかのような不思議な表象が生まれる。使用価値(素材)にすぎないBがその身体でAの価値を表す。使用価値はどう見ても使用価値でしかなく、あれこれの有用性であるだけなのだが、商品交換に入り込むと、Bは使用価値のままで価値を帯びる。これをマルクスは「取り替えQuidproquo」(MEW.Bd.23,S.71)という。個別Einzelneと一般Allgemeinの関係で言いなおすと、Bはありふれた個別であるのに、そのままの姿で一般を帯電する。後になるとわかるように、金goldがその自然属性のままで価値をもつという表象が、単純な価値形態にすでに内在している。A=Bという単純な価値形態が、展開された価値形態、および貨幣形態といった高度な価値形態へ展開する。「取り替え」の完成である。
一般商品群がたったひとつの商品を分離するabsondernがゆえに、特別の商品は他の商品群を排除するabschliessenようになる。等価形態は、最初はただたんに受動的に等価形態になるのだが、貨幣が成立すると、今度は貨幣が能動的な存在になる、なぜならば、いまや貨幣があるからこそ、一般商品が価値として承認される資格をもつようになるからだ。
この分離と排除による序列化は、相対的価値形態(AのPerspektive)がいつのまにかその展開において、等価形態(BのPerspektive)に従属するという倒立をもたらす。ここでマルクスが、「貨幣は、一方では売られた商品を代表するrepräsentierenとすれば、他方では買われうる商品を代表する」(MEW,Bd.23,S.124)と述べたことに注意したい。ここでのrepräsentierenは、ただ「表す」という一般的なことではない。すなわち、W-Gにおいて貨幣を獲得できるとすれば、もろもろの一般商品群の使用価値の多様性を否定して、純粋な価値そのものの体現物を手に入れたことを意味する。これは平民が王になったということであって、一時的であるが王座の取得を意味するものなのである。
今、王座にある貨幣は、「諸商品が貨幣に投げかける愛」(Ibid.,S.124)のゆえに君臨するが、その対極で、王の後光があってはじめて諸商品が生存を許されることになる。臣民が王を作り出すのだが、王が君臨すれば王あっての臣民となる。G-WのGの所有は、絶対的交換可能性という社会的権力の所持である。
「貨幣は徹底した平等派radikaler Leveller」(Ibid.,S.146)であるとマルクスは述べたが、それは他の商品の質的相違を消し去るという意味であって、自分が商品界の特別の権力、あるいは社会的権力であることを前提する。こうして貨幣は社会的権力 gesellschaftliche Machtであるからこそ、私人の私的権力Privatmacht der Privatpersonになるのである(Ibid.,S.146)。
私人が支配する社会は、貨幣という社会的権力を生む必然があるとマルクスが考えたことは明らかである。それは、膨大な商品が貨幣を望むからである。社会的権力の生成過程の特殊近代的なメカニズムを説明するのに貨幣の論理を使うことはまったく適切である。すなわち、一般商品が特別の商品を分離する過程は、特定商品が商品群の上に「一般者Allgemeinheit」となって他を排除して君臨する過程でもある。貨幣がひとたび成立すれば、貨幣を使ってAとBの所有者であるa氏とb氏は、貨幣という仲立ちをする価値の体現物、一般的等価形態を入手することで、全能の購買力をえて、任意の商品を買えるようになる。これは、1843年のマルクスが、私人の領域の外に公民の領域をつくるのと完全に同型の論理を深めたものである。あくまでも主体は私人である。こちらが現実的である。しかし、私人を生活させるためには、公的領域がなければならない。私人たる個別者は、ちょうど個別商品が貨幣を生み出すのと同じように、一般者の担い手を国家建設でやりとげる。
国家はしばしば「一般的利益」の名において、市民社会の調整に入るであろう。この意味で、竹内芳郎氏の言う幻想国家論は、公私二元論から不可分でひきだされ、後期マルクスの商品論で豊饒化された。幻想国家というのは、私人の交換関係が要請する「一般性」=〈虚偽の普遍性〉すなわち「国益」をいずれかの強い私人が裏で糸を引き、それを国民代表たる代議士に演じさせるということである。この意味で、公私二元論は価値形態論の中に生きている。私人が投票のかたちでしか国政に参与できない理由を、公私二元論が説明する。と同時に、私人が投票行動をつうじて、代議士という政治のプロを生み出す理由をも、価値形態論(商品―貨幣論)は解明したわけである。
要約する。価値形態論は公私二元論をどう豊かにしたのか?それは、市民社会の商品論的次元の内部のメカ二ズムを解明した。すなわち、私人は貨幣という代表者=社会的権力をポケットに入れるという死活の活動を行うことをつうじてW-Gを遂行する。これは個別者が個別から分断された一階級上の一般者を私的所有物として等価させる道筋をみつけ、我が家に連れ帰ることである。だが、私人は生活するためには次に、貨幣という社会的権力をつかって物を買わねばならない。それがG-Wである。こうしてW-G-Wにおいて、私人は市民社会の平民であり、一時的に王となるものの王座を捨てて、また平民となる。平民であることは、社会的権力たる貨幣(君主)に依存し、従属することによってなのだ。ここまでの経済的交換活動を私人はまったく無知のままに行う。「彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである」(MEW.Bd.23,S.88)。この自然成長的無自覚で市民社会は回っている。
ただし、価値形態論の応用範囲をひろげるばあい、市民社会を政治社会につなぐ連絡部分の説明にあたって、特別の注意が必要となる。というのも、経済活動は無知で良いのだが、市民社会が政治社会を生み出す場で、もはや無知は許容されない。政治的行為は、そこではじめて私人が公民仲間として自覚的に結合できる領域である。だから、主体は物言わぬ商品についていく無口な私人ではなく、生きた私人、しかもたとえ瞬間的であれ政治的な活動をおこなう意識的な私人であらねばならない。ゆえに商品が貨幣を代表者に仕立て上げるような「知ってはいないが、行う」メカニズムではなく、「私」と「公」の連結部で生きた私人は、自らの陣営のなかから、国民代表という代議士をよく知ったうえで、まさに自覚的に選ばねばならない。
代表を選ぶというのはどういうことか。商品は皆が貨幣になることは不可能であるのと同じく、私人は皆が代議士になることはできない。個別/一般、私的利益/共同利益、私的領域/公的領域といった二項はいずれも/(スラッシュ)を境界にして断絶している。商品から貨幣の生成を考慮すると、商品/貨幣の断絶は市民社会内部にあるし、市民社会と国家の関係にもある。市民社会内部の行為は「知らずにおこなう」類の行為に担われるが、市民社会を政治社会につなぐところでは、私人はそれなりに「知っておこなう」のである。
にもかかわらず、これら二種類の行為は、常に「知らずにおこなう」行為の支配下にある。知は氷山の一角にすぎず、水面下の無知に依存している。一般にブルジョア的意識の特徴がここに示されている。一般にブルジョア的意識とはどういうものかというと、無知という地のうえに知という図がある。これがブルジョア的意識の構造の特徴である。たとえば、市場崇拝の理論家であるF・ハイエクは市場を回すのは人間の無知であると言う。無知には特別の価値がある。無知の良さを壊す敵は「設計思想」という知である。しかし、こうした知ほど悪いものはない、とハイエクは考えた。ここにブルジョア的意識の構造は見事に自己の構造を告白している。
こうした知/無知という意識構造をブルジョアはすべての民衆に押しつけなくてはならない。これによって市民社会の再生産が可能となり、市民社会と断絶した政治社会ができあがる。日常的行為を「無知」で遂行し、選挙の時だけ「知」を使うというバーバリズムが近代社会を支配するのである。「知」は神聖不可侵の「無知」に介入してはならない。だから、分限付きの「知」は、もともと歪んだ、いびつな、偏った知なのである。公私の分離的統一が断絶したままでたえず連結されるためには、知が無知によって包摂されていなければならない。市民社会と国家の分離を、無知と知の分離という知識社会学的構造に読み替えたのは、ハイエクの功績である。貨幣を人は知らぬうちにつくってしまう。だれも貨幣の析出を止められない。今度は人は「知って」代議士を選ぶが、この政治的知識は経済的無知を追い越してはならないのである。市民社会において、様々な項は、断絶を前提にして、抽象化というバイパスをつうじてたえず連結される。これは商品社会が「平等派(貨幣)」によって統治され、政治的国家が共同幻想としての「一般意志」によって統治されることの帰結なのである(8)。
こうして、幻想国家論は、公私二元論を踏まえているのだが、一切の諸商品は「個別者」であるから、貨幣という「一般性」に従属せざるをえない。個別諸商品が自らのうちから外に「一般者」を除外するという論理で、社会的権力が析出される。同様に、契約国家論では、私人は私人の自然権の保障のために選挙を通じて自らの生活圏の外に国家主権をつくるのであった。
マルクスにあっては、それは掴みなおされ、もっと複雑化する。私人が選挙によって私的所有の保全のための代議士を選ぶ。これが(もはや自然権ではなく)すでに幻想なのであるが、この幻想を幻想のままに受け入れることによって、社会的権力を所持する資本家は、自己の階級的利益を、選挙を通じて保全できるのである。むろん、非ブルジョアも、皆、選挙は国民主権の行使だという魔法、新しい「魔術の園」に入りこむので、皆が魔術化されてしまうだろう。
第二に、分業国家論である。分業とは、個別者各人がなにゆえに「特定の排他的活動範囲einen bestimmten ausschließlichen Kreis der Tätigkeit」に縛られて、そこから抜け出せなくなるか」(MEW,Bd.3,S.29)という問題、すなわち「社会的活動の固定化Sichfestsetzen der sozialen Tätigkeit」の問題にほかならない。ヘーゲルもこの問題を人間の「融通のなさ」としてわずかに扱ったことがあった。この問題に気づいたことは非常に切実である。多くの社会科学者のなかで「特定の排他的活動範囲」に生涯を縛られることを問題化した思想家を私は知らない。M・ウェーバーのように、ディレッタントではなく「ベルーフ」に精力を傾注せよというほうが一般的である。
マルクスは『ド・イデ』においてなぜ人が「特定の排他的活動範囲」に閉じ込められるか、という自然成長的分業論の視角から、ものごとを掴むようになる。自然成長的分業のもっとも発達したのがブルジョア社会である。ここで、商品メカ二ズムはあらゆる分業を安上がりに編成するから、人を育てるにも安上がりにする。なんでも促成栽培で即戦力が喜ばれる。人の職業はある活動範囲にほとんど一生閉じ込められる。
余談ながら、「専門馬鹿」という言葉は最近使われないが、私見では昔「専門馬鹿」であってはならないという否定のニュアンスがあったのに、いまではもう皆が専門馬鹿でしかありえないと諦念したために使われなくなったのである。
公私二元論は、もともと商品論的視座からの議論である。これは、商品がコスト競争であるという点で非常に内在的に分業論に連絡できる。その意味で、公私二元論は、商品論を介して、分業論に連絡し、鍛え直される。
分業論で捉えかえしてみると、私人というのは、分業=私的所有の帰結である。では、市民社会という自律的な運動の「内」で回転する「私」的領域の分業は、いかにして、この領域の「外」にある「公」=国家的領域と分業論的に連結できるのだろうか(9)。公私二元論では、国家はまだ、分業やあるいは分業の結果として生まれるはずの階級関係から説明されていなかった。しかし、商品論から分業論へ連絡する筋道が見えてくると、今度は分業論からみて、市民社会と国家はどういう分業編成なのかという問題が出てくる。
『ドイツ・イデオロギー』では分業論的視角で、人間たちが断片的な活動の固定化によって、転倒したイデオロギーの生成根拠を説明している(10)。ここに分業国家論を読みこんだのは、竹内芳郎氏の貢献である。分業とは単なる職業分化ではなく、人間の諸能力が社会的に切断され、個別者が「一面的存在」に固定されることを意味する。自由意志的な分業と自然成長的な分業という区別からすると、商品社会は後者の典型である。ここでは、出来るだけコストをさげて商品を製造することが強いられる。当然、人間が自己の労働力を売るためには、コストが低くなければならない。したがって、ルネッサンス型の全人は解体される。商品化された労働力の売買によって、分業に一面的に従属する労働者が重宝がられ、廉価で売買される。ここで初めて、幻想国家論は分業論的に把握し直される。すなわち、商品社会のごとき自然成長的な分業のもとでは、人は生きるためになにがしかの「排他的活動範囲」を売り(salespoint)にせざるをえない。およそ生産活動がことごとく「排他的活動範囲」に服するからこそ、企業内部の分業と社会的分業は異常に発展した。「われわれ自身の産物のこの凝固化」はあらかじめ相互に調和的に設計されたものではなく、売れる/売れないという結果によって事後的に調整される。だから、市民社会内部の現実的な特殊利益と共同利益gemeinschaftliche Interesseは、そこから切り離された幻想的共同性illusorische Gemeinschftlichkeitを生むのである。商品経済に典型化される自然成長的分業は、私事内部で「排他的活動範囲」を狭めて生成し、分割し続ける。すると、私事内部の利害対立は激化するので、公事の領域は、ますますそれと切断した偽の共同性を演じざるをえない。
そして、かの代議制国家論もまた分業論的に説明し直される。かつて公私二元論では、私人は私人として個別の私的利益の追求に専念するために、同時に現実的な公民になることはできないと説明された。これは公私が分離しいなくてはならないという原理があるからである。代議士が誕生するのは、私人が主権者であって、主権在民が宣言されるにもかかわらず、私人はあくまでも国家主権の淵源にとどまる者であって、代議士、司法官、公務員、行政官の外へ、すなわち市民社会の圏に留め置かれ、排除されねばならないからであった。同じことを分業論はこう説明し直す。「ブルジョアが、一般にブルジョア社会のすべての成員Mitgliederが、彼らの共通の利益gemeinschaftliche Interesseを確保するために、自分たちをわれわれとしてals Wir、道徳的人格morarische Personとして、国家Staatとして制定することをよぎなくされており、それによってつくりだされた彼らの集団的権力Kollektivgewaltを、分業上からしても少数の人々Wenigeに代表派遣delegierenする」(MEW,Bd.3,S.340)。
ここで「ブルジョア」と「ブルジョア社会の成員」は区別されているが、ブルジョアはブルジョア社会の成員を「共同の利益」、すなわち「一般的利益」で包摂できるし、またそうしなければならない。なぜなら「ブルジョアジーは、まさに階級として支配するがゆえにこそ、法律というかたちで、自己に一般的表現allgemeine Ausdruckを与えねばならない」(Ibid.,S.539)からである。個別性の貫徹は一般性という表現形態と不可分である。ブルジョア社会の成員Mitgliedとは、ブルジョア階級のみならずその他の階級をふくめて「国民主権」を付与された、そのかぎりで均質化された人々である。かつて公私二元論の視角から、万人たる私人は市民社会にある多数者であり、選出される代議士は少数であるとされた。なぜそうなるかの理由は、もしも私人がこぞって公民であるならば、公私二元論が原理的に崩壊するという背反を犯すからであると説明された。その真実は、ここでも変わらない。しかし、いま分業論で同一のことを説明しようと著者たちは考えているから、公的領域は、さしあたり「共通の利益gemeinschaftliche Interesse」、すなわち「一般性」の表現形態の場とされる。むろん、ブルジョア社会はゲゼルシャフトであり、国家は共同体、ゲマインシャフトであるという文脈がここでも継承されている。つまり、共時的な構造として、社会Gesellschaftが共同体Gemeinschaftを生み出すのだ。ブルジョアは、私的利益の境界内部では「万人と万人の闘争」をたたかうのであるが、それを常態化するためには、人々を「われわれ」として、「道徳的人格」として、したがって「国家」として制定するし、そうすることをよぎなくされている。「われわれ」は大人数であり、代表派遣された者は「少数の人びと」である。ここには選挙が想定されていることは言うまでもあるまい。だからこそ、大人数は少数を作成する。これが選挙権である。私的領域と公的領域は分離しているから、国会は市民社会の外にある。国民主権というのは、市民社会が国権から切り離された、国家の淵源たらざるをえない、ということなのである。「私」は「公」の「淵源」として連結されねばならないが同時に公私は「分離」されていなくてはならない。両方を満たすものが「選挙」であり、言い換えれば「代表派遣Delegation」である。
ブルジョアは、国民を選挙に駆り立てることをつうじて、国会議員団という人工的な共同体を構成せしめ、それをつうじて「集団的権力」を手に入れることができるし、またそうせざるをえない。個別者が一般者をつうじて承認されるには、これしかないからだ。ただし私人たちが自分たちのなかから代表派遣するという政治的行為は、公私二元論の視角からすれば、瞬間的な行為でしかありえない。なぜなら、公共事の審議と決定に恒常的かつ持続的に参加することは現実的私人であることを崩壊させるものであるからだ。これでは何のために市民革命をやったのかその本旨が問われてしまう。ともあれ、個別者を個別者として擁護するためには、個別性と切断した「一般性」を立ち上げなくてはならない。この一般性は「具体的普遍」ではないところのものだから「一般性」は具体的普遍もしくは個体的共同性を抑圧するところの「集団的権力」となるほかはない。
国法には「私的所有は神聖にして侵すべからず」と書き込まれた。いまや正当付けられた私人の私的権力のいかなる侵犯も、厳罰の対象となる。私人は私有財産保護を目的とするがゆえに、「分業上からしても少数の人々に」集団的権力を握らせるべく、代表派遣という特殊な歴史的政治参加の形態を編み出すのである。
私は、ことさらに公私二元論が分業国家論の背後に敷き詰められる点をいま強調している。『ド・イデ』の文章を、ここまで過去に引きつける説明は、やや過剰のように思われるかもしれない。しかし、「市民社会と共産主義革命」(MEW,Bd.3,S.537)という覚え書きを見ると、近代国家を「民主主義的代議制国家」と強調している点はこれまであまり注目されてこなかった。戦後民主主義はまさに民主主義的代議制国家である。だが、日本史上、はじめて国民主権を獲得した意義をうたったので、主権在君よりもずっと主権在民の方が民主的だという思い込みが強かった。しかし、マルクスはおよそそうした東洋の島国のことなど想定していない。(九の二)「選挙権。国家と市民社会の揚棄のための闘争」の項は、単純に選挙権によって国家と市民社会の揚棄の闘争が可能になるという意味では、おそらくない。なぜなら、公私二元論でマルクスが立法権を論じたときに、代議制は公私の分離の表現であると規定されたからだ。文字通りこれを受け止めるならば、選挙という行為は代議制維持の、したがって「分離」の表現であり、私人と公民の分離の再生産行為以外のなにものでもない。
いつでもそうであるが、マルクスの頭のなかには過去の学問的蓄積が脈っており、それを取りこぼさずに新しい視野をえられる場合にだけ、次の理論装置を手に入れる意味が出てくる。
では、いま、公私二元論を『ド・イデ』分業論的に説明し直すことに何の意味があるのだろうか。すなわち、公私二元論を分業論に変換することによっていったい何が新たに見えてくるのであろうか。
ここで重要なのは、「分業と私的所有は同一的表現だということである。一方が活動そのものTätigkeit dasselbeにかんして言っていることを、他方が活動の産物にかんして言っているにすぎないのである」(MEW,Bd.3,S.32)というキーワードである。
分業論の意味を「分業=所有」をキーワードに考えてみよう。分業は、活動そのものの分割である。だが、活動が分割されて、「排他的活動範囲」に人が囲い込まれることはそもそも誰にとって都合のよいことなのだろうか。それは、生産力をあげるから万人にとって利益なのだろうか。さほど単純ではない。生産力は生産関係内の出来事である。だから、トータルプランに基づかない自然成長的社会において、生産力の利益、したがって「排他的活動範囲」への囲い込みは、所有または所有者Eigentumerにとっての利益に他ならないで。働く者は、個体としての労働力を破壊され、犠牲にされる。なぜなら、ある個別的活動範囲を別の活動範囲から分断することは、共同体的所有の分解のことであって、個別的活動範囲の産物を商品化させる。だから「活動の産物にかんして」言えば、私的所有の自立性、独立性がますます強まることを意味する。さかさまにして見ても同じことが言える。所有とは、「排他的活動範囲」に人を囲い込むことである。なぜなら、それは「他人の労働力を意のままにすることdie Verfügung über fremde Arbeitskraft」(Ibid.,S.32)である以上、市場で安価に入手しやすく、かつまた労働現場で受動的なほど、それだけ他人を「意のままに」することがたやすくなるからだ。だから、所有は分業を発展させ、分業はまた所有を発展させるから、所有者の利益は活動の仕方においても、またその産物の所有にとっても好都合なのである。
つまり、『ド・イデ』が分業論的視角をつけ足したという意味は、さしあたり生産力的な視角のように見えるが、だがこの分業論は同時に所有論的視角でもある。すなわち、分業=所有論である。すなわち分業が発展すればするほど所有が発展するという事象は、商品社会のもとで起こる現象であって、さらに言えば、資本主義的生産様式においてもっとも典型的に発展する。だから、分業=所有論的視角からは従来の公私二元論よりも興味深いことが言えるようになる。すなわち公私二元論は、両領域の境界、分離、異質を論じるのに好都合であった。これにたいして、分業=所有論は、二つの相異なる領域のいずれもがまったく同一の分業=所有論的視座から同一法則に服するものとして見えてくる。たとえば、裁判官、代議士、宗教家、道学者、哲学者、経済学者、自然科学者などの職業は、互いに「排他的活動範囲」に囲い込まれたために、自分が手がけている仕事こそが真なるものと考える傾向をもつ。「たとえば裁判官は法典を適用する。それゆえ彼には立法が真の能動的な原動力だと思われる。彼らの商品に対する尊敬Respekt vor ihrer Ware、なぜなら彼らの職業Geschäftは一般的なものAllgemeineにかかわるものだからだ。」(Ibid.,S.539)
すべての職業は、それが公私いずれの領域の職業であろうと、商品への尊敬を伴う。なぜならば職業が商品だから。およそすべての商品は個別性と一般性の矛盾のうちにあって、商品の中においてはより一般性に近い商品(売れ筋もしくは貨幣)がより強い力を持っているように見えるから、それだけ売れ筋や貨幣的に高い価値付けを与えられる職業は、より一般性に近いものとされるから、その商品を扱う活動はより能動的なものに見えてくる。売れ筋の事業家が、どれほど自己を能動的な事業家であると思い込んでいるか、銀行家が自分の融資こそが経済を変えると思い込んでいるか、また民間の外部にある代議士、公務員などの職業がいかに転倒し、自立化し、自己の「排他的活動範囲」への従属を誇るべき売り物にしているか、それを喜劇的とばかりは楽しんでいられないほどである。
いわば近代の全活動は、政治的行為を含めて、ことごとく「排他的活動範囲」に人を従属させる、という点である。これは、公私二元論が両者の質的違いを語るのに対して、逆の同質的な物象的連関への従属を語る上で都合が良い。
したがって、ここまでのところをこう要約してもよいだろう。すなわち、公私二元論を下敷きにした幻想国家論は、『ドイツ・イデオロギー』の分業論的視角によって、私人ばかりか、公民(代議士)もまた、ひとしく自然成長的分業に屈服させられており、何人も全体論的視野(自由人のトータル・プラン)をもちえないから、近代社会の運動を事後的に追認せざるをえない、というふうに捉えなおされる。それゆえに、幻想国家の幻想性は、公私二元論の帰結であるばかりでなく、分業の自然成長性における特殊利益と共同利益の矛盾の帰結でもある。分業論は、精神労働と物質的労働の分離(正しくは構想と実行の分離)から始まるとされているから、古代にすでに起源をもつ非常に射程の長い論理である。公私二元論は、このうち近代のみを対象にしている。だから、マルクスは、近代的視点を人類史的視点の中に位置づけなおす作業を行い始めたのである。
注
(8)公私二元論の分業=所有論的組み換えという課題のもとで、公私二元論は捨てられるわけではなく、それじたいが深められている。たとえば、「私法では現存する所有関係は一般意志allgemeinen Willenの結果として表明される。使用と乱用の権利そのものが表明するのは、一方では私的所有が共同体Gemeinwesenからまったく独立になったという事実であり、そして他方ではまるで私的所有そのものがたんなる私的意志、すなわち物件にたいする任意の処分権Dispositionにもとづくかのような幻想Illusionをあらわしている」(S.63)。非常に簡略化されているが、われわれはここにホッブズからルソーに至る自然法を保証するべきものが国家であるという、あの近代の社会契約国家論を私法(Privatrecht)の共同幻想として批判する、マルクスの新しい視座(分業=所有論)をまざまざと読み取る。してみれば、『ド・イデ』で「哲学者」とされているのは、決してドイツ観念論哲学者だけでなく、近代哲学者であり、また精神労働/肉体労働の分業に暗黙のうちに乗っている一切の哲学者なのである。だから、哲学の止揚とは、「哲学としての哲学」の止揚であるから自然成長的な分業の廃棄のことをさすようになる。
(9)マルクスの学問的経緯をざっと要約する。初期(1843~1846)→「Glied」「Mitglied」 は集合論的(member)として多用されるが、次第に限定されるにいたる。成員の対概念は個別者である。中期(1848~1858)→ “Mitglied” は共同体の有機的成員、未分離な個人をあらわす語へ限定されるに至る。商品、貨幣、資本の研究が進むなかで個別者を軸にした社会のメカ二ズムを解明する作業が詳細にすすめられる。後期(1867~1883)→商品論次元で個別者と私人、資本次元で個別的資本家と個別的労働者、そして社会的総資本の次元で「社会的資本」を重層的に使う。マルクス独自の階級論では、商品と資本の運動法則に織り込まれた分業編成により、個別的労働者と労働者総体は、競争に脅されて、階級として存立するが、資本が結合労働Kombinationを発展させるために、富の資源としての個体と地球が危機的状態に追い込まれる。なお、管見の限りで言えば、マルクスにも、様々な変則や例外的な用法があり、本稿が要約した<成員―個別者―個体>に納まりきれないケースは散見される。しかしながら、本筋を理解するためには様々な論理次元を重層的に考え、生きた社会を掴むうえで、ここに示した要約を生かすことが、些末な解釈論を超えて有効であると考えている。現時点で確認できる限り、MEW(Marx-Engels-Werke)全体を対象にして、「歴史を超えてあらゆる社会に存在する諸個人」あるいは「歴史貫通的な意味での諸個人」を指すためにIndividuenが使われるが、Einzelnen が使われた例を見いだすことは困難である。
(10)マルクスの記述の断片からは、後の世界システム論への萌芽のような言葉が多く取り出せる。もともと公私二元論を拡張すると、世界市場と主権国家間システムが得られるわけだが、もうすこし具体的にマルクスが書いた箇所としては、たとえば「世界貿易Welthandelは、市民的利益が政府からまったく独立であるが政治は反対に市民的営利に完全に依存しているということを十分に証明した」(MEW,Bd.3,S.342)などがある。
『一望荒野』2026年1月 第6号
成員・個別者・個体 (1)
はじめに
マルクスが近代的個人を、その基底において個別者Einzelneと把握したことが次第に解明されてきた。戦後日本の近代主義が期待した「自立した個人」や「強靭な主体」は、西洋啓蒙哲学が使った個別者の理性を残したものであって、およそ一個の抽象たることを免れるものではないが、論者たちはその点をあえて重視しなかった。このことはただちに次のような分岐点をあいまいにした。すなわち、かかる啓蒙的主体性の延長線上に果たして、いわゆる「自立した個人」が本質的にありうるのか否か。こたえはむろん不可である。
個別者に根本的に係留された近代的個人は、資本主義のもとで、とりわけ20世紀になると「構想と実行の分離」(separation of conception and execution)のもとにおかれる(H.Braverman,Labor and Monopoly Capital,1974)。構想は、組織の権力となって企業経営上の高度な決定事項を牛耳る。それゆえ実行は、たとえいくぶんか精神労働を含むにせよ、外(上)から与えられる構想に逆らうことはできない。近代的個人は追々、資本と労働に分離する以上、大多数はますます構想なき大衆側に属する。ゆえに、「近代的個人」の延長上にーそれがいかに魅力的なものであるにせよー現実の解放は出現しえない。反対に、近代的個人はますます構想と実行の分離を激化させることによって、いわゆる「近代的個人」概念を再検討させる。人間はもし解放を望むならば、近代的個人を否定するか、同じことであるが根本的に再編するという歴史的事業に着手せざるをえない。
1.歴史的個人主義と解放的個人主義
いま仮に、「自分で考え自分が実行する」ことをもって「解放された個人主義」を定義できるならば、近代社会の圧倒的多数はこうしたタイプの個人主義を実生活で貫徹することができない。むしろ、解放をめざす個人主義はEinzelneの大枠によって阻止されてしまう。
従来社会科学者は個人主義が資本主義のイデオロギーと考えてきたが、それは競争的個人主義を個人主義と解する狭い解釈によるものである。競争は個人主義を計算主体に還元する。だが、本来的な個人主義(構想と実行の統一)は資本主義にたいして根本的に抗い、抵抗する強い思想なのである。
歴史上の個人主義は、私的所有に担保される以上、個別者Einzelneを基盤として登場する。それは個別者主義Einzelne Individualismusである。しかし個別者が「万人の万人に対する闘争」を闘えば、生産手段をはく奪された大多数を生むから、個別者主義は解放的個人主義を壊滅させるという逆説に遭遇する。ゆえに、解放的個人主義をつくるためには、基盤たるEinzelneに向かい合い、Einzelneから派生するサブ・カテゴリーと闘わざるをえない。
たとえばある種の社会主義者は、フランス革命の旗印「自由・平等・博愛」を本当(●●)に(●)実現するために社会主義があると考えたものであった。たとえばルイ・ブラン(1811-1882)は『労働の組織』1839で、国立作業所を構想し、国家が失業者を吸収すれば社会主義である(に近づく)と考えた。後の、ジャン・ジョレス(1859-1914)も「博愛」の執行者は国家だと考えた。しかし、マルクスは1857-8年に『資本論草稿』でこうした類の社会主義は「愚かalbern」であると述べている。「交換価値、またいっそう詳しくいえば、貨幣システムは事実、平等と自由の体制であるが、この体制がさらに発展するなかで自由と平等のまえに妨害的に立ちはだかるものは、この体制に内在する妨害要因(資本―引用者)なのであり、やがては不平等と不自由として化けの皮をあらわすような平等(●●)と(●)自由(●●)の現実化にほかならない」(1)。
この意味で、マルクスは単純に啓蒙主義を引き継がない。また単純にロマン主義を否定するわけでもない。むしろ両者の狭隘さを抜け出すことで、共同的個体(個体的共同)という論理を初めて確立したというべきである。
人間は、歴史的過程を経てはじめて個別化vereinzeltされるので、この結果孤立した計算主体になる。「人間は本源的には━けっして政治的意味での『ポリス的動物』としてではないにしても━類的存在、部族的存在、群棲動物として現れる。交換そのものAustausch selbstが、こうした個別化Vereinzelungの主要な一手段なのである」(2)。むろん、旧共同体を壊して私的所有が析出するばあい、それは歴史上はじめて個性の基盤たる所有(小経営=個体的私的所有)を基礎にするものだということをマルクスは認めている。とはいえ、個人は基底に私人と物象を置いており、この連関(私人と物象)はたえず強化されてゆくものだから、フランス革命のスローガンである「自由・平等・博愛」ははじめから自己否定を内包していることになる。およそ解体すべき理念に依拠する社会的実践は不可能なのである。
フランス革命期のスローガンが「交換する個別者」の理念である以上、その理念そのものを壊さなくてはアソシエーション社会は成立しない。ゆえに、「自由・平等・博愛」を本当(●●)に(●)実現することは社会主義のスローガンたりえない。理念の根源にある交換する個別者を個体へ止揚せぬかぎり理念は陳腐化する。この意味で「個体的私的所有」(抽象的個人主義)の「否定の否定」が「個体的所有の再建」(個体的共同=共同的個体)である(3)。
より一般化すれば、次のように言いかえてもよい。すなわち、ブルジョア社会にはブルジョア社会に特有のものの見方Perspektiveがあり、その色メガネにしたがって世界は立ち現れている。個別者を肯定しておいて「自由・平等・博愛」を追う限りいかなる希望もない。
万人が多かれ少なかれ個別者(私人)となって人生を燃焼させる。すると、このブルジョア社会はどういう歴史的運命を辿るのか。このことを解明する書こそ『資本論』である。商品論から記述を始めたということが、私人をベースに置いたことと同義なのである。この意味で、『資本論』は私人論的人間論を基底に据え、資本を論ずる章以降において階級が主体となって私人を超える歴史的傾向を剔抉するものなのである(4)。
およそいかなる社会においても、人はそれぞれ心身的存在であることは変わらない。心身的存在は、その限りで歴史貫通的である。とはいえ、心身的存在がひとつの独立した単位unitとして自他ともに「点的存在Punktualität」(MEW,Bd.42,S.393)と承認されるかどうかは、その人がどういう社会に属すかによる。とくに、共同体の基盤の強さ、家族の緊密さ、分業の未発達、商品交換の狭隘さが支配する間は、私人としての個性の発達の余地は小さく、個別者は共同体を破壊する反道徳的存在として処理された。
個別者と物象の連関がまだ現れない時代、すなわち前ブルジョア社会においては、家父長制、古代的共同体、封建制度、ギルド制度などが強力である。社会的力gesellschaftliche Machtがまだ物象として現れない場合、力はもろに諸人格に属する力であるから、諸人格が別の諸人格の上にあらわれる。諸人格が生産力の低さのために依存しあう本源的共同体が『資本論草稿』で追求された。
だが、本源的共同体が崩れ始める。すると諸人格のあいだに上下関係が出てくる。このばあい、言い換えればカント的な意味の人格がない(●●)場合、人はまだ前近代的成員である。成員Gliedとはベタな没個性のことだ。「交換は、最初は、一個同一の共同体内部の成員Mitgliederにたいしてよりは、異なった共同体相互の関連のなかで現れる」(MEW,Bd.42,S.37)ここで人は、生まれながらの身分、役割、地位を後ろ盾とする成員たるペルゾン(仮面)である。ゆえに自然は人の上に人を、人の下に人をつくるのである。『資本論草稿』でマルクスは、こうしたペルゾン間の上下関係を人格的依存の段階に含めているが、最広義に人格的依存関係と言えるのは、自然成長的な最初の狭小な共同体のことである。これを人類史の第一段階と規定した(MEW,Bd.42,SS.91-92.)
マルクスは、1842年にはすでに、同時代の人間が私人であるという認識を出発点に据えて世界を見た。多くの先行する学問や史誌的資料からの示唆をえた後であった。ヘーゲルが、カントとは反対に、私的人格private Personを個別者という過渡的存在と見なしていたことも大きなヒントになった。へーゲルは、近代をギリシア共同体の対極とみていた。マルクスは当時のまだ人類学がさほど発展していない条件の下で、ヘーゲルよりもずっと長い射程で共同体とブルジョア社会を対比するようになる。
この作業は『ドイツ・イデオロギー』から『資本論草稿』にかけて精力的に行われた。マルクスはこの間に、前資本主義の人間はいかなる人間類型だったかを探った。前ブルジョア社会に実在するのは、共同体に属する人間であった。だから、個別者(私人)の対極におかれた共同体に対応する人間のことを「成員MitgliedまたはGlied」と呼ぶ。人間が実に多種多様な形態の共同体に属していて、まだ個別者になっていない歴史的時間はおそらく30万年に近い(5)。
人類が個別者という存在様式に到着するのは、せいぜいここ500年程度のことにすぎない。それにしても問題は急速に煮詰められつつある。すなわち、個別者という人間類型が比較的新しいものであるとしても、20世紀から21世紀にかけて世界資本主義が地球規模で広がってしまった以上、この人間類型がいったいどの程度長続きするか、あるいはどこまでスタンダードでありうるかはますます疑問となってきつつある。たとえ、個別者が一種の過渡的存在かどうかについて、社会科学者の統一見解がないとしても、である。
さて、マルクス自身の草稿を考察すると、個別者はいずれ「個体Individuum」とか「社会的個体gesellschaftliche Individuum」という斬新な人間類型によって置きかえられるであろうと彼は指摘している。その一部は『資本論』にも継承され、書き込まれた。
本稿が関心を持つのは、『資本論草稿』および『資本論』の閃光のような圧縮的な表現箇所にほかならない。悠久の人類史のなかで、近代社会とはいかなる歴史的な時間であるのか、またいわゆる「近代的個人」はその後いったいどういうふうに変貌をとげざるをえないのかをマルクスはかなり自覚的に書いていた。
すなわち、『資本論草稿』では、人類史を大きく3つの時期に分ける、すなわち①人格的依存関係―②物象的依存関係―③共同体的社会的生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性、である。ここでは単純化して、共同体―ブルジョア社会―自由な個体性と呼ぶことにするが、こうした3段階を得ることができる。
ここで諸個体に注目すれば、始めて人類の経済史に挑んだ『ドイツ・イデオロギー』の冒頭近くで著者(おそらくマルクス)は言う。「あらゆる人間歴史の第一の前提はいうまでもなく生きた人間的諸個人lebendicher menschlicher Individuenの現存である」。してみれば、いかなる社会、いかなる歴史の発展段階かに関わらず、常に「生きた人間的諸個人Individuen」が、いわば歴史貫通的に前提される。複数になっているのは、人間は常に複数で、社会的に(様々な依存のパターンによって)生きるからである。「この前提は、どんな勝手気ままな前提でも、どんな教条でもなく、それはただ勝手に頭のなかでのみ度外視されうるような現実的前提である」。
マルクスは、1843―44年頃、近代が公私二元論という構造であることを、ヘーゲルに抗して徹底化した(6)。この社会がいかに強力なエゴイストによって構成されるかは、私的所有の強さによるものである。そして私的所有はその強さゆえに公私二元論を請求するのである。
しかし、『ドイツ・イデオロギー』(1845-6年)でいわゆる「唯物史観の端緒的形成過程」期に入ると、「現実的諸個人wilkliche Individuen」は歴史貫通的、あるいは歴史的社会の特性が付着しない存在論的前提とされる。なんらかのかたちで働きwirken、食べ、住み、物質的に生産しているような諸個人Individuenは「特定の物質的な、彼らの意志からは独立した諸制限、諸前提および諸条件のもとで活動しているような諸個人Individuen」のことである。
ここでかかる歴史貫通的な諸個人Individuenを『資本論』は、もう一つの歴史3段階論で規定し直す。「資本主義的蓄積の歴史的傾向」という見出しのもとに要約された3段階は、『資本論草稿』とは別のヴァージョンである。こちらでは、労働と所有の統一としての個体的私的所有―資本主義的私的所有―個体的所有の再建という要約がなされている。
『資本論草稿』の3段階論を依存関係史論、『資本論』のそれを所有再建史論と呼ぶことにしよう。これは何を論じたいのかという目的に即して、適切な側面を抽象する二つのヴァージョンの歴史観である。どちらが有効かは、その目的に応じて変化する。
しかしながら、重要なことは、『ド・イデ』の歴史貫通的な「諸個人Individuen」をもっとも抽象的な次元に据えながらも、『資本論草稿』の依存関係史論が「自由な個体性(●●●)freie Individualität」であり、『資本論』の所有形態史の第三段階目は「個体的(●●●)所有の再建」と特定されることだ。『ド・イデ』においては、歴史貫通的次元ではない解放期を「個体としての個体Individuum als Individuum」と規定し、古い共同体との違いを明示化していた。『資本論草稿』と『資本論』は、個体性の強調において完全な収斂を示している。前者は共同性の再建の中の個体であり、後者は労働主体の自己決定性の再建という違いはある。だがむろん両者が矛盾するわけではないから、総合して見れば、いずれも将来社会の個体性を豊富化する二つの視角、二つの側面であるとみてよかろう。
マルクスとしては、歴史貫通的な「諸個人Individuen」はつねに特定の歴史的社会に応じて異なる形態をとって現れる点を明確にしたものである。
先の二つの異なるヴァージョンの三段階史観の固有の3段階におうじて、「諸個人」は、それぞれに対応する異なる人間類型となって現れる。共同体―ブルジョア社会―自由な個体性に対応するのは、それぞれ成員Mitglied―個別者Einzelne―個体Individuumである。また、所有形態史論では、個体的個別者―階級的個別者―個体である。
マルクスは、ここに示したような人間類型の3段階論を、いきなり定式化したわけではなく、だいたい25歳くらいから準備を開始して、徐々に概念を研ぎ澄まし、50歳前までに(『資本論草稿』は1858-9年40歳ころ、『資本論』第1巻1867年は49歳のときであった)一応の定式化に至った。
本稿は、主として依存関係史論のまとめ方に依拠しつつ、<成員―個別者―個体>の問題構成を考察し、必要に応じて所有形態史論の個体にも言及するものである。
2.共同体に対応する成員Mitglied
マルクスは1843年から「 成員Mitglied」を大量に使っていた。それは、へーゲルがいかに私人ないし個別者を扱う場合も、最終的にはすべて有機体的国家の基礎に変えてしまうという偏向の持ち主であったからであった。しかし、近代とはそう簡単に総体として有機体へと編成されることはないというのがマルクスの強固な見立てであった。それゆえに、マルクスは私的所有と分業が商品を基礎にしているばあいは、人間を共同体的ならざる者、私人または個別者と規定し、家族、部族、あるいは疑似共同体に属する人間だけを「成員Glid,Mitglied」と規定するよう試みる。
「この場合、一般的立法であるところのものが個別者Einzelnenにおいて現れる。市民社会と国家は分離している。したがって、公民と市民社会、すなわち市民社会の成員Mitgliedたる市民Būrgerもまた分離している。したがって個別者Einzelnenはわが身相手にある本質的(●●●)な(●)分割作業を手がけねばならない。現実的(●●●)ブルジョア(●●●●●)として個別者はわが身がある二重の組織にあることを知る。すなわち、官僚制的(●●●●)bürokratischen組織―これは彼岸的国家である統治権のひとつの外的、形式的規定であって、個別者とその自立的現実性には触れるところはないーと社会的組織、ブルジョア社会の組織である。しかし、ブルジョア社会の組織においては個別者は私人Privatmannとして国家の外にあり、この組織は政治的組織の政治的国家には触れるところがない。」(MEW,Bd.1,S.281)
ここにマルクスという人物の独特な発想法がある。マルクスは「固有の対象の固有の論理」を求める。それゆえに、ヘーゲルが過剰に「成員」を使いたがる偏向を拒否するのだが、ただし「成員」概念をなんらかの有機体または疑似有機体にはそのまま使う。この限定は、一見地味に見えるが、非常に鋭い斬り返しになる。なぜなら、固有の対象を超えた恣意的な用法を制限するからだ。これによって、ヘーゲルの観念論的弁証法は成り立たなくなってしまう。獅子身中の虫となって内側から食い破る。これがマルクスのやり方である。学びつくしてよいところだけ使い、あとは容赦なく捨てる。
たとえば、近代が公私二元論(市民社会と国家の分離)であるならば、私的所有と分業が商品に媒介される領域(市民社会)では、人間はことごとく私人または個別者である。むろん、家族や集団がこの領域には存在するわけだが、家族は「個別的家族einzelne Familie」、集団は「個別的集団einzelne Gruppe」たらざるをえない。しかし、市民社会の対極に位置する公的領域は、ブルジョアが彼らの一般的利益を擁護するべき疑似共同体または幻想的共同体のかたちでだけ存立する。ゆえに、現実的市民は、市民社会では私人ないし個別者であるけれども、国家では抽象的な公民abstrakte Staatburger、成員Gliedであるとマルクスは規定する。ここでマルクスはヘーゲルをただ限定するだけでヘーゲルをきびしく批判することができる。「ユダヤ人問題によせて」(1844)は、公私二元論を徹底させてみた場合に、一方で私的領域は現実的な市民ないし個別者の闘争場埋であり、他方で公的領域は抽象的な公民ないし国民の共同体ないし虚構的共同体であるという。すなわち、マルクスの国家論は、まず最初は公私二元論から発想したために幻想的国家論であったと言ってよい。
成員(GliedまたはMitglied)という用語は、こうして次第に前ブルジョア社会の共同体の「手足」あるいは「部分としての成員」というニュアンスで特定されるようになる。ただし、『資本論』のなかでもブルジョア社会が商品論的、資本制的に編成済みであることを前提にして、ある集合のなかの「一員」「一環」「項」「会員」は、近代的であっても「手足」的存在とみなしうるならばGliedである。このばあいは少し軽蔑的なニュアンスがある。また国家共同体ないし国民代表の集う国会の「議員」も「成員Glied」と規定される。なぜならば、国家ゲヴァルトの片棒を担ぐものだからだ。
初期マルクス期からの用法の順序からすれば、第一に、共時的synchronicalな区分的にしたがって、公/私のうち共同体または疑似共同体とみなされる「公」領域において「成員」が使われ、「私」領域において「個別者」が使われる。これが原則化される。そして、同じ用法が第二に、通時的diachronical(発展段階論的)につかわれるようになってくると、旧共同体とブルジョア社会の対比におうじて、前者に「成員」が、後者に個別者が割り振られるようになる。こうした、共時性の通時性への拡張法は、概念の使用法としてまことに理にかなったものだ。
このようにして、人類史をおおづかみに共同体―ブルジョア社会―アソシエーションとつかみ(7)、その各固有の構造的特徴におうじて、歴史貫通的な「諸個人」の在り方は変化する。「私人」ないし「個別者」は、「諸個人」の歴史的な特定の現れとして位置づけられる場合、個別的個人einzelne Individuumまたは孤立的個人isolierte Individuum、あるいは単にEinzelneである。しかし、もはやそうした歴史的制約を持たず、歴史貫通的な「諸個人」が、その可能性を、特定の歴史的社会の制約から抜け出して自己の資質を開花させるとすれば、「個体としての個体」の潜在力が開かれるということになる。この意味でアソシエーション社会に固有の人間の特定のあり方は「個体」もしくは「社会的個体」と規定される。こうした用法は、マルクスが共産主義こそ「人間的社会」であるとする場合と同じである。すなわち、マルクスにとって、人間的であるというのは、さしあたりは歴史貫通的な人間ないし動物に対しての種差をもつ人間であり、潜在的可能性であるにすぎない。しかし、この潜在性を全開させる現実性を付与する社会が「人間的社会」なのである。歴史貫通的な人間は、特定の発展段階で、「人間としての人間」を目的に生きるのだから、人間的社会と呼ぶにふさわしいのである。
マルクスは、人類史の3段階を区別しても、移行期には中間的な存在が出現しうると考えた。たとえば『ドイツ・イデオロギー』で、共同体が崩壊しつつあってもなお崩壊しきっていない場合、「個別化されたeinzelne Glied」(MEW,Bd.3,S.51)と表現している。共同体的所有が強ければMitgliedが強くなり、それが弱体化すればeinzelneのモメントが強まるのであるが、いずれにせよその中間形態がある。
「各個別者は、ただこの共同体組織の成員Gliedとして、メンバーとしてのみ、所有者または占有者として関わりあうのである。」Jeder einzelne verhält sich nur als Glied, als member dieses Gemeinwesens als Eigentümer oder Besitzer. ここで、「共同体組織の成員」という用語が使われるのは、共同体は次第に没落しつつある。しかしながら同時に各自はEinzelneとして、つまり自分自身は私的所有者として家や土地を持っているのである。だから、einzelneが基調にあって、その資格において共同体は媒介であるにすぎないが、それでも共同体の一員である限りで共同体の、たとえば入会地の「所有者」または「占有者」として関わることはできる。しかし、もっと高次の強力な私的所有者、たとえば繊維産業家が登場すれば、個別者の共同体への所有または占有ははく奪されてしまう。
小括。以上のように、「成員Glied」は、正確な意味においては共同体Gemeinwesenの、無個性的,無私人的な、したがって共同体を全体として把握した場合の、いわば手足的な存在に割り振られる用語である。
3.個別者Einzelne
成員Gliedと個別者Einzelneを截然と区別できるようになると、この区別が、商品論の水準にあることが反省される。もともと公私二元論批判から研究をはじめた。二元論を結果させるものは、商品社会である。これは、商品から貨幣をへて資本の分析をおこなう基礎としてつねに基底に据えられた。『資本論』冒頭の商品は、単に商品ではなく、「個別的な商品」であったことを忘れてはならない。
「資本主義的生産様式が支配的におこなわれている社会の富は、ひとつの「巨大な商品の集まり」として現れる。個別の商品einzelne wareはその原基形態である。それゆえに、我々の考察は商品の分析から始まる」(MEW,Bd.23,S.49)。
また、共同体からブルジョア社会への移行は簡潔にこう要約される。
「商品交換は、共同体Gemeinwesen の果てるところで、共同体が他fremdの共同体またはその成員Gliedと接触する点で、始まる」(MEW,Bd.23,S.102)。
「成員」は共同体間の接触につれて解体し、個別者が台頭する。ひとたびそうなれば、いかなる個別者も商品論の水準を土台に生きているのだから、資本家ばかりでなく賃労働者もまた私人である。だから、私人をひとつの巨大な人間の塊として見れば、内部で資本家階級と労働者階級に割れる。しかし、ひとしく私人であり、かつまた自由意志的な契約主体であるとしても、資本家と労働者は対等ではない。むしろその「自由意志」によって労働者は「自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡す」(MEW,Bd.23.S.320)。
実は搾取のみに不合理があるわけではない。「資本家は100人の個別的労働力einzelne Arbeitskräfteを購入し、その見返りとして100人の結合された労働力eine kombinierte Arbeitskraftを得る。彼は100人の結合された労働力に対して報酬を支払わない。労働者が結合された労働過程に入り込むことで、労働者はもはや自分自身に属しているのではなく、資本に組み込まれることになる。こうして、労働の社会的生産力は、資本の内在的な生産力として現れる。」(MEW,Bd.23,S.315 Erst Verlag1867)
ここの個別的労働力 einzelne Arbeitskräfte は資本に分断されたバラバラな労働者を示す典型的表現である。なぜ互いに、目隠しされた競馬馬のようにバラバラであるかといえば、彼らが一つの階級として生産手段から分離されているからである。だが、重要なことは、この切り離しが、たとえ階級的な現象であるとしても、それは統計的な意味でしかなく、実際のところは、一人一人または個別家族の偶発的な没落をつうじて「分離」は外部から強制された帰結である。決して事前に、階級全員の総意として、分離の是非を政府や財界から具申されたことは一度もないからだ。この意味で徹頭徹尾受動的である。こうして、個々人Einzelnenとして、どうすることもできないかたちで自己の個別的労働力を売るのだ。売れば、待っているのは資本の監督Kontrolleのもとで、必要労働と剰余労働が込みになった一定時間を働くこと、すなわち流通過程の後の生産過程である。
『資本論』がわかりやすく図示して、たとえば一労働日のうち、支払われた労働力の価値の等価を生産するだけの「必要労働」と、この必要労働の限界を超えて遂行される「剰余労働」を二分するけれども、われわれの働き者の労働者たちは、労働力の売りが終わり次第生産過程に直行し、水のように切れ目のない時間のなかに、いかなる「必要労働」と「剰余労働」の断絶も見つけることはできない。資本の管理は、ただ込みの労働日全体を指揮する。むしろ、労働日のあとで賃金を受け取るがゆえに、個別的労働者の通常の意識は、労働をすれば報酬をもらえるという、一種のブルジョア的労働全収論に取り込まれる。すると、労働者の日常意識は<土地―地代、資本―利子、労働―賃金>というブルジョア的意識の三位一体のなかに溶け込んでいく。
また、しばしばそう考えられるかもしれないのは、労働力の売買は自由意志的であり、それゆえに契約的自由を内包する自発的行であるのにたいして、生産過程は自由剥奪的で非自発的な受動的行為であるという錯覚である。転職が奨励される時代には、ひときわこの点が利用される。この点に関して『資本論』第2巻は言う。
「一つの流通行為をなしている準備的行為、すなわち労働力の売買は、それ自身また、社会的生産物の分配に先行しその前提になっている生産要素の分配にもとづいている。すなわち、労働者の商品としての労働力が非労働者の所有物としての生産手段から分離されるということにもとづいている・(MEW,Bd.24,S.385)
これは労働力の売買がベンサム的「天賦の人権angebornen Menschenrecht」の「自由、平等、所有」の楽園にある(MEW.Bd.23,S.189)と、マルクスが厳密には認めていない(●●●)ことを裏づけている。売買は労働者の人権に属するが、搾取はその反対であるというふうに理解すべきではない。転職が本人の自由に属するという観念も売り手市場とか買い手市場という日常語も転倒したブルジョア的意識の枠内にある。たしかに転職は本人次第であり、売り手市場にあっては、労働力の売り手は買い手市場よりもその交渉においていくぶん有利かもしれない。しかし、そのことは、労働力の売りの必然が、彼の生産手段からの分離の帰結であることをなんら変えるものではない。
『資本論』第3巻では、まさに現代を予言したかのようにこう書かれている。「大工業の発展にともなって、ますます貨幣資本は、それが市場に現れるかぎりでは、個別的資本家einzelnen Kapitalisten、すなわち市場にある資本のあれこれの断片の所有者によっては代表されなくなる。そして貨幣資本は、集中され組織された大容量Masseとして現れるから、この大容量の貨幣は、現実の生産とはまったく違った仕方で、社会的資本gesellschaftliche Kapitalを代表する銀行業者の統制Kontrolleのもとに置かれる」(MEW,Bd.25,S.381)
産業資本は19世紀半ばに絶頂を迎える。これが産業資本主義の時代と言われる。産業資本は、貨幣、生産、商品という3種の資本を変態させる。ところがブルジョア社会の代表者であった産業資本家層はこの権力を維持するために貨幣を調達するべくますます貨幣資本を必要とするようになり、まさにこのために、大容量の貨幣の中へ入って資金調達に奔走する。しかしますますそうなればなるほど産業資本家層はぜんたいとして、金融資本家層にブルジョア社会を代表する統制力を奪われてしまう。個別的資本家が所有するのは断片的貨幣額でしかないが、銀行は大口小口、産業、商業、流通、農業など一切合切の貨幣(資本)を「社会的資本」として集中し組織し統制する。資本家階級総体内部における個別/社会的の覇権争いは、産業資本家階級から金融資本家階級へのヘゲモニーの移行となって進行するわけである。
小括。以上みたように、Einzelneは第一次的に共同体の崩壊後、商品、貨幣、資本が支配的な社会の、人間の基本的な存在様式を指している。ここでは、人間はむき出しのエゴイストとして現れるのであるが、それは人間が生命保全のためにエゴイストであるとか、遺伝子がエゴイスト的だという歴史貫通的な意味ではなく、彼が所属している近代ブルジョア社会で、エゴイストであることをシステムによって強制されるがゆえに個別者Einzelneなのである。
4.個体Individuum
ここまで述べてきたとおり、<共同体―ブルジョア社会>に対応して人間は<成員―個別者>として現れた。共同体で諸個人の項としての個人は、まだ対自然および対人関係が狭隘なために、まだひとつのユニットまたは粒として自立する余地がきわめて小さい。生存のためのきびしい制約によって、対自然対人関係の双方で、それらの制約から独立することは困難である。たとえば、居住地選択、職業選択の自由という、ブルジョア社会の常識がここではまだそもそも想像すらできないほど低位であった。
これにたいして、ブルジョア社会が巨大な遊動領域を個別者に与えたことは巨大な進歩であった。身分共同体、農村共同体、家共同体から自立するというのが、近代世界文学の巨大なテーマであった。それは、シェイクスピア、セルバンテス、ゲーテが、いずれも「近代的個人」の誕生を当為とし、主人公の登場する舞台を、都市、航海、遍歴、人類学的交流に求めたことから理解できる。しかし、産業革命後、近代的個人はますます等質性を失い、ますます異なる階級に属する。19世紀後半になると、Ch.ディケンズ(1812-1870)のようなヒューマニスト文学がスクルージという名の資本家的エゴイズムを告発するようになる。
産業革命以降の社会情勢において、貧乏な労働者階級の救済に学問的見通しを与えたのが、マルクス(主義)であると長らく言われてきた。だから、階級的に世界を見る視点(いわゆる階級的視点)が重要であるとも繰り返し言われた。階級的団結、連帯、統一戦線などなど。だが、意外なことだが、階級的視点によって階級を廃止したら、あとに何が残るのか、という問いは一種の盲点blind spotになっていた。マルクス自身は、ブルジョア社会を再生産視点からたえず階級が残され、拡大再生産されるとみていたけれども、また即自的階級が対自的階級に育つことに期待したけれども、階級意識が永久に大切だなどと論じたことは一度もない。むしろ逆であって、階級という現象が私人と物象の産物である限り、階級的な統一行動さえ歴史のお仕着せの一部にすぎないと考えていた。
ゆえに、何のための階級的視点か、ということがただちに問われる。階級が自己目的でなく、過渡的な纏いにすぎないのであれば、いわゆる無階級社会classless societyとはいったい誰のためのものであり、何を生み出すのかこそが問題である。
このような視点からマルクスの業績を読みなおすと、階級闘争史観と生産力史観のいずれでもなく、むしろ、人類史上に固有の位置を占める近代ブルジョア社会が階級と生産力をますます発展させることによって、いったい何を準備しているのかを知ることが肝要である。それを図示すれば以下のように示しうるだろう。
表 人類史の発展の諸階梯と諸個人の特定の現れ
社会の発展段階 | 共同体 | ブルジョア社会 | アソシエーション |
諸個人の在り方 | 成員 | 個別者 | 個体 |
同時に表1を踏まえておよそ論理的に社会のマトリックスを考えたばあい、つぎの図のような4つの象限をつくることができる。
図 共同性と個の4象限(ただし個とは、便宜上個別者と個体を含む)

この図で何を示したいのかというと、次のことである。すなわち、第一象限は旧共同体の人間が、共同性と没個に囲われていることを、第二象限は共同体が崩壊しながら崩壊しきらず誰か特定の一者が突出した利己的人間となり臣民全体を牛耳るような社会モデルである。全体主義というルイ14世に固定される一時期をなぜかくも針小棒大に特化するかは意外かもしれないが、論理的にみて、共同体と商品交換の最終決戦がここで典型的に闘われるからである。これら二つの社会では民衆は長きにわたって成員Gliedである。しかし、共同体が他の共同体と接触して、しかも王を倒してしまうとき、過渡的にEinzelneのすそ野が広がる。第三象限にブルジョア社会が現れる。資本家はもちろんのことであるが、ここで民衆さえも個別者Einzelneとなり、私人化してしまう。第一、第二象限はそれぞれ固有の問題をかかえたからこそ、それを解決すべく最終的にブルジョア社会へ移行する。では、第三象限の問題、戦争、地球環境の破壊、格差、人間の劣化という4大問題、すなわちブルジョア社会固有の諸問題を解決するためには、どう考え、どういう選択をすればよいか。すでに経てきた二つの社会モデルへ復帰することは不可能である。第1象限から第3象限への左回りのプロセスは不可逆なのである。4種類の象限のうち、ブルジョア社会と異なる原理によって存立するのは、残り一択のみである。第四象限のアソシエーションがその答えである。
だが、マルクスは図式を好む社会学者ではない。ゆえに、こうした形式主義的マトリクスが現実性を説明するものとは考えない。もっとアクチュアルな論理が必要である。たとえば、『資本論』の注目すべき論理はブルジョア社会の次の社会への移行を準備する矛盾をこう言い当てる。
「資本主義的生産様式における矛盾、労働者は商品の買い手として市場にとって重要である。しかし、彼らの商品―労働力―の売り手としては、資本主義社会は、その価格を再低限に制限する傾向がある。―もう一つの矛盾。資本主義的生産がそのすべての潜勢力を発揮する時代は、きまって過剰生産の時代となって現れる。なぜならば、生産の潜勢力は、それによってより多くの価値が単に生産されうるだけではなく実現もされうるほどには、決して充用されることができないからである。しかし、商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現は、社会一般の消費欲望によって限界を画されているのではなく、社会の大多数Mehrzahlがつねに貧乏でありまたつねに貧乏でなければならないような社会の消費欲望によって限界を画されているのである。」(MEW,Bd.24,S.318)
ここに現代の貧困をときほぐす適切な視座が提供されている。とりわけ私が注目するのは「大多数Mehrzahl」というカテゴリーである。マルクスは1843年以来、一貫して「多数」とは何か、という問いを抱いていた。最も若いころ彼は語った。「皆ということAllheitはどこまでも個別者Einzelnenの外面的な多数または総計のことにとどまっている。皆ということAllheitは個別者Einzelnenの本質的、精神的、現実的な質を変えるものではまったくない。皆ということは、個別者をして抽象的な個別者という規定を失わせるような何ものかであるのではない。そうではなくて、皆ということは個別者の総数にすぎない。一つの個別者、多くの個別者、皆という個別者。一、多、皆―これらの規定のいずれも主体であるところの個別者の本質を変えはしない」(MEW,Bd.1,S.322)
一人一人の人間が、近代ブルジョア社会の多数を占めるかれら人間が、いったいなにゆえに貧乏なのであろうか。月や火星に人工衛星を飛ばし、スマホを約75億台つくる生産能力を持ち、核弾頭を2025~26年のデータによると約12200発もつという、この未曽有の達成にもかかわらず、世界人口の約半数がトップ8人の超富裕者の資産総額と同じ資産しか持たない。それは、決して不思議なことではない。これら貧乏人がひとつの階級に属しているからである。万人が私人化し、資本家と労働者に分かれ、競争に明け暮れる限り、階級は消えることはない。『共産党宣言』は、「賃労働はもっぱら労働者相互の競争Konkrrenzにもとづいて成立する」(MEW,Bd.4,S473.)という。競争?それこそが人に向上心をもたらし、社会の発展に寄与する心構えではなかったのか?そうではない。競争とは、私人間の交通の現象形態である。だから競争は資本の支配様式であり、労働者が私人化、個別化されるかぎりにおいてのみ有効な、特異な、疎外された活動形態である。
注
(1)MEW,Bd.42,S.174,『資本論草稿 1』286-7頁。
(2)MEW,Bd.42,S.404、訳『マルクス 資本論草稿 2』大月書店、150ぺージ。ここで、歴史の中で、と社会の中での両方の意味で解せば、歴史的に特定の社会の中で人間は自己を個別化するという意味になる。ゆえに『資本論草稿』のS.22とS.404は同一の意味で理解されねばならない。後者の文脈で、続けて個別者がいかなる一般性または共同性をテコにして自己をみるかを次のように述べている。「交換は、群棲的存在を不必要にし、それを解体する。この解体が生じるのは、人間がはもはや自己にたいして、ただ個別化vereinzeltされた者として連関するだけだが、しかし、彼が自己を一般的かつ共同的なものにすることが、自己を個別化された者として措定するための手段になっている、というように事態が変わったときである」。私の理解で言うと、ブルジョア的な意識の持ち主が自己を孤立した個人として扱うのは、皆が孤立した個人であって、貨幣という物象だけが唯一の慰みなのだという事態をひきうけ、自分もそれに適応するしかないと断念したとき、そのときに人は自己を個別者としてつくりあげる、ということである。群棲的振る舞い→objectivな物象的連関の台頭→subjektivな自己の私人化→主客一体化した物象的連関という論理である。なお、同一箇所の英語版では、個別化はindividualisedと訳されている。後の箇所で一応isolated individualとされるので、精読すれば誤解を免れるのではあるが、自由主義的イデオロギーの強い国で、Einzelne=Individuumという
誤解は一般化しやすい。
(3)拙稿「個体的所有 その後」『唯物論研究年誌』第28号、2023年を参照。なお、この稿で私は個体の所有対象は生産手段であるという議論をたてて、エンゲルスとレーニンの生活手段説を退けたのであるが、さいきん『資本論』第2巻を読んで、マルクスが「労働者と生産手段の分離」の生産手段を「労働力そのものの生産手段としての生活手段を含めて」と補足しているのを興味深く読んだ。なるほど、この意味でならば、労働者は生産手段から分離されるがゆえに生活手段からもまた分離され(る不安のなかにおかれ)ている。そこからすれば、合理的に双方の意味を込めた個体的所有の再建であるという解釈も成り立つ。しかし、言うまでもないが、この補足は、所有対象は生産手段を排除した生活手段のみを指すという説をますます厳密に退けている。また、最近のマルクス解釈で「人間の自由」を強調して旧ソ連と対比するものがある。だが、「人間」を動物に対する類の固有性や長時間労働下の働きバチと対比するだけでは十分に21世紀的な豊かさを言い当てたことにはならない。課題になっているのは「人類全般の自由」ではなく、類における「個体の自由」なのである。つまり、個体の共同性を共同性の個体性とすることが、現在の地点での目標でなくてはならない。
(4)「価値生産では、多数はつねにただ多数の個別者einzelnenとして数えられる」MEW,Bd.23,S.341。『資本論』訳、423頁。
(5)2004年、フランスのコレージュ・ド・フランス教授のジャン=ジャック・ユブラン(1953~ )が、1960年代にモロッコの鉱山で鉱夫が偶然みつけた人骨の出たカ所を再発掘した。これこそ最古のホモ・サピエンスの化石であった(発表は2017年)。初期ホモ・サピエンスはマルクス的に言えば本源的な共同体で生活していた。だから人類は約30万年間共同体という長期的歴史時間を生きてきた。そこから起算するならば、本格的に共同体が壊れ始めたのは、12世紀以降であって、世界的規模で共同体が解体し始めるのはコロンブスの拓いた15世紀末の大航海時代なのである。こうして見るならば、人類が個別者の自覚を持ち始めるのは、30万年のうちの近々わずか500年程度でしかない。
(6)ただし、ヘーゲルの名誉のために付言するならば、もとはと言えばヘーゲル自身が成員Mitglied, 個別者Einzelne、個体Individuumの区分を採用した張本人なのである。ところが、『精神現象学』であれ『法哲学』であれ、ヘーゲルは個別者Einzelneが身分、団体、教養をつうじて個体に変わるからこそ国家の成員Mitglied des Staatesになりうると主張し続けた。マルクスは、このような用法を完全にうけついでおり、ただ近代にあってはEinzelneがIndividuumならざるものであり、市民社会のEinzelneが、ただ国家において疑似的にIndividuumに、したがって国家の成員Mitgliedになるという原理を確認したにとどまる。ところがこの地味な限定が驚くべき根本批判になったのである。ヘーゲルがEinzelneとIndividuumを区別した点はたとえば、法哲学の§309に「個別者の主体的意志の原理は消滅する」とか「個体が抽象的な個別者として発言することではなく、個体の諸利益が発言されることが重要である」とするところに明確に現れる。余談だが、日本のヘーゲル研究者は2021年においてさえ「個人の主観的意志の原理」などと訳している。
(7)いわゆる人類史の3段階論と定式化されるものは、『資本論草稿』に見られる。MEW,Bd.42,S.91.訳『資本論草稿1』138頁。<人格的依存関係―物象的依存関係―自由な個性>とされる。この三段階論は、もともと1843年の段階でマルクスの脳裏にあった。というのも、近代を公私二元論と規定して、それを徹底していくと、前近代は公私未分化、超近代は公私の止揚となるからだ。つまり、社会/国家の未分化―分離―止揚(1843年)という論理と人類史の3段階論(1857-8年)は、ともに<前商品関係―商品関係―後商品関係>の変奏である。
『一望荒野』2025年12月号 第5号
東西近代史の同時代人 エンゲルス・デュルケム・シェフレ・幸徳秋水
はじめに
F.エンゲルス(1820-1895)と幸徳伝次郎(号は秋水1871-1911)は、歳の離れた同時代人である。そして、両者の間に、デュルケムとシェフレが媒介項として重要な役割を果たしている。
この稿の視点をあらかじめ述べておく。ものごとを東西史で見る。近代思想における東西史を見るばあい、西にJ・ロック(1632-1704)を、東に福沢諭吉(1835-1901)を置く。そして、近代批判としての社会主義思想における東西史を見るばあい、西にK・マルクス(1818-1883)とF・エンゲルス(1820-1995)を、東に幸徳秋水(1871-1911)と堺利彦(1871-1933)を置く。その間に社会学者が、学と政治をつなぐかたちで、はさまっている。
これは、不当に日本思想史の比重を重く見るものではない。また筆者が日本人だから日本びいきになるというのでもない。むしろ、日本がアジア蔑視によって急激に極東の資本主義になったために、西洋の極に生まれた現象が、日本にも同様に現れる、ただそれだけのことである。そういう東西配置で世界史的な見取図を改めて考え、以降、現代世界と日本がどういう知的蓄積の中で生きてきたかを考える。
1.東西史の視点
西洋の市民的民主主義者であるとともに帝国主義者であったのはロックである。すでに、T・ホッブズ(1588-1679)が「征服による国家」は正当であると『リヴァイアサン』(1651)第20章で述べており、これをクロムウェルのアイルランド侵略へ適用した(ビートルズは被侵略者アイルランド人末裔として、ロンドンの富裕層に対して非情であった)。ロックは、ホッブズを自己労働にもとづく所有論の立場から、ホッブズをより自由主義的に再編した(『統治二論』1689)。こうして、西洋世界の市民的帝国主義がイギリスから世界へ広がって行った。
これより約200年近く遅れて、ウェスタン・インパクトを受けての開国が火をつけたアジアでいち早く「脱亜論」1885でホッブズとロックと同様の市民的帝国主義の思想的位置を占めたその代表的人物は福沢諭吉であった。近世のまどろみのなかにあったアジアは、豊臣秀吉の朝鮮侵略をほとんど唯一の例外として(これ自体が16世紀のウェスタン・インパクトを利用したまことに愚劣な侵略主義であった)、おおむね平和を維持していた。世界資本主義の完結が黒船によって着手されたそのあとに福沢は登場する。ロックの思想的等価物として福沢が登場したとしても、それ以前に2世紀近い時間が流れたのだから、二人を同時代人と呼ぶことは適当でないかもしれない。しかし、16世紀以降の近代世界システムという共通基盤を背景に置けば、西のロック、東の福沢という配置を考えてもおかしくはない。
さて、次に焦点化すべきことは、東西の市民的帝国主義そのものを批判する思想が、それぞれのエリア内部から出てくる時期である。西洋ではマルクス主義が西洋帝国主義を根底的に批判する思想的主体となった。『資本論』第1巻第7篇第25章に「近代植民地化論Die moderne Kolonisationstheorie」という貴重な章がある。『資本論』が出た1867年に、アメリカ合衆国は独立国家になってからすでに約90年経っていた。しかし、マルクスは本章冒頭にて「合衆国は、経済的に言えば、今なおヨーロッパの植民地Koloniallandである」と断言している。この章は全体としてE・G・ウェークフィールド『イギリスとアメリカ』の検討である。ウェークフィールドは、イギリスが高い農業生産力ゆえに工業人口を養うことができる先進国であると論じた。しかし、彼は嘆いた。イギリスの農業人口は減って工業労働者の供給源となるが、国内の賃労働者と過剰人口は、資本の搾取欲求を満たすことなく、まだ土地が十分すぎるほど余っている合衆国へ抜けだしてしまう。すると、イギリスにおける本源的蓄積はすでに終わっているというのに、賃労働者が合衆国へ植民するがゆえに、彼らは独立自営農民へと後戻りしてしまう。賃労働者の独立自営農民への転化。これでは、イギリスの資本主義は痛手を被るし、またアメリカ資本主義も広大な土地がある限り先進産業国家にならない。ウェークフィールドは、だからアメリカ政府に対して「土地の価格を引き上げよ!」と要求した。これが有名な「十分価格sufficient price論」である。アメリカ政府はウェークフィールドの策を取り入れることはなかった。西部開拓は土地を区画わりして早い者勝ちで買う、一種のゲームのように進められた。
しかし、私が書いた「デュルケムの植民地主義」と関係することになるのだが、まだ独立していなかったオーストラリアにおいてウェークフィールドの植民地化論は政策的に適用された。それはイギリス本国の傲慢を押しつける権力が自治領オーストラリアに対しては1942年まで有効であったし、1986年までは立法権はイギリスに置かれていたからだ。オーストラリアでは土地価格を不当に(つまり市場価格によってではない統制価格によって)釣り上げることが公然となされた。1830年代に近代植民地論はもっとも純粋に実験された。土地は、本当はアボリジニーに共同所有のもとにあったにもかかわらず、イギリス政府は「無主terra nullius」とみなした。そこでイギリス政府は権力によって測量し、売却し、分配した。イギリスで行われた囲い込み運動では土地を持つ農民が暴力的に羊毛産業の育成のために追い出されたわけだが、オーストラリアでは植民地論によって先住民を彼らの土地から追い出したのである。金を持たないアボリジニーは高値の土地を買い取ることはできず、土地を全面的にはく奪され、自営農の段階をへることなく、一挙に牧畜・農業の低賃金労働者となり、または家事労働者とならざるをえなかった。マルクスの本源的蓄積論は、植民地における先住民支配論となって19世紀以降の先進国と植民地の間で復活した。
3.マルクスの「近代植民地論」
マルクスは、先住民支配の話は取り上げてはいないが、ウェークフィールドの植民地化論がオーストラリアで適用されたために、「労働と資本の分離」が人工的に強行され、十分な相対的過剰人口を生み出したと論じている。アボリジニーの状態を考えるとき、まだ白人の収奪前の共同体に残された部族がいくらかはいただろうし、南オーストラリアから始まる収奪の犠牲者になった一文無しの先住民部族は何の保障もなく打ち捨てられ、女性は売春に放り込まれた。彼らは、トーテンポールとチューリンガに象徴される「宗教生活の原初的形態」を示していたのだが、もはや共同体という根を奪われつつあった。それを後のデュルケムは、ウェークフィールドの植民地論抜きに、文化人類学的な対象にしたのである。
ウェークフィールドの植民地論を拒否したアメリカ合衆国についてマルクスは次のように分析する。合衆国に有り余る土地が失われ、西部開拓が終われば、賃労働者からの小経営者への逆転はもう起こらない。そうなれば、アメリカ資本主義内部から自律的に相対的過剰人口が生み落とされることになって、イギリス国内の内圧のはけ口は消える。それどころではない。資本主義的生産様式の軌道が確立した合衆国の内圧はむしろ巨大なスケールで外圧へ向かう。地球上のどこにも無主の新大陸はない。全世界的な資本主義的生産様式は、東部ヨーロッパからの西ヨーロッパへの移民を生み出し、先住民を賃労働者や過剰人口に変え、世界中の総資本の内部圧力が個別資本と個別国家の動向をないまぜにして高まれば、あきらかに世界情勢は変わって来る。そのことをそうはっきりとマルクスは論じていないのではあるが、後の事情を知っている私たちは、F・J・ターナーの「フロンティアの消滅」がアメリカをしてセオドア・ルーズヴェルトの砲艦外交を規定し、ハワイ、フィリピンの占領と植民地化、ひいては第一大戦の構造的な原因を生み落とすことを想起せざるをえない。マルクスならば、この近代植民地化論の延長において20世紀帝国主義論を書くのではあるまいか。
ともあれ各国資本主義は互いに内圧を外圧へ転嫁させようとやっきになる。第25章の結語はこうなっている。「資本主義的生産・取得様式は、・・・労働者の収奪を条件とする」。すなわち、植民地化と資本主義の不可分性がここで至上命令となったと告げられるのだ。
4.マルクス以降の世界史的東西
さて、マルクス死後エンゲルスは西洋の社会主義運動全体を指導した。彼の薫陶はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、北欧、アメリカそしてロシアにまで及んでいる。しかし、残念ながらエンゲルスの人脈は主に西洋に限定されていた。ゆえに生前のエンゲルスに面会したアジア人は一人も確認されていない。インド、中国、朝鮮人でエンゲルスに会いに行った人はいなかった。日本人の中にも面会した人はいない。
アジア人の中でエンゲルスを最初に発見したのは、おそらく幸徳秋水である。だがそれはじかにマルクス主義に近づいた結果ではなかった。面会はかなわないとしても思想的な同時代はいろいろな媒介項を間においている。しかも、いわゆる革命思想史とか社会主義思想史に特化したのでは、この幅がわからない。
ここで堺のことは扱わない。秋水は福沢の自由主義、および兆民の(ルソー的)民主主義を超え、一挙に日本の資本主義的近代化全体を鳥瞰するところまで行った。エンゲルスが西洋社会主義運動の理論的指導者であったのと同じように、秋水の影響は朝鮮の独立運動家、社会主義者に及んだ。彼らは日帝統治下に日本語で秋水の著書を読んでいる。申采浩(シン・チェホ)、朴烈(パク・ヨル)がそれである。中国の場合、東京に滞在していた劉師培(リウ・シーペイ)が秋水の著作を日本語で読んだという。
こうして、幸徳秋水はエンゲルスほどの知的権威はもたなかったが、知識人として日本社会主義思想の先駆者となったばかりでなく、アジアへの侵略に日露戦争時に反対し、アメリカに赴いてサンフランシスコで1906年に社会革命党を結党した。これをみると、彼は、米と日本を含むアジアを視野に入れた大きな活動を提起している。
5.デュルケム・シェフレ・幸徳秋水
秋水は「余はいかにして社会主義者になりしや」1901で、自分が初めて社会主義を知ったのはアルベルト・シェフレ(1831-1903)の『社会主義神髄』を読んだ時だと述べている。それは1897-98年であると推定できる。シェフレは、別段マルクス主義者ではない。逆だ。彼はビスマルク宰相の官僚で「労働立法」など労働保護思想で社会主義運動の芽を摘む仕事をする反共主義者であった。
シェフレの『社会主義神髄』1874には、彼の立場から、西洋社会主義、なかんずくマルクスとエンゲルスのそれに関するかなり正確な説明がなされた。とりわけ利点があるのは、シェフレが「資本主義的蓄積の歴史的傾向」の「否定の否定」を「個体的所有の再建」テーゼを含めて紹介し、そこに社会主義の神髄があると紹介した高い認識の水準である。E・デューリング(1833-1921)の『国民経済学と社会主義の批判的歴史』(第二版1875年)は「個体的所有」論をはげしく論難した。だがシェフレは、まったく批判することなしに、しかもデューリングよりも正確に「個人的私的所有individual private Propertyの否定」→「資本主義的私的所有」→「個人的所有の再建」(社会化された所有と換言している)を何の疑いもなく、紹介した。そして、まさにかかる「否定の否定」の運動にこそ社会主義の本質があると正しく見たのである。
マルクス的社会主義のそれ以外の要点をシェフレがまとめると概略こうである。
(1) 私的企業の自由競争によってのみ社会のために規制されるものを、集団的資本主義のシステムに置き換えること。
(2) 社会的構成員による生産の共同管理をおこなうこと
(3) 社会主義国家は、中央集権的であること。
(4) 社会主義の傑作『資本論』におけるこの権威ある決定的な一節で説明されているように、その目的と努力は、すでに協同的な社会的労働と結びついている既存の私有資本制度を、共同生産へと変革することにある。
ここではシェフレの要約の是非を論じる必要はあるまい。彼の結論にあたる9章は『資本論』に書かれてもいない(3)「中央集権国家」のみを自由勝手に加工して次のように述べているから、是非を控えても読者は想像がつくだろう。結論章での彼の結論はこうだった。「資本主義経済が実際に無用となる範囲において、公的経済管理を導入すべきである。 この要求に対しては、私有財産という形態の資本を抑制することなく、むしろそれを一般化することによって、積極的な漸進的改革の形で最も完全な満足を与えることができる」(Ⅸ章)。これはビスマルク流の社会国家の改良主義的弁証にすぎない。
だが、「個体的所有の再建」論を参照しているのは、デューリングとともに早い。だから、マルクスとエンゲルスは、シェフレを俗流のどうでもよい人物としてではなく、敵ながらかなり研究水準の高い人物として警戒した。
シェフレは『神髄』冒頭で、『共産党宣言』および『資本論』を検討することから始めている。著書全体で社会主義の生成の必然を認めたうえでいかにしてそれを国家有機体論へ回収するかを打ち出したものである。
だが秋水はこの反共主義者シェフレの著書から社会主義を掬い取った。デュルケムはドイツに旅行して講壇社会主義に近いA・シェフレから有機体論に共感し、彼の「社会的事実」という、個人を超えた次元を主張する。ところが、幸徳秋水は、デュルケムとは反対方向へ進んだ。すなわち、シェフレの反革命を捨てて、マルクスとエンゲルスがいかに優れているかを直感し、1904年に『共産党宣言』を『平民新聞』紙上に発表した。そして、マルクス主義を国家有機体論、日本では天皇制国家の有機体論と対決すべく、ますます無政府主義の方向へ進んだ。これは、個人の次元を超えた社会の構想ではない。逆である。秋水は、個人の自発的行動から切り離された社会を否定する。疎外され、物象化された社会的次元の頂点は日本の国體である(ただし秋水は。
秋水の『社会主義神髄』1903は、シェフレの本と同じタイトルだが、内容は真逆の社会主義賛美である。ここで、資本主義は社会的生産と資本主義的取得の矛盾から様々な社会問題を生み出すものとされる。これを解決するのが社会主義である。社会主義を実現するためにはまず普通選挙制度、それにむけて勢力を結集することが求められる。
秋水と堺利彦は1904年『平民新聞』11月13日発行の号全部を使って『共産党宣言』の翻訳を出した。このあと出版禁止で牢屋に放り込まれ、獄中では第二インターナショナルの初期局員から手紙をうけとっている。1905年に下獄する。このときまだ社会主義者である。同年病気療養のため渡米した。サンフランシスコのヘイズ通り680番地に在米平民新聞社があった。ここに案内されて仲間たちと交流した。半年の滞在中にアメリカの社会主義者やアナキストと交流した。1906年6月1日秋水はベイエリアのオークランド8番通り405番地に社会革命党を結党し、拠点とした。カリフォルニア大学バークレー校の前のテレグラフ通りをオークランド方向へ坂を下り水際まで近づいたあたりだ。オークランドにはジャック・ロンドン(1876-1916)の家があり、彼は1901年に社会党Socialist Party of Americaのメンバーとなり、オークランド支部で活動した。秋水とは面会しなかったようであるが、場所と時期は完全に重なる。
1906年に秋水は帰国する。直後に、つきあっていたバークレーの料理人・竹内鉄五郎(1883~?)が天皇殺害をほのめかす脅迫的手紙を公開した。これを1907年『ザ・コール』紙と『サンフランシスコ・クロニクル』紙が報じた。『ザ・コール』の見出しは「バークレーの日本人無政府主義者、天皇暗殺を企てる」とし、『サンフランシスコ・クロニクル』の見出しは「日本人革命家の書簡、猿との血縁関係を示唆」であった。1908年8月には日本へ脅迫状が二通送付された。日本橋警察署と政府はこれを知るに及び、大逆事件を準備する契機となったようだ。これを内通したのは、二人の日本人スパイだった(飛鳥井雅道『幸徳秋水』中公新書、1969年、105頁写真)。
1906年以降秋水はマルクス主義からアナキズムに転換したという通説があるが、どうも私にはそれが大雑把すぎるようにみえる。少なくとも、帰国直後の頃秋水は社会主義を基礎において手段をアナキズム、たとえばストライキや組合主義の次元の重視に置くという意味のことを述べている。ゆえにマルクス主義と直接行動論は、同一次元の論ではない。秋水が「無政府共産anarchistic communism」というのは、国家権力のない共産主義の意味である。「吾人の共産主義は・・・実に、無政府共産主義である。政府を有せぬ共産制―自由の共産制」(神田会館帰国演説1906)である、とは秋水の言うところである。
小括
少し理論的に整理しておきたい。
1.『資本論』の「資本蓄積の歴史的傾向」は、シェフレをつうじて秋水に印象づけられ
た。個人的私的所有→資本主義的私的所有→個体的所有の3段階論における第3段階を秋水は万人が労働者にして資本家なりという面白い解釈をしている。これが面白いのは、「生産手段の国有化」としていない点である。マルクスの本意からすれば、公私二元論を超克するためには労資二元論が発達しなくてはならない。というのも、『ユダヤ人問題によせて』で定式化された私人/公民分裂論は、疎外を訴えることはできてもせいぜいのところ現実的私人の自己否定という倫理的願望(実体転化)しか出てこない。しかし、市民社会分析をへて私的労働の結合論を追求すると、①私的所有と労働の統一(小経営)→②資本と労働の分離のもとでのコンビネーション労働の発展(私的労働がますます社会的労働になることの矛盾)→③コンビネーションのアソシエーションへの転換、すなわち個体的所有の再建(労働と所有の高次統一)が出てくる(仮に所有の3段階論と名づける)。
2.所有の3段階論には、実際は本源的蓄積期の国家暴力論や将来の移行期の権力奪取を想定する以上、つねに表象においては国家の実在と機能は織り込まれているのだが、『資本論』の方法は上向法の総資本の過程を超えるものではない。ゆえに、国家が市民社会を総括する場合の、両階級による総括のさせ方は括弧に括られて捨象されているため国家論は前面に出てこない。したがって、片山潜と堺利彦の議会戦術論と幸徳取水のサンジカリズム論の対立は、まさに総括のさせ方の問題にあたるわけだが、原理論になんら結びついておらず、せいぜいドイツ社会民主党とアメリカの党勢の弱体の影を前例的に踏襲するにとどまる。原理論と戦術論の接合のためには、マルクスのフランス三部作に見合うような、まことに成熟したむろん実践上の見地から創造される国家論が必要である。だが、20世紀マルクス主義、および日本の社会主義運動にもそうした理論装置はほとんど欠けていたのである。
3.上記の国家論の課題は、資本の権力との有機的な検討を必要とする。政治権力と社会(企業)的権力の有機的関連をいかに理論化できるかについて、実は法学的な範疇的研究以外にはこれといって誇るほどの理論がないのが現状であろう。私には手に余る課題である。ただ、未展開の武器がないわけではない。それは価値形態論における商品から貨幣の発生を、個別利害を超える一般的権力の生成論として読み、管理の二重性論を媒介にして社会(企業)的権力がどういう具合に労働者のマネジメント力を奪っているかを解明するやり方である。いわば、経済過程における権力論である。国家はブルジョア的所有を擁護する目的をもっているが、それは法的な最終担保を与えるものにすぎず、移行期には所有よりも経営力が優先する。したがって、経営全般のマネジメントをトップを使ってやり遂げる実務能力が中・下層労働者側におのずと身についていなければ、議会路線であろうとストライキ路線であろうと長期的に踏みとどまることは難しいだろう。司法、立法、行政の三権は、常に限定された産婆的な機能に限定されるのであって、万能の力をもつものではない。戦後は、憲法のもとでいわゆる戦後民主主義体制が整っているわけであるが、この条件を生かして国会で労働者政党が多数を占めることが仮に出来たとしても、軍隊を使って封鎖されればまったく無力であろう。そのときに、秋水が提起した「直接行動」すなわち、大規模なゼネストを打つだけの力量があれば、軍隊さえも窮地に追い込むことができる。だから、議会主義やサンジカリズムのWntweder-Orderの論争はたいして果実をもたらさなかった。しかしながら、戦後日本ではドイツ社民の伸長を前例としたエンゲルスの議会主義路線が採用されがちであるけれども、過度の議会主義に陥った社民はナチスに敗北したのである。ナチスは議会解散前に労組も解散していた。この世界史的敗退を見ると、不破哲三「人民的議会主義」は先のEntweder-orderの枠を超えることができていない。
4.旧ソ連東欧崩壊後の理論課題は、アナボル論争で決着済みとされてきたアナキズムとマルクス主義の分離、対決を解きほぐし、どのように再構築するか、であった。デヴィッド・グレーバー(1961-2020)が開始した仕事はそういう問題と実は絡んでいる。貨幣論と官僚制を主題化するのは、自然である。つまり、市場権力と組織権力の接合・媒介が問題化され始めているのだ。
生産手段の公共化は必ずしも国有化を意味しない。国家が管理主体ではなく、あくまでも労働者の自治が主体であり、国家はその接合・媒介の補助手段にすぎない。マルクスは公私二元論をひとつの構造とみるのだから、階級闘争もまた市民社会内部の社会闘争の領域とその総括過程で生じる国家権力の奪取過程の双方を視野に入れている。過度の議会主義は前者の次元を重視せぬまま、議会多数派を頼みにする傾向がある。これは前に言ったとおり軍事的反革命によって容易に一掃されるリスクを含む。
筆者は、熟達した実践家ではないので、これ以上の素人談義は控える。だが、ここまで述べてきたことで言えるように、マルクスの所有形態論を踏まえれば、まさに(市民)社会次元(職場次元)の自治管理能力如何という問題が第一義的なものであり、それに立脚してこそ政治権力をめぐる闘争論に現実味があることは間違いない。社会科学がいつでもゆるがせにしてはならない原理は、近代分析に立つ以上は、社会が主、政治は従であるという点である。
参考文献
飛鳥田雅道『幸徳秋水 直接行動論の源流』中公新書、1969
塩田庄兵衛『幸徳秋水』新日本新書、1993年
F・エンゲルス『フランスにおける階級闘争への1995年版序文』マルエン全集第22巻、大月書店
Albert Schäffle, Quintessence of socialism,1893.
『一望荒野』2025年11月号 第4号
É・デュルケムの植民地主義 その歴史意識と論理構造
キーワード:デュルケム,社会学,植民地主義,経済,社会
はじめに
E・デュルケム(仏 1858-1917)は,フランス社会学の第二世代(第一世代はA・コント)を代表するとともに,現代社会学にたいして直接の基磯を与えた人物である1)。19世紀社会学との関係で見ると,彼はコントから実証主義を受け継ぐ一方で,スペンサーに対してはきわめて批判的であった。コントが社会学を「社会静学」と「社会動学」に分けたことは,前著(『社会学の起源』2015)で紹介したとおりである。コントは,「静学」で家族秩序に合わせて個人と産業社会の双方がどういうふうに社会的秩序にたいして貢献するかを論じ,また,フランス革命以降の知識の変動が神学,形而上学を通過して実証主義へ進むと考えた。最後の知の形態は当然産業社会を求めさせるものである。デュルケムはコント社会学のこうした静動の二部構成を 19世紀末から20世紀の新たな状況に適応させた。後で詳しく述べるよう
1) 『社会学の起源』で私は,経済人が織りなす機械的な領域とは区別される,有機体的な領域にコントが強い関心をもつことを論じた(同143頁)。デュルケムは,コントの経済/社会という構想を受け継いでいることは明らかである。
に,デュルケムは「静学」にしたがって,ある秩序の内的編成に関心をもつとともに,「動学」にしたがって,産業社会が新しい秩序への移行することを解明したといえる。産業社会の新しい秩序は,旧秩序を否定しながら出てこなくてはならない。それゆえデュルケムは,旧秩序の代弁者であったスペンサーを徹底的に攻撃したのである。
したがってこの点から見ると,デュルケムは,ホブハウスとウェーバーとともに社会学の第二世代と言われるけれども,それはたんに年齢的に同世代だということではない。もっと内容的な意味で次の世代なのだ。すなわち,第一世代が産業社会の秩序の秘密を解明したのに対して,次の世代は自由放任的資本主義から国家介入的資本主義への「産業社会」の転換をするどく読み取り,その後の社会学に対して打ち消すことのできない新パラダイムを提供した。新パラダイムの特徴は,「社会というものの決定的な諸特徴は主観的な性質のものである」2)という点に関わる。ホブハウスのマインド,デュルケムの道徳,ウェーバーの精神は,すべてここに述べた「転換」に直面したことから出てきた。おそらくは3者の真の敵はマルクスだったのであって,かれらはマルクスを一種のタダモノ論的に理解したために,社会が物質的生産から説明されるべきではなく,社会の成員が抱く「主観的な性質」から説明されるべきだということを異様な情熱で力説した。現代社会学が,マルクス社会理論から物質的秩序という思想を取り込み,社会学の伝統から象徴的秩序という思想を取り込んで折衷しているのは,それじたいが非常に興味深い現象である。本章では,互いに他を刺激するとともに,緊張関係をなすふたつの秩序という思想の一端が,まさしくデュルケムからもらい受けたもの
2) スチュアート・ヒューズ,生松敬三,荒川幾男訳『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』みすず書房,1970年,192頁。社会がその構成員の主観的なものに負うているという着眼は,見ようによっては,古代以来のすべての社会観に見いだされる。しかし,第二世代社会学者の洞察は,いずれも産業資本主義から国家介入的資本主義への転換に促がされたものである。かれらは主観的なものをどこへ向かうやら訳の分からない要素とするのではなくて,新しい秩序の固有の次元として定着させることにおおいに貢献した。
であることを探求しよう。
デュルケムは,比較的穏やかな学究生活を送ったが,おそらくユダヤ人であることから受ける差別や窮屈を知っていた。ユダヤ教において聖職者は世襲であるが,彼が学者をめざしたのは,こうした慣例を抜け出すことを意味する。「分業が発展するためには・・人間が世襲の桎梏から解放されねばならない」というのは,ユダヤ教の支配下にあった低級社会(環節社会)から高級社会(組織社会)への移行の中にまさに自分自身を位置づけた命題であり,決して他人事ではなかった。社会学とは,社会(秩序と変動)の中に個人を位置づけることである。デュルケム自身,社会学上古典とみなされる有名な著作をたくさん書いた。残された業績の数々は,いずれも開拓者的な業績であるが,どの著作にも一貫した考え方が貫かれていた。それは,個人が社会的であるというのは,社会が成員たる個人を排出するからだという考え方である。この考えに立つと,利己主義の極や利他主義の極は,いずれも個人が健全に社会化される様式を逸脱した病理である。デュルケムはこの意味において後にパーソンズが作った用語「制度化された個人主義」3)の社会学者であった。
だが,断固とした文章と深遠な生の深みに達する彼の筆力は,彼の穏やかな暮らしのなかに浸透してくる「社会的なもの」への豊かなセンスを感じさせる。コントの系譜に立つ彼は実証主義的な社会学を育てた人であるとの評価が高い。けれども,彼の実証主義は,たんに物事の機能を論じるだけの,冷たくデータ的な圧力のことではない。データが人間にとってどういう意味
3) 「制度化された個人主義」という用語は,T・パーソンズがデュルケムの思想を要約したものである。パーソンズによれば「近代社会に現れつつあるパターンは制度化された個人主義 institutionalised individualism である。このパターンの初期の定義者は,有機的連帯の概念に関連してデュルケムであった。有機的連帯とは,異なる個人や集団が異なる機能を果たす分化した社会を指す。その成員は同時に,社会への忠誠と市民としての相互の絆という共通の紐帯によって統合されている。」Leon H. Mayhew ed. Talcott Parsons on institution and social evolution, selected writings, Univ. of Chicago Press,1982,pp.328-329.
をもつかということを彼はいつでも重視した。「われわれが人類に愛着し,また愛着しなければならぬ理由は,人類がこのようにして実現されつつある一個の社会であり,われわれがこの社会に連帯的であるからである」4)。この言葉にあるように,社会と自分をつねに不即不離にとらえる迫力は社会学者の本分であるから当たり前であるけれども,その透徹程度は他の追随を許さないほどである。本章は,デュルケム社会学を第二世代のフランス的特徴を最もするどく体現した人として,できるだけ構造的に考察することを課題とする。
1. 個人史
1858年4月14日デュルケムはフランス北東部の都市エピナルのユダヤ人のラビ(律法学者)の家の父母(モーゼとメラニー)の5人兄弟の末っ子として生まれた5)。この地は伝統的にカトリックが多く,プロテスタントやユダヤ教徒はあとから流入した。とりわけユダヤ人はゲットーに集まって暮らしたが,虐待と攻撃をうけた。若いデュルケムも肩身の狭い思いで世間をみつめていた。1870年に普仏戦争がおこり,エピナルにプロシア軍が入ってきた。同年第二帝政が崩壊した直後民衆は第三共和制を宣言した。フランス敗北後のフランクフルト講和条約は領土割譲と多額の賠償を認めたもので,支配階級の裏切りであった。このため1871年民衆は蜂起して,パリ・コミューンを樹立し,72日間市民が首都を自治都市とした。これは国軍によって鎮圧されたとは言え,共和制の性格をより進歩的なものへ変化させた。第三共和制のもとで王党派を排除した安定したブルジョア政権がつくられ,このもとで産業化,都市化が進行すると同時に社会問題も激化した。
4) Emile Durkheim, De la division du travail social, p.401,田原音和訳『社会分業論』青木書店,1971年,388頁。以下,必要に応じてDT と略記する。
5) Marcel Fournier, t ranslated by David Macey, Émile Durkheim a biography,
Polity Press,2013
pp.13-28.以下,伝記による場合はM.Fournier,ED と略記する。
エミールはラビを継ぐ気持ちはなかったので,1876年パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に入るためにパリに出た。一浪の末高等師範に合格した。卒業後,サンスのリセ(高等中学校)の哲学の教師になれた。高等師範の同級生にはJ・ジョレス,A・ベルクソン,A・ブルトンら錚々たる人がいた。ここに滞在した3年のあいだにデュルケムは社会問題に関心を持ち,社会学を学び始めた。1881年にH・スペンサー,A・コント,A・トクヴィルを読んだ。この頃からは哲学者に関心をもち,Ch.ルヌヴィエ(1815-1903)の「全体は部分の総和に等しくない」という命題とともに「連帯」という概念に大きな感銘をうけた6)。
1886年,休職許可をとって彼はドイツ旅行へ出発した(1886年1月~8月)。様々な観察のうちにはむろん博士論文の執筆が含まれていた。「個人と社会」という抽象化されたタイトルの背後に,個人主義と社会主義という具体的なテーマが隠れていた。だからドイツの大学で講壇社会主義やマルクスの文献に出会った。後に書きのこしたものによると彼はマルクスを科学としては認めず,ただ時代の願望の代弁として,その限りでの社会的事実として観察したにすぎない。ドイツには,その時代の西欧がそうであるように,自由放任学派と講壇社会主義の対立があった。デュルケムは講壇社会主義に近い立場から,A・シェフレ(1831-1903)を発見した。シェフレはドイツの社会有機体説を代表する経済学者であり,社会学者とも言えた。彼はシェフレを擁護する立場から「社会は『市民の算術的総和』に還元できない」と論じた7)。
ドイツ旅行は決して無駄ではなかった。彼は,自由放任論にも国家主義にも満足できなかった。いわば第三の道を追求した。第三の道とは,人びとの慣習,行動,世論が道徳性をもつという考え方である。それを彼は「社会的連帯」と呼んだ。帰国後1887年ボルドー大学でフランス初の「社会学(社
6)ED., pp.39-42.
7)ibid., p.81.
会科学と教育学)」講座を担当した。1893年に博士論文をもとに初の大著『社会分業論』および『社会主義論』を出版した。翌年,ユダヤ人将校が無実の罪を着せられるドレフュス事件がおこったので,救援活動をおこなった。『社会学的方法の規準』1895,『自殺論』1897,そののち,1902年にはソルボンヌ大学に移籍して「教育科学講座」を担当した。そして,フランスにおける社会学と人類学の雑誌『社会学年報』を1898年に発刊した。モースの影響をうけながら書いた『宗教生活の原初形態』を1912に刊行した。処女作『社会分業論』には,もともと現代社会論として読めるが,そこには高級社会(組織的社会)を低級社会(環節的社会)と比較する試みがすでになされていた。今日,現代社会を扱う社会学と非文明社会を扱う人類学は学問上の分業にしたがって別物となっているが,デュルケムはその分岐の現場に立ち会い,二つの科学を創始した人物なのである。これだけの大きな仕事を果たしたその年に,フランスは事実上モロッコを植民地化した。また,彼は第一次大戦において共和国への愛国主義ゆえに対独戦争を熱烈に支持した。戦争はデュルケムの多くの教え子を犠牲にしたばかりか,息子を奪った。この悲しみのただなかで,1917年に脳溢血のため死去した。モンパルナスのユダヤ人区画に葬られた8)。
2. 『社会分業論』1893について
ある程度物事に通じている人は,分業について,A・スミスやマルクスの「分業」ないし「社会的分業」という概念を知っているであろう。これは,農業と商工業のような職業分化のことであって,相互に商品交換によって媒介されたものである9)。では,社会分業De la division du travail socialというデュルケムの概念は,これと同じものなのだろうか。この問いは,実は第
8)ibid., p.722.É·Durkheim, L’Allemagne au-dessus de tout:La mentalité allemande et la guerre, Revue de Métaphysique et de Morale,Vo.23,1915.
二世代の社会学の誕生の必然性を考察するうえで避けられない。言いかえれば,この点の理解がデュルケムの社会学を理解するうえで決定的に重要である。スミスの「分業division of labor」やマルクスの「社会的分業Division du travail dans la société」とも似て非なるものである。すなわち,スミスやマルクスなど,政治経済学者の考えている「社会的分業」は,デュルケムからすればたんなる「経済的分業」にすぎない。どこが違うかというと,
「経済的分業」のばあい,その担い手の間に特別な集合意識は不要である。担い手たちは,交換による利益(スミス)や能力の一面性(マルクス)によっていわば無意識につながりあっている。これにたいしてデュルケムの言う,固有の意味での「社会分業」というのは,たんに社会の中に様々な職業分化が並列的に存在するという意味ではまったくない。
すなわち政治経済学の「分業」と社会学の「分業」は,言葉は同じでも,集合意識(共同意識)のないものとあるものとの好対照をなしているのだ。このことをデュルケムは「同じ社会の成員たちの平均に共通な諸信念と諸感情の総体は,固有の生命をもつ一定の体系を形成する。これを集合意識または共同意識 la conscianscience collective ou commune とよぶことができる」10)と述べている。
お互いが仲間意識をもって,連帯して互いに結び合おうという,非孤立的な努力を払って,一体化し,一体性の意識をもつ「社会的労働travail social」の分割が「社会分業」なのである。
しかし,政治経済学の強みは,この無意識的な分業こそが「見えざる手」によって経済を絶えず調整してくれるという発見であった。とすれば,なぜ,デュルケムは分業の識別にあえて集合意識を結びつけるのか,が問われる。デュルケムの分業論は社会科学史上の後退ではない。むしろ,デュルケムはしばしばものごとを誇張して,イギリスには「経済的分業」しかないが,フランスには「社会分業」があるなどと言うほど,
9)A. Simith, Wealth of Nations, 1776,K.Marx,Das Kapital, 1867.
10)Emile Durkheim,DT., p.40,同80頁。
この点を重視していた11)。
そうすると,デュルケムの場合,固有に「社会的なもの」とか「道徳的なもの」とは,人々をただお金目当てのためや商売上相手を一時的に利用するだけで良しとするような,利己主義の動機でつながりあうような「水臭い」関係ではなく,一緒に仕事をしていくために,君はそこをやってくれ,ぼくはこちらをやるから,というふうな有機的な仕事の分割をこそ指すものだということになる。しかも,それは小さい家族から,工場,果ては国民経済にまで達する集合意識をまとわねばならないのである。
しかしながら,フランスに限らず,どこの国の発展した資本主義でも見られることだが,資本家,地主,小経営者,労働者など実に多様な利害に分かれて,生き馬の目を抜くような,抜け目のない活力で生きているような人々はあまりにも多く見られる。実際,スペンサーの社会学においては,社会とは経済と同じものであった。だから,デュルケムはスペンサーに対して非常に批判的であり、攻撃的である。デュルケムのみるところスペンサーにおいては「要するに社会とは,諸個人がその生産物を交換しあっている関係状態たるのみであって,経済外の本来社会的な作用がこの交換 échangeを規制するようなことは一切ない」12)のである。スペンサーの言う「自発的協同voluntary cooperation」とは,個別的な個人が私利のためにつながりあっている状態
11) DT., pp.266-267,同272-273頁。「とりわけある社会では,環節的類型がなおきわめて顕著であるにもかかわらず,ある分業,なかんずく経済的分業が非常に発達しているばあいがある。イギリスのばあいがそうであるようだ」。デュルケムがイギリスの分業の状態にたいして下すこの皮肉は,われわれがイギリスこそ異質異種分業の社会であることを知っているからこそ,またこの国がA・スミス,H・スペンサー,J.S.ミルを生んだ国であることを知っているがゆえに,環節的類型の語感と著しく相容れない印象をもつ。しかし,ここにはデュルケムがイギリスに対してもっているイメージが関わっている。というのもイギリスはいずれも利己心の交換次元しか扱ってこなかったために,デュルケムはこのことにたいしていら立ちを示しているわけである。英仏のこの対比は,デュルケムが二つの国の帝国主義=植民地主義の基本的性格をしばしば「残酷な帝国主義」(イギリス)と「優しい帝国主義」(フランス)として考えるところまで達する。そのかぎりでフランス帝国主義に対する批判は弱まる。
12) DT., p.180,同199頁。
のことであった。スペンサーの『社会静学』1851の想定していた社会の均衡もまた,デュルケムから見ると「社会のない経済」にすぎない。
いったい「社会学」という同一看板で研究しているスペンサーとデュルケムが,どういう理由で社会学の定義において相容れないか,ということについては,まとめて後述するが,先取りして結論じみたことを言っておくならば,要するに,資本主義そのものがもはや「見えざる手」でやっていけないところまで来ている,という発見がデュルケムの社会学の背景にある。だから,社会とは何かという定義が根本的に対立しあうのは,二人の生きた時代の違いから生まれているのである。およそ,学説の変化や発展というものは,こうした時代の違いからくることが多い。したがって,思想史的な比較を抜きに,社会とは何かという定義自体を対比しても,空虚な空中戦に終わる。生産的な学説史では,このような形而上学的な考察を避けることが賢明である。なぜA氏がa説を言い,B氏がb説を述べたかをその発生史的根拠から考え,社会学の更新の理由を合理的に説明できなくてはならないのである。
スペンサーが「社会有機体」のなかで賞賛した人口増と分業の発展も同じである。それは,デュルケムの目をとおして見ると「正常」なものとは言い難い。なぜなら皆がエゴイストであり,共有する道徳などどこにもないからだ。そのような社会は,むしろ「病理」であり,「異常」なものなのである。社会学には他の社会科学とは異なって規範normeという重要な概念がある。デュルケムの著作に頻出するこの用語は,正常か異常かという判断と密接にかかわっている。社会の規範normeを構成員がしっかりと共有しているばあい,その社会は正常なnormal社会である13)。
13) Ibid., pp.596-620,『社会分業論』第1版序論,訳421頁.統計的平均は基準が一元的で,多数が正常で,少数が異常の場合である。これはいわば共時的な軸で考えた場合のことである。しかし社会を観察する場合,共時的な考察だけでは足りない。というのは社会はたえず変化するからだ。ゆえに通時的な軸で正常を判断しなければならない。第一に社会が進化すれば,社会的平均そのものが動くか。まさに,デュルケム『社会分業論』が問うのはこの正常/異常なのである。彼によれば,「経済という集合生活の全領域は,その大半が規範的準則régleの作用をまぬがれてしまうような結果に終わっている。」具体的には①商工業恐慌と倒産,②労資の階級対立とストライキ,③科学が専門化しすぎて統一性を失っていること,をデュルケムは「病理」だとみていた。「経済界の悲惨な光景が呈する,あのたえまなく繰り返される闘争やあらゆる種類の無秩序がよってきたるべきところは,まさにこのアノミー(無規制)状態である。というのは,たがいに対峙している諸力を抑制するものも,それらに守るべき限界を指示するものも,いずれもまったく欠けているので,これらの力は際限なく伸びていこうとするし,互いに激突して,圧しあい,つぶしてしまうことになるからである。いうまでもなく,ついには最強者が最弱者を圧しつぶしてしまうか従属させてしまう結果となる」
ら,正常類型もまた違ったものへ移る。だから,その社会が幼児期,成人期,老人期のどこにあるかを調べる必要がある。第二に,そのうえでもなお一定の正常類型に信を置けない場合がある。それは健康状態の特徴が衰退と形成の入れ替わりの時期にある場合だ。過去の健康状態は壊れたのに,新しい変化に適応した健康状態がまだ固まりきってない場合,何が正常かをきめるのは簡単ではない。デュルケムは,新道徳は過去の道徳が果たしたのと同じ機能を代わって遂行しなければならないのだから,その代行を果たしえない間は正常とは言えないとみている。新旧道徳の機能の比較によって,正常か異常かを判定するというのがデュルケムの研究態度であった。しかも,かれはまだこれでも正常類型が完成度に達したか否かは確かではないと述べている。このように。共時的な判断と通時的な判断を社会状況に応じて使い分けるのがデュルケムのやり方であった。道徳的秩序に敏感な科学を樹立するために,こうした工夫が模索されたのである。
アノミーとは a-nomie,すなわちa-normalから転じたもので,正常の否定,異常である。もとは古代ギリシア語の a-nomos,法なき状態に由来するが,『社会分業論』で初めて使われ,次に『社会主義論』で使われ,『自殺論』で決定的に有名になった。
失せた状態,つまり異常のことだ。むろん,個人の場合だけでなく,現在の経済の状態もまた,彼の社会学からみれば「異常」である。目の前の現実をどういうものとして特徴づけるかというのは,科学としての社会学にとってとても重要な点である。よく私たちは「ふつう」ということを重んじる。
「ふつうに学校へ行って,会社に勤めるようになる」と言う。だから大量にみられる,標準的な現象を「ふつう」と呼ぶ。ここで,日常語の「ふつう」は,正常というニュアンスを含んでいる。しかし,デュルケムは,たとえ大量に,標準的にみられる現象であったとしても,それらの全体が異常であり,病理だと言えるものはあるとみている。社会学は,このように常識人とは異なる形で,正常/異常を弁別できる学問である。しかし,この判断基準は独断ではないのかという疑問をもたれる人がいるだろう。実証主義といいながら勝手な独断で学問をつくってもらっては困る。ところが,デュルケムはきちんと根拠を準備している。
では『社会分業論』は,いったいどういう手続きによって正常/異常を弁別したのであろうか。それは,けっきょくのところ,経済は異常であり,社会が正常だという,彼自身の全体社会(経済/社会の区別と全体)観によるものである。デュルケムは,後続の少なからぬ社会学者が共有している「経済と社会」という区別を非常にクリアーに提出した。第二世代の社会学者,ホブハウス,デュルケム,ウェーバーに共通するのは,先行するスペンサーに代表されるような自由放任主義の考え方からいかに脱却できるかという課題であった。スペンサーは『社会静学』『社会学原理』などを書いて19世紀を席巻した人であるが,彼の言う社会とは経済のことであった。なぜなら,スペンサーは利己主義が社会をつくる力をもつと信じて疑わなかったからだ。
ところが,利己主義を放任することは,18世紀以来健全ものであり,解放的ですらあったのだが,19世紀後半の西洋では,反対に様々な社会問題の原因となるものとみなされた。そうなると,社会学の根底には常に「エゴイズム問題」の告発という関心が隠れているのである。
図式的に整理すれば,(1)利己主義の基礎には私的所有があるから,私的所有を維持するためにも利己主義を否定すべきではない。(2)私的所有は,いまや万病のもとであり,利己主義とともに廃止するしかない。これが社会主義である。これらとは違って(3)利己主義はすぐれて道徳や倫理の問題であるから,私的所有の廃止までいかなくても,なんとか道徳の再建で資本主義の秩序を維持できるという立場ができる。19世紀末の西欧にはこれら三つの考え方ができあがっていた。
第二世代の社会学者たち(ホブハウス,デュルケム,ウェーバー)は,濃淡の差を含みつつ(3)を共有する。ここに,旧自由主義でもなく社会主義とも異なる,学問としての社会学の思想的立場をかなりはっきりと言い当てることができる。だから,どれほど,科学性を自称しても,社会学は両極の中間にあるから,完全にイデオロギーから自由であることはできないのである。
デュルケムはこの中間的立場を概念化するうえで最も鮮明に「経済と社会」という区別を打ち出した。社会学者は第二世代以降,経済という領域から区別された「社会」に重大な関心をもっている。経済はエゴイズムの領域である。これにたいして社会は,経済とは違って反あるいは非エゴイズムの領域である。この経済/社会という構図は,もしもこの区別が成り立たなければ,社会学が成り立たないほど重要な意味をもつ。なぜならば,社会学は私的所有と市場を,外見上いかに強く非難しても,社会主義ほど断固としてそれを廃棄するとは言わないが,社会主義が過剰に出てくるときには個人の自由が失われてはならないというかたちでブルジョア社会を擁護するからである。
だから,「経済と社会」という区別は,経済と社会が対立するという意味を含むけれども,経済と社会を相互補完的に考えるということでもある。この意味で『社会分業論』は,新しい社会学を定礎したのだ。
デュルケムに代表されるように,社会学者が共通に考えているのは,経済というのはエゴイズムの領域だという断定である。これにたいして,社会はずっと多義的なものである。その多義性をどう把握するかは社会学者によって様々であるが,デュルケムの場合,社会は経済の外側にあって,まったく対照的な法則に従っている。つまり,経済/社会は,エゴイズム/非エゴイズム,没規範的/規範的,非道徳的/道徳的な二つの別個の領域なのである。
ここでちょっとしたエピソードをさしはさみたい。私が2000年にヴェトナムのホー・チミン市に行ったとき,ある女性社会学者と話をする機会があった。ヴェトナムは社会主義国である。そういうお国柄でいったいどういう人が社会学を研究しているだろうかと私は強い関心をもった。彼女は環境社会学の専門家だった。当時街を歩くと夥しい量のモーターバイクで道路は埋め尽くされている。ライダーは皆サングラスとマスクをつけているし,歩行者もマスクをつけていた。政府はドイモイという経済開発路線をとっている。モータリゼーションはその一環である。彼女は,経済開発の裏で起こっている環境破壊を研究しているのであった。ヴェトナムで社会学者として生きていくのには知恵がいる。政府のすすめるドイモイと彼女の社会学は,対立とまではいかないかもしれないが,ある緊張をおびていると私は思った。日本では福武直(1917-1989)という社会学者が,政府の「経済開発」にたいして「社会開発」という用語を立てて,バランスのある日本社会の発展の在り方を呼びかけたことがあり,彼女はそれを連想させた。話が終わって,別れ際に私は「あなたの社会学の理論ベースにあるのは誰ですか」と尋ねた。すると,「デュルケムです」と即答した。「経済と社会」という区別は,ヴェトナムの地でこういうふうに生きているのかと私は感動を禁じえなかった。
もとに戻る。デュルケムによれば,無政府的な経済競争は,異常な状態である。このような異常を停めるためには,「市場に逆らう国家State against Market」が成立しない限り,無理であろう。
そういう意味で,『社会分業論』のデュルケムは,集合意識=共同意識=道徳意識を人々が正常に持つようになれば,こうした病理を直すことは可能だと考えるのである。逆に言えば,デュルケムは,現在無規制のまま放置されている経済はいずれは規制(réglementation)されるべきであるという。では,誰が,どうやって規制するのか。デュルケムは「規範的準則」「道徳的準則」が,と応える。
このあたりが,私のような者からすると,デュルケム社会学がなんだか非常にもどかしい,中途半端なところである。つまり,誰がそれをやるのかということを彼は指し示さないのである。誰でもよい,誰かが社会の要請をみたすべきだということになる。あまりに道学者的である。それでも仮にデュルケムの言い分を認めるとして,ではどうやって「道徳意識」を変えるのか。「経済的機能は,いまや大多数の市民を吸収しつくしているがゆえに・・・諸個人の生活の最大部分がいっさいの道徳からの影響を受けないままでうちすぎてゆくからである」16)と彼は言う。まったく非道徳的な人びとが支配的な状況で,いったいどうやって経済的アノミーを是正できるのか,という疑問を誰しも感じるだろう。
だが,いったいどうやって(ハウツー)という問題はいわば入口の問題に過ぎない。もっと本質的な問題がある。それは,なぜという点にかかわる。デュルケムはいろいろな利害関係者を観察して皆アノミー(無規範状態)に陥っていると言う。ここでデュルケムに問いかけたい。しからば,市民が皆無規範化しているというのに,なぜあなただけは規範的なのか,なぜあなたはアノミーを免れえているのか。なぜ,異常の外に出ることができたのか。人々は,デュルケムの言う「病理」をまるで「正常」であると思っている かのうように生きているとデュルケムは言う。ではなぜ,社会学者たるデュルケムだけが大衆の感覚と真逆の感受性をもちうるのか。私は,この感受性
14)Ibid., p.28,同2頁。
15)ここに「アノミーanomie」という『自殺論』で有名なあの概念がすでに使われていることに注意してほしい。アノミーというのは,ふつうの辞書には載っていない。デュルケムの造語である。類語はanomalieで,変則とか異常をさす。アノミーは道徳的なアナーキー,規範的なものがまったく消え
16) DT, p.Ⅳ,同第二版序文,3頁。アノミーはしばしばアナーキーと互換的である。
を彼がどうやって獲得したのか,それを知りたいし,知らなくてはデュルケムを学者として根元から把握できないように思う。
『社会分業論』は素晴らしい本である。それは経済とは異なる社会という領域を世界で初めて定礎した。だが,私からするととても大きな謎がある。
『社会分業論』は,彼の判断基準を前提にしておいて,機械的連帯よりも有機的連帯が優越することや異常な分業と正常な分業について実に「客観的」に叙述しているのである。ところが,この「客観的」記述が本当はおおいにクセモノである。いったい何が正常で,何が異常であると,誰が決めるのか。なぜデュルケムは物事の正常/異常を決める権利をもつのか。しかも,学問がいまや科学の名において,言い換えれば実証主義を逸脱せずに善悪を決める権限を持つというのだ。その判断基準の根拠は何か。これは統計で応え得る問題ではない。数が多ければ正常と言えない何ものかをデュルケムは心に密かに抱いていることは間違いない。ところが「密かな規準」が『社会分業論』では覆い隠されている17)。私の考えでは,彼の判断基準が何かを知るためには,『社会分業論』と同年に出た『社会主義論』を見なくてはならない。そこにおいて,デュルケムは自分の判断基準を赤裸々に語ったのである。
17) 第1版序文問題において,正常と異常をどのように根拠づけるうるか,検討している。それを要言すれば,①正常/異常は社会類型ごとに異なること,②ある社会(類型)で平均的なものは正常であり,平均から逸脱すれば異常である。さらに,③正常/異常は,その社会の年齢(幼児,成人,老人)におうじて変動する。
④急激な社会変動が起こると,古い健康状態は廃れ,新しい健康状態が未形成ということが起こるが,この場合も過去のデータと比較して平均的な正常さが機能するのと同じように新しい健康状態が機能すると言えるならば正常と言える。デュルケムのこうした実証主義にもとづく正常/異常の基準論は『社会学的方法の規準』でも再論される。筆者はよくわからないが,規範的なものを統計やデータで根拠づけるというのがデュルケムの立場なのであるが,これが果たして可能なのか,いまひとつ説得的でないように見える。デュルケム的な見地からすれば,完全雇用を規範として失業率を見てはならないことになるが,そうであろうか。交通事故死や戦死者の数は例年並みであれば正常なのか。けっきょくこうしたことは,個人の生命の重みをどう考えるかということに帰着する。デュルケムは広い意味では個人主義に肯定的であるが,データ処理過程では個人論を一切使わない。これが私の違和感のもとにある。
3. 『社会主義論』1895
デュルケムは1886年にベルリンに旅行にでかけた。そこで講壇社会主義,マルクスの文献,ドイツ社会民主党の活動を見た。社会学は社会主義理論とは別のものである。だが,第二世代の社会学者たちは,その違いを常に正確に描こうとした。デュルケムも,この時の成果を1895年に大著『社会主義』として出版した。
この本で,彼はサン=シモン(1760-1825)からヨーロッパ全体に広がる多種多様な社会主義を見て,それらの共通点をまとめた。
第一に,すべての社会主義教義は,例外なく,現在の経済機能の分散状態に抗議し,その転換を,突然に,あるいは漸進的に求めている。経済的分散とは,①個別企業が互いに独立していて,なんら共通の道徳的目標をもたないということ,および,②経済を構成しているのは「交換者」であって,彼らは国家(中央規制機関)が定期的に立ち入ることのできない特別の領域を形成している。
第二に,社会主義とは,経済機能の拡散した状態を組織化された状態へと,突然あるいは徐々に移行させる傾向である。この意味で,社会主義とは,多かれ少なかれ,「経済力の社会化」を目指すものである。
まとめて言えば,「社会主義は・・・現に拡散的である経済的諸機能のすべて,あるいはそのうちの若干を,社会の指導的意識的・中枢部に結合しようとするすべての説」を意味する。
さて,このようなデュルケムの要約は一見してわかるとおり、必ずしも独創的ではない。ここでは触れないが、経済は無政府的であるが、国家は計画的であるという社会主義観はそれじたいが近代主義的な公私二元論の枠内にあって、きわめて俗流的なものである。しかし,デュルケムの底意に気づかねばならない。とくに『社会分業論』との関係で言うと,デュルケムは決して社会主義者ではないが,そうであるにもかかわらず,ヨーロッパに蔓延しつつある社会主義を公私二元論の延長上で自分の道徳主義に利用したいと思っていた節がある。デュルケムからすれば,社会主義者は「経済機能の分散」を「経済力の社会化」に置き換えようとしているのである。社会主義は「社会の指導的中枢部」すなわち国家によって経済を制御するという思想だとデュルケムは見た18)。
これはデュルケムから見ると人々の規範形成力,あるいは「規範的規制」「道徳的規制」の必要を捉えていない。社会主義国家を建設するとか,私的所有を廃止するというのは,あまりにも制度に頼るものである。だが,本当に大切なのはまさにこの道徳的な問題次元なのだ。だからデュルケムは「このような革命は,深遠な道徳的変革なしには起こりえないことを,私たちは今や理解している。経済生活の社会化とは,経済生活の中で依然として優勢を占めている個人的で利己的な目的を,真に社会的で,したがって道徳的な目的に従属させることを意味する」と力説した。
デュルケムは,自らは社会主義者でもないのに,どうして『社会主義論』
18) デュルケムの社会主義観は,基本的に市場/国家,私的領域/公的領域という,いわゆる近代の二元論の枠組内部で考えられている。二元論の枠組み内では,市場が強ければ国家が弱まり,国家が強ければ市場が弱まる。こうした理解自体が,社会主義を近代主義的に理解している証拠である。20世紀マルクス主義の自己理解でも,社会主義とは国家による無政府性の廃止である。ゆえに基本的にデュルケムが勝手に社会主義を歪めて理解したというわけではない。20世紀マルクス主義とデュルケムが基本的に同じような枠組みで社会主義を理解していたということが,実は本稿では批判的な対象化の素材となる。市場/国家をそれぞれ無政府性/計画性という二つのモメントでつかみ,前者に抗して後者を強化すべきだと考えるところから,理論の退廃が起こった。そもそも論に立ち返ってみた場合,マルクスの理論体系は,近代哲学における公私二元論を労資二元論によって超克するというものであった。当然,マルクスの場合は公私二元論の枠組をいかにして,誰が壊すかが理論的な問題になる。そして,マルクス自身は計画性の主体が,労働の社会化を担う労働者自身であって,「国家」ではない。国家は二義的なものだ。労働がますます直接的に社会化され共同的労働になる。とはいえ,労働の社会化はあくまでも資本のもとでの社会化にすぎないから,資本の専制を壊すことで初めて労働のコンビネーションをアソシエーションに転化させることが最大の課題である。労働を担う労働者自身が直接的に社会化された労働を自治する,という理解はマルクスの固有のものであって,その補助的道具として国家が位置づけられる。20世紀マルクス主義やデュルケムにおいて欠けていたのは,こうしたマルクス理解であった。この意味で,デュルケムは20世紀マルクス主義と同様に,マルクスを読めていない。この点で「社会的所有と民主主義」(1885)のデュルケムが「私的所有」を「個人的所有」と言い換えている点にも,マルクスの「個体的所有の再建」を読み取れなかったかれの限界が現れている。 Durkheim, E, La Socialisme,
という大著を書いたのだろうか。それは,まさに社会主義者たち自身の求めているものが,実は道徳的変革だということに無自覚であるからだ。これは,ヨーロッパの一部で流行っていた「歴史的必然」の信仰にたいして一撃を加えただろう。資本主義は必然的に社会主義に移行する,だから待っていてもそうなるという理解である。これが間違っていることをデュルケムは学問的に言いたかった。そしてこの目的を達成するために『社会主義論』を書いたのである。
より一般化していえば,社会主義とは経済生活における無規範を是正するべきもの,経済を再規範化させるものである。経済/社会,非道徳的領域/道徳的領域の対照を概念的にはっきりさせ,そのうえで,社会が経済を指導すること,あるいは道徳が非道徳を包摂することを学問的に主張することができる。このことを言おうとしたのが彼の社会学なのだ。このように考えていくと,デュルケムは社会主義と一線を画しながら,しかも,社会主義が直面している問題の本当の回答が道徳的次元にあるのだということを学問的外観によって,客観的に高い所から見下ろすことができる。学者としてのデュルケムは,まさに社会主義が一定の現実的要素となっておればこそ,そこに別の回答を与えることができるのである。社会主義を押し上げる力を利用して,しかもそれと一線を画し,別の方向へ転轍させようという彼の野心はたいへんなものである。(以下、20世紀社会学小史の欄につづきを入れます。これはこのままでひとまず『一望荒野』第4号のままとして記録に残します。)
『一望荒野』2025年10月号 第3号
カテゴリー生成史について
竹内 真澄
はじめに
ぼくのアイデア(思いつき)の自分史をはっきりさせておきたい。ながらく社会学史を担当してきた。それは広く社会思想史的なやり方を使って、社会学という学問がどういう目的をもって生まれたのかを考察するものである。あれこれの社会学者が何を言ったかということは当然押さえるべき素材になる。けれども、A,B,C,Dの社会学者がそれぞれa.b,c,dということを言ったと要約するだけで本当に良いのだろうかという疑問が湧いてきた。
大学では、学生は至って新鮮な存在だ。社会学がいったいどういう学問かということなどふつうは知らない。聞き手はよかれあしかれアマチュアなので、プロとしてのぼくは、知ったふうなことを言う。社会学者ABCDの言説abcdを並べて、その共通性や時間的変遷を解説すれば、一応整ったかたちにはなる。世上流通している社会学入門や社会学史というのも、至って解説ふうなものや凝った作りのものはあるにしても、おおよそ名前列挙的なものが多い。だから、学史は当然のところ、誰彼があれこれのことを論じたという紹介になる。受講生は、講師が何十年も学説史をやっているのだから、特定の人物が何を書いたかについては熟知していると考える。たいていは講師の好み(学問的な重要性の恣意的判断)によって、特定の学者の特定の側面が抽象される。それを生誕時期の順に並べれば、一応社会学史と名づけてもよかろうとされている。
たとえば、平凡な講師としてのぼくは、「マルクスは土台が上部構造を規定するということを主張しましたが、ウェーバーはある時代の観念は決して受動的なものではなく、むしろ、能動的に経済の在り方に影響をあたえるということを主張しました」というふうなことを言う。ここでぼくは単なる羅列ではなく、対象の共通性と歴史的前後関係があることに、ちょっと得意になっているのである。すなわち、社会学というのは経済と観念の相関関係を論じることができる(共通性)だけでなく、先にマルクスが説を立て、後になってそれに反発したウェーバーが異説を述べた、ということ(歴史性)をも教えることができる、と言いたいのである。
しかし、こういうのを10年、20年とやっていると、自分は毎年毎年ある回に知ったふうなことを言うのだが、これが学生にとっていったいどういう意味を持つのだろうかという疑念をもつようになる。一般化しておこう。講師は、Aはaと論じたが、後になってBはbと言った。bはaに対する異論または批判だった、と語るとしよう。学生はこれを聞いて「うーん、これはとても重要なことを言っているぞ、経済と観念という一個のブロックを社会学部の学生は考えなきゃいけないな」と果たして思ってくれるだろうか。「思ってくれる」というのがぼくの希望的観測だったのだが、今はやや異見を持っている。確証はないが、突き放して言えば、希望は所詮希望でしかないのである。講師の信仰は思い上がりにすぎず、学生たちはつまらぬ豆知識を与えられただけではないのだろうか。要するに「経済と観念が相互作用するが、このなかで経済の規定性を強調する人と意識の能動性を評価する人の、二つの流れがある」というふうにパッケージ化してとらえて、彼らは問題をまとめてしまうかもしれない。これはおおいにありそうなことなのである。
従来の思想史において、1950年前後から1960年代初めころのことであったが、思想史の方法についてあれこれの素材を解読してきた人々が、あらためて自分の方法とは何かについて語る実り豊かな時期があった。実際この時期の方法論議は思想史家が自分の手の内を率直に開かすという点で興味深く、今日でも参考になる。そのなかには「経済の規定性」と「思想の相対的自律性」について興味深い点が反省された。丸山眞男氏や家永三郎氏のようにマルクス主義に一定の距離をとる研究者たちは、思想の基底体制還元主義を警戒し、「相対的自律」を強調したが、「経済の規定性」を無視したわけではなかった。むろん、経済の規定性が思想の隅々まで貫いていることを論証することに思想史の本質を認めるような人、たとえば守本順一郎氏のような人もいた。氏の作品を実際読んでみると、これはこれで見事である。そうなると、思想史の方法論だけで作品の良し悪しが決まるというわけでもなさそうなのである。生きた思想を取り上げるばあい、分析家のなかで働いている方法論が微妙な匙加減と塩梅で読解を主導していくことは間違いのないことである。丸山・家永/守本は、ウェーバー/マルクスの対抗の持続を示していて、両者の対抗が個々の思想のどういう側面をどのように読み取ろうとするのか、という点まで踏み込めばそれはそれで面白い。
しかし、学部向けの社会学史でこうした方法論上の差異に触れ、その効果がいかなるところに現れるかを分析するとすれば、話が複雑すぎることになるであろう。だから、便宜上講義はとても図式的になり、豆知識的になり、つまるところは暗記しやすく、飲み込みやすいものにしてなる。またそれでよしとすべきかもしれないのである。
現代は、それが良いことであるとは思わないけれども、コスパとタイパの時代である。どんな情報もすべては豆知識化される。豆知識のうちには「4丁目の角に素敵なフルーツサンド屋さんがオープンした」というのもある。ぼくが90分かけて教えた豆知識はこの4丁目の豆知識よりも有意味なのであろうか。むしろ、やや見劣りがするのではあるまいか。だって、ぼくの提供した豆知識は「深遠」すぎて使いようがないが、4丁目の豆知識は地下鉄に乗って店へいけばとても美味しかったという見返りがある。
プラグマティズムの教えるところに従えば、使える知識は生きるが、使えない知識は絶える。もしそうであるならば、なにも何十年にもわたって知ったふうなかたちに定型化した講義を行ったとしても、あまり意味はなかったのかもしれない。そう思うと我ながら馬鹿丸出しだったなあとさえ思えてきてしまうのである。自虐的すぎるかもしれないが、そういう反省がますます強くなる。
だから、「土台の規定性」「相互作用」「思想の相対的自律性」などを羅列してもたいして賢くならないといま考えている。では、どういう方向へ掘り下げていけばよいかという課題をあえて立ててみよう。
さきほど豆知識と言ったが、豆知識そのものがもっと内容上インパクトのある、重大な、忘れられない豆知識なら生きるのではあるまいか。豆知識そのものが悪いのではなく、その内容の濃さが足りないのかもしれないのだ。たとえば、「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのは『論語』から伝わる豆知識であるが、中庸や節度を守らせる有効な知識となって、幸か不幸か、生きている。豆知識は、いくつかの文からなる小さい物語である。そこから世界を描くものだ。文は語からなる。だから、語の一つ一つを丹念にさかのぼれば、言語空間の可能性をその要素から把握できる。たとえば「個人」という語の始まりを把握できれば、旧共同体と近代社会の違いが見えてくるようになる。同様の作業を、キーワード史というピン・ポイントでやると、ぼんやりしていた語義がはっきり掴めるようになる。ピン・ポイントで言葉を押さえていくと、だらだらした記述がにわかにピリッと締まる。直観的にであったが、ぼくは2000年ごろから単語論に関心を持ち、その言葉がいつごろから使われ始めたか調べることにした。
ちょうど職場には柳父章さんがいた。『翻訳語成立事情』1982は西洋語にはあるが日本語にはない単語(たとえば個人や社会・・・)を明治人はどうやって翻訳したかという研究であった。とても面白い本である。単語を英語と日本語で対比するだけで、西洋と日本に生きる人々がいったいどういうイメージをもって生きていたかがわかるのである。だが、ぼくは、柳父さんにおおいに刺激されながら、柳父さんがいう「個人individual」は実は私人private personであるというところまで突き詰めていないのではないかというところに不満を感じた。そのかぎりで柳父さんは近代主義的なのだ。だから、翻訳語という比較言語をやるばあいには、西洋語のルーツをもっと掘り下げておかないと、翻訳の中で何が脱落したかがわからなくなる恐れがある。個人の場合で言うと、西洋語の個人は、私人と個人というふたつの側面をもっている。私人は、共同体から独立したバラバラな存在を指し、個人は共同体から切り離しえないという意味をもともとはもっていた。ところが、私人の実在的圧力が高まるにつれて、共同体と不可分という意味は脱落し、個人はある社会の最小単位という意味になった。これは個人が、全体の中の部分であり、不可分の成員であるという意味から、ある社会の分析可能な単位に反転した例である。柳父さんの翻訳語論では、西洋における個体の私人化の経緯が触れられていなかった。そこにぼくの不満はあった。
ともあれ単語史を方法として会得していく途上で、ある意味では自然なことだったが、独語ならグリム兄弟の編さんした『ドイツ語辞典』、英語なら『オックスフォード英語辞典』、中国語なら『漢語大詞典』、日本語なら『日本語大辞典』があることが、遅まきながらわかってきた。これらはいずれも先人の膨大な、しかもまことに地味な作業を集大成したもので、いかなるジャンルの研究者の垣根も超えて、およそ言語で生活する人にとっての宝の山である。
そこで思いついたのであるが、ある単語が特定の時期に誕生するメカニズムや、その背後にある法則性を解き明かす言語論というのを構想することができないものだろうか。グリム兄弟によるドイツ語辞典のように、各単語の初出時期を文献的に特定する研究は進んでいるし、各国語でも同様の蓄積がある。であれば、初出は何年、例文はこれこれという事実を踏まえて「なぜその単語が、その時期に、その意味を持って生まれたのか」という問いに対する統一的な法則を見出すことはできないものだろうか。この問いは自然にでてきた。 「ある意味を持つ単語がなぜその時期に発生したか」という問いは、言語学者のみならず、もっと広大な人々にとって大いに価値がある。ぼくがなかんずく考えたいのは、一種のヘゲモニー論(A・グラムシが考えた意味でのそれ)である。つまり、言語の発生と普遍化の法則に則らなければ、話は広がらないし、遺産として残らない。資本蓄積に対抗できるのは言葉の蓄積以外ではあるまい。社会は、ヴィトゲンシュタインの言う複数の言語ゲームが闘争するアリーナである。諸ゲームが互いに闘争するとき、いずれの言説が競り勝つかは、言語法則にしたがうものだといえる。なぜ、どのような言語(単語)が、どういう理由で発生するか、その変動の法則は何か、これを研究してみるということがヘゲモニー論の内実をつくるのではないか。これがひとつのアイデアである。これは、すでに誰かがどこかでやっている研究かも知れない。まして現代はグローバル化が進行するから、西洋語の非西洋への複雑な浸透過程が一方的なものではなく、受容側の一定の主体性を介して、定着する過程に関心が向かうはずである。今後こうした研究はますます発展してくると予測できるから、深遠で魅力的なテーマがそこにあるにちがいない。今後の研究の発展が待たれるもののひとつであろう。
1.言語論的転回について
20世紀は哲学上の言語論的転回が大きな遺産をもたらした。従来の主観/客観というこわばった図式には多かれ少なかれ独我論solipsismがつきまとっていた。ところが、言語論的転回がひとたび起こると、おそらくは古代ギリシアで発芽し、近代において、とりわけデカルトから出発しカント(1724-1804)において完成した「独立した自立的人間einzelne Mensch」という特定の歴史的人間像が次第に、しかし決定的に古くさいものとして処理されるようになった。
拙稿「社会・言語・移行」(『市民科学通信』第60号、2025年5月)で扱ったことだが、20世紀の哲学は独我論から共同主観性論へ転換する際に、言語を考察することをテコにした。言語論的転回が着目したのは、たとえばデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と自己反省するばあい、反省が自分一人ではつくることができない言語を前提しているというところである。これによって、「思うから、我は実在する」というのはまだ我の実在根拠として弱いのであって、実在を思い込んでいるところの自我そのものが、言語に依存していることが解明され、近代哲学(の基礎)は崩壊し始めた。
一口に言語論的転回と言っても、そこには大きく括って2種類のものがあるようにみえる。
第一は、言語を、特定の民族的、地域的言語から抽象し、言語一般の構造を思考するものである。第二は、そのぎゃくに、特定の国民的または民族的なコミュニティの言語として思考するものである。
ふたつのうちいずれが生産的であるかは論じるべき課題による。私にとってはまだ今後の研究プロジェクト次第だが、扱いたい言語は第一のものである。これにたいして、多文化共生とか一種のコミュニタリアニズム運動や各国語の硏究が重視するのは第二のものである。
ただし、第二の言語研究は捨てがたい。というのもおよそ社会科学というジャンルでは多くの用語が西洋起源だ。だからさしあたりは特定の国民(たとえば西洋のどこかの国)の言語からうまれた様々な概念は、西洋起源の近代社会の広がりにつれて、世界共通語へと広がっていったから、世界規模での言語体系の種差の境界を言語がどういうふうに克服していくかを考察しなくてはならない。
これを重視する立場から見ると、言語学者の扱う言語は非常に静態的である。たとえばチョムスキーの言語論は、言語の深層と表層の変換の問題をあつかうことに関心が向いている。ゆえに、言語の共時的な構造を研究課題にしているわけである。はっきりと 時間は捨象するとも言っている。ラッセルやヴィトゲンシュタインはどうかというと、同じように言語を共時的(静態的)に考察するものが圧倒的に多い。
したがって、社会学史から出発したぼくにとって、言語論的転回は関心のあるテーマであるけれども、これまでの言語論は圧倒的に共時的構造に関心が傾き過ぎており、共同主観の歴史的変化に関心があるぼくには物足りない。共時的構造からの独我論批判というのも限定が強すぎる。そこで、試論的に言語の時間的な、あるいは歴史的な発生の問題を考えてみたい。その素材は結構身近にある。
2. 言語の共時構造から通時構造へ・・・労働という言葉がなぜ生まれるか
ぼくにとってヴィトゲンシュタインは非常に啓発的な言語論者であることは間違いない。私的言語は存在しないと言う。だが彼が言う通り、人間が世界を認識するばあいにいつでも言語が先行している、というのは正しい認識であるが、それで独我論を壊すことができる範囲は限定されているのではなかろうか。というのも問題は、毎日、毎時、毎分言語に依存して生きている私たちが、それを使用する主体であるにもかかわらず、言語が使用諸主体から離れて、あたかもひとつの生き物のごとく変化する、その動態を言語論的転回がどの程度解明したか、まだ不確かであるからだ。
このように言語発生論に課題を設定したばあい、ヴィトゲンシュタイン、F・ソシュール、N・チョムスキー、K.O.アーペル、J.ハーバーマスらは、いずれも言語を静止状態で把握している。しかし、これらのいずれよりも強い印象を与えるのはマルクスの言語の構造的発生論(と仮に名づける)である。ぼくは、この議論をひとつの手がかりにして新旧言語ゲームの相克を射程に入れて、言語の発生史論に注目したい。
マルクスの言語発生史論と私が呼ぶのは、よく知られた「経済学の方法」に含まれるアイデアを仮にそう名づけるにすぎない。それは『資本論草稿 1857―58年の経済学草稿』にある。少々長いが、とても重要なので引用する。
「富を生む活動のいずれの規定性をもすてさったのは、アダム・スミスの巨大な進歩であったーマニュファクチュア労働でもなく、商業労働でもなく、また農業労働でもないが、しかしそのどれでもあるたんなる労働〔Arbeit schlehithin〕。富を創造する活動の抽象的一般性とともに、こんどはまた富として規定される対象の一般性、生産物一般、すなわちふたたび労働一般であるが、対象化された過去の労働としての労働一般〔Arbeit überhaupt〕。この移行がどんなに困難であり、かつまた偉大なものであったかは、アダム・スミス自身が、なおときおりふたたび、重農主義に逆もどりしていることからもわかる。ところで、労働一般という言葉によって、人間が━どんな社会形態のもとであろうと━生産する者として登場するさいの、もっとも単純で、もっとも太古的な関連を表すための抽象的な表現がみいだされたかにすぎないかのように見えるかもしれない。これは一面からは正しい。他面から見れば正しくない。労働の一定種類にたいする無関心は、どんな種類の労働ももはやすべてを支配する労働ではなくなっているような、現実の労働諸種類のきわめて発展した総体を前提としている。こうしてもっとも一般的なもろもろの抽象は、一つのものが多くのものに共通のものとして現れ、すべてのものに共有されているような、もっとも豊かな具体的発展のあるばあいにだけ、一般に成立する。そのときには、ただ特殊な形態でしか考えることができないということはなくなるのである。他方では、労働一般というこの抽象は、ただ諸労働の具体的総体の精神的結果であるだけではない。一定の労働にたいする無関心は、諸個体が一つの労働から他の労働に移っていくことが容易であり、労働の一定種類は彼らにとって偶然的であり、それゆえ無関心的なものであるような社会形態に照応している。ここでは労働は、範疇においてばかりでなく、現実においても、富一般の創造のための手段として生成しており、人の身上として諸個体とある特殊性をもってむすびつくということがなくなっている。このような状態は、ブルジョア社会のもっとも近代的な定在形態━アメリカ合衆国━でもっとも発展している。したがって、「労働」、「労働一般」、たんなる労働〔Arbeit sans phrase〕といった範疇の抽象、近代経済学の出発点は、ここにおいてはじめて実際上の真実となる。」(大月版、経済学の方法、56頁)
繰り返すまでもないだろうが、太古においてわが先祖たちは、魚をとりにいく、山に植物を採りに行く、種をまくなどと具体的なものを具体的なままに名づけ、遂行していたのであろう。レヴィ・ストロースは『野生の思考』1962でブリコラージュと名づけて、手元のありあわせで物を作る作業を実に細かく分類していた。
これは未開人の「ここといま」がいかに多種多様であるかを示すものである。ところが、「ここといま」における多様性と土着性をもつ言葉は次第に淘汰されてしまう。なぜならば、商品交換の頻度が上昇してきて、ある具体的有用労働と別のそれとをどういう割合で交換するのがよいかという問題に日々人が直面するようになるとブリコラージュでは早晩限界に突き当たるからだ。個々の具体的作業にそれぞれ別々の言葉をあてがうのは、人びとが互いに隣接し、傍で見よう見まねで教えー教えられる共同体にふさわしい。ところが、商品が共同体の限界において発生すると、人びとはそうした接触の場で伝承の限界に悩み、「共通」項を求める。個別共同体のあいだの共通項を模索する、気の遠くなるような時間の堆積の結果、「労働一般」という共通の範疇が生成してくるのだとマルクスは指摘する。これによってかつての「ブリコラージュ」は淘汰されるのである。魚とり、種まき、山菜取りなどは、互いに共通する「労働」あるいは労働一般へと還元されるようになるわけだ。
以上のマルクスの記述は、定式化して、<存在━カテゴリー━意識形態>という図式にまとめることができる。つまり人の存在が商品経済に包まれるようになると━労働一般というカテゴリーが析出されてくる━すると主体は個々の活動の具体性や些末さに無関心となり、その分だけ、関与する客体は固有の素材の質的差異を失い、貨幣の量にのみ収斂されてしまう。こうした主体―客体関係が支配的になる。マルクスは「社会的存在が意識を規定する」と論じたが、それをカテゴリーの析出を媒介して再構成すれば、社会史に対応する意識の変化を読み取ることができるようになるであろう。上記の引用でマルクスによれば、「労働一般」はまずイギリスで先行的に生まれ、古典派経済学を生み出す。そして、アメリカ合衆国で学者だけでなく、ふつうの人々の日常を動かすような、もっとも発展した、商品化した言語状況を生み出す。すなわち人々は主体側で具体的な労働の多様性に無関心になっていき、他方で客体側はますます貨幣形態に収れんするようになる。これがブルジョア社会で日々起こっている事柄なのだ。
ここでいささか突飛だが、マルクスの「労働」カテゴリーの発生史を素材にして、20世紀のバートランド・ラッセルとヴィトゲンシュタインが発展させた分析哲学の主題を考えてみよう。ラッセルとヴィトゲンシュタインは、マルクスのような歴史的な言語発生論の視点をもたなかった、だから彼らは共時的にものを考えたので、世界と名前の静止的な関係を考察した。ゆえに真理とは、世界にどういう名前をつけるかにかかっていると彼らは考えた。それはよい。しかし、マルクスに即せば、それらの「名前」は机上で自由自在に作りだせるものではない。スミスが『国富論』で「見えざる手」のメカニズムを解明できた根拠は、様々な質的に異なる仕事が共通の第3者である「労働」に還元されるという事実にあった。「労働一般」の発生は、スミスの机上における発明ではない。古代、中世が終わって、マニュファクチャ時代が終わりの社会的生産諸力がはじめてスミスの近代経済学をつくりだしたのだ。
この意味で、「労働」範疇の発生は近代の根本条件である。だが、もし「労働」以外の様々な単語もそれぞれに背負う歴史があるとしたら、我々が生きている社会を構成する重要「カテゴリー」は我々自身の営みのなかから、ある独特の基軸的なカテゴリーを北極星のような中心におくことで回転しているのではないだろうか。近代には近代固有の言語の星座的な体系constellationがある。そしてこの中心に「労働」が座っているとみなしてもよかろう。
もしこういうことが言えるならば、言語論的転回を、ただ哲学上のひとつの洞察にとどめるべきではない。また哲学上の認識論偏重を存在論へ開くというような哲学固有の問題意識からも開け放って、およそわれわれが拠って立つ言語の、その都度の社会史に対応する言語ゲームの変遷史へ問題を敷衍することが必要でもあり、可能なのではあるまいか。
そうすると、言語ゲームの構造的発生論を大掛かりに探求していくことは、新旧の言語ゲームの相克やそれをどういう立場から戦略的に活かしていくかなど、一種の文化的ヘゲモニー論の再構築にとって重大な前提作業となってくるのではないだろうか。
マルクスは、これらの作業のうちの「労働」という根本的範疇について考察したのだが、労働概念は資本の主体的根拠となるべき用語であるから、労働━資本というセットが、近代言語体系の中心にあることを示唆したものと読める。こうした読みが可能であるならば、彼の書いたものはすべて言語の発生史論として読みなおすことができるかもしれない。たとえば、剰余価値学説史は、古典派経済学のなかで説明不可能であった、労働価値説と構成価値説のジレンマを突破するかたちで、新カテゴリー(剰余価値)を析出する過程を書いたものと考えることができる。すると、それは近代的な社会認識を近代批判の社会認識へ移行させる、言語移行論の準備なのである。共同主観性の移行を考えるばあいの礎石はこうしてマルクスによって、まだ学者の一部での変化にすぎないとしても、与えられている。
おそらく、私たちの社会を新社会へ移行させるにあたって、常に民衆の使う言語が基盤になるとすれば、ますます言語発生史論は不可欠の武器となるだろう。言語発生史がすべての学問、教育過程の基礎となって、そこから私たちの明日の社会を構想する力が根拠づけられる日が今後来るかもしれないのである。従来「ヘゲモニー論」は、狭い政治戦略上の問題として処理されすぎたきらいがある。だが、ヘゲモニー論をもっとひろげて考えてみるならば、マルクスのカテゴリー論はまったく新しい視野を開いていたというべきであろう。
3. 第三者der Dritteの発生について
マルクスは、労働概念を起点とすることによって、もっと様々な別のカテゴリーについても論じているように思われる。
それは第3者(三人称der Dritte)である。これまた商品経済と関わってのことだが、「共同体と共同体の接触から商品が生まれる」という場合、接触した時点で、共同体は互いに一種の「私的労働」になる。ゆえに、商品を生み出すのは「私的労働」であって、絶えず、私的労働は「抽象的人間労働」(これは「労働一般」という日常語をさらに学問的に抽象した言葉だ)を価値実体の一定量を含むものとして、他の「私的労働」と価値形態に入り込む。相対的価値形態と等価形態は、それ自体として見ればAとBの二者関係である。ここから、商品Aと商品Bの交換において、Aの価値実体(抽象的人間労働)は、Bの使用価値の一定量で表現されねばならない。相対的価値形態の位置にある商品Aは、等価形態の位置にある商品Bと対峙する。等価形態を担う特別の商品が次第にしぼり込まれて、A、B、C、D、E、F・・・が相対的価値形態にあって、特定の商品Xが等価形態に立つようになれば、一般商品の無限の系列がすべて一個の商品X(たとえば金)と交換されるようになる。これが貨幣の完成である。商品の無限性がたった一つの貨幣という商品のもとにへりくだるようになる。ゆえに、貨幣は特別な第三者である。商品群は第三者を除外するし、また貨幣は一般商品を排除して自己の権力を維持するようになる。AとBといった様々な商品が市場に入れ代わり立ち代わり入って来きて、商談が成立すると消費過程へ消えてゆく。ところが、こうした激しい流動の中で、貨幣だけは市場に残り続け、貨幣所有者はあれこれの寿命をもつ商品群をまるで不死鳥のように待ち、持ち手を変えて残り続ける。第3者は、この意味で超越的な審級として媒介性をもつ強力な権力なのである。
貨幣は、この意味で、二つの異なる商品の価値実体の値踏みに公平な裁定をくだす特別な水準の権力者である。諸商品から見れば、貨幣は「公平な観察者(A・スミス)」「一般化された他者(G・H・ミード)」だから、商品たちの憧れである。しかし、この憧れの的の地位にどの商品も到達できないけれども、いずれかの商品をたえず析出しつづけなくてはならない。平等主義者である商品たちは、まことに価値対象性をもつがゆえに、権力的な貨幣を生み出すのである。
この意味でマルクスは「価値形態論」において商品所持者AとBを扱う場合、つねに「三人の当事者drei kontrahenten」(MEW,Bd.23,S.163)を想定している。なぜ貨幣は生まれるのか。それは人々が皆「私的労働」の主体であるからだ。この主体こそ私人Einzelneである。私人は、互いに商品を所持し、市場で売ろうとする。だが、互いに自己の使用価値を欲しがる人にめぐり合うのは容易でないので、諸商品は「第3の商品dritte ware」、すなわち貨幣を群の外へ押し出す。近代民主主義とは、私人が集う民間領域が貨幣という絶対主権を析出することで、実在の国家Staatを支えるべきであるという近代神話をシンボライズするものだ。
ひとたび「売りW-G」と「買いG―W」がスタンダードな富の交通形態になると、売買契約が成立したときに証人が法的に設定される。証人は、貨幣の支払いを強制する「一般化された他者」である。また「掛け売り」や「つけ」が行われた場合に、証文が交換の客観性を裏づけるものとして、水掛け論を仲裁する力をもつようになる。ゆえに契約には第三者の保証がつきものである。マルクスは、このように価値形態論に関わらせて「第三者(三人称)」が発生する史的理由を論じていると考えてもいいだろう。
ぼくはもともとは森有正の三人称論からヒントをえて、社会科学の客観性の問題を考察したことがあるが、これをいまやマルクスとつなぐ道が見えてきた。各国語の歴史的研究でますます明確になっているのは、いわゆる「第三人称」がいつ頃生まれたかという研究である。諸説あるが英語では、1400年代に「彼he」が誕生し、そのごsheが生まれたという。どの地域の言語も、「これ」「それ」「あれ」という指示代名詞で会話主体の場所的限定からの距離の遠い者、あるいは不在の人物を話題にする。「彼」とは「かのひと」からの転生である。それが固定し、抽象化されて第三人称というトポスが生まれた。野口武彦の研究によれば、日本で、「彼」「彼女」は明治維新以降成立したという(野口『三人称の発見まで』筑摩書房、1994年)。また、黄興濤の研究によれば、中国で彼女を意味する「她Ta」は、五四運動(1919年)までは存在しなかった。「他」によって性別抜きに第三人称は一括されていた。だが中国の西洋化、近代化にともなって、陳独秀が中心となり、魯迅や胡適等の加わった新文化運動(雑誌『新青年』に結集した)の成果として女性の三人称は、論争の上で、普及したという(黄興濤、孫鹿訳『「她」という字の文化史 中国語女性代名詞の誕生』汲古書院、2021年)。筆者は溝口雄三他編『中国思想文化事典』(東大出版会、2001年)を閲覧したが、女子の項でもこの「かのじょ」の欠落はなんら指摘されていないから、黄の她の研究は画期的なものである。西洋から伝播した三人称は、もともと商品経済に照応するべく出現したが、日本における三人称は英語の三人称よりも400年遅れており、中国の她はsheよりも500年遅い。なぜ東アジアでは三人称の出現はなぜかくも遅れたのだろうか。商品形態と思考形態は基本的に照応するものであるが、東アジアは、それだけでは方向しか説明できない。このタイミングの遅れは、中国固有の商品経済と儒教的伝統文化の双方から説明されねばならないであろう。これは、歴史的近代を超えて、フェミニズムを含む、人類の未来にまで波及する文化的意味をもつ問題なのである。
それはともかくとして、なぜ、目の前に現前しない第三人称を話題にするのか。前述のようにそれは、商品経済の発展とむすびついている。人と人の交際範囲がたえず広域化し、共同体で「これ」「それ」「あれ」で充分であった身体的指示が、ある臨界点で壁に阻まれた。
だから、マルクスによる「労働」という言葉の発生と「第三人称」のカテゴリーの使用は、相互に関連しあう。商品は平等主義者なので、主体(私、君、彼/彼女)を析出する。互いに労働を交換するブルジョア社会が徐々に日常の範型として生成する過程でぼくたちは「私」に気づき、「君」に気づき、そしてついに「彼/彼女」を必要にするようになる。
その後の歴史を辿れば明らかであるが、「労働」と「人称的世界」が紡ぎ出されると、私たちは「貨幣」を求め、また「売れる商品」を求め、人生に「有用性」を求め、機能的合理主義を「ラショナル」な思考とするようになる。これは、ポジティブな意味を持つ。しかし、その反対側で「崇高なもの」「形而上学的なもの」「ユートピア」の崩壊をもたらすことになる。すなわち、功利主義的な人生観が一般化すればするほど、いったい「私」は何のために生きているのだろうか。ただ、じぶんのためにだけ生きているのだろうか。もしそうだとすれば、何の愛もなく、ただじぶんのためにいき、死んでしまうことほど恐ろしく、寂しい人生はないのではあるまいか。「だれかのために本気で一途につくしてみたい」。そうした苦悩が台頭しもする。だが、功利主義の支配はこうした願望を拒絶するのである。
ある意味ではもう手遅れなのだ。功利主義の蔓延は止められない。このように、このまま進めば進むほど、社会は一種のニヒリズムに蝕まれていくであろう。
経済体制としての資本主義は宿痾のようにニヒリズムを生み出す。これは富をどう処分すべきかという狭い問題設定の中での経済体制論を超えて、生の意味と世界観にまで及ぶ考察を刺激するであろう。
ここでふたたび「労働一般」というカテゴリーと「人称的世界」の成立は何であり、人にとってどういう意味をもつものであったかが再検討される。「労働」と「人称」の成立は、たしかに商品―資本体制の産物だが、それはただ資本主義のイデオロギーに人が巻き込まれたというだけのことだったのだろうか。ある意味で無駄なことをしていたのだろうか。このことを問うてみたい。
私たちは、まだもっともっと発展するであろう、商品経済の真ん中に生きている。言葉はそのなかから次々に生まれてくる。
第一に「労働一般」以前のブリコラージュの世界、かの「野生の思考」の世界があった。自他の区別すらない「自他一如」、我も君も彼/彼女もない共同体の生き生きとした連帯世界があった。しかしながら、気の遠くなるほど長いこの連帯世界は終わった。
第二に、その後「労働一般」が範疇的に確立し、我々を抽象的に結びつける非人格的な紐帯が成立することによって、我、汝、彼/彼女というフラットな人称的世界が形成された。人称的な項のなかに身分を超えて誰でもが入れるというのはまことに画期的なことで、人間という概念すらこの時期の産物である。
順序が逆になるが、第一と第二の時期の間に、長い移行期がある。土地所有を媒介にした未発達な商品経済の時代である。貨幣が未発達で、代わりに土地所有者と農民の上下関係が機軸にあり、補足的に職人と商人が周辺を構成する。
第二期のフラットな人称的関係は、心地よい開放的な関係のように見えるかもしれないが、そうではない。というのは、人称関係は総体として無人称の物象的関係(商品・貨幣・資本)に従属させられているからだ。ここでは、物象が主役であって、人称は物象の奴隷である。具体的に言うと、彼や彼女は、社長や部長であって、「我と汝」の世界には入ってこないし、また入ってこられても困る。人間は、階級や階層の人格化にすぎない。人格は階級や階層を生きている間なんとかかんとか「役role」を演じるが、その時期が終われば「役たたずuseless,worthless」となる。
したがって、近代において成立する人称的関係は、物象に封じ込められて、主役にはなりえない。もしも、人称関係が物象から解き放たれて、本当にフラットに、互いに人格として尊重しあえる基礎となりうるならば、現在思考しうる範囲でもっとも解放的な人間と言えるかもしれない。
この意味からすれば、近代は、いわば解放の可能性の萌芽とそれを抑制する現実との非常に複雑な層をなす言語的構成体である。おそらく、言語史的探求をもっと深めていけば、その重層を分節することができるようになるであろう。抑圧とは別の可能性はたしかに胚胎している。
「労働」(労働一般)という範疇は、オートメーションとIAの発展の過程で、また人間がますます「機械の自己意識ある付属物」になる過程で、価値実体の尺度であることをやめるかもしれない。マルクスは『資本論草稿』で次のような、きわめて興味深い指摘をしている。
「生きた労働の対象化された労働との交換(生きた労働と死んだ労働の交換のこと----引用者)は、すなわち社会的労働を資本と賃労働との対立という形態で措定することは、価値関係と価値に立脚する生産との究極の発展である。この生産の前提は、富の生産の決定的な要因としての、直接的労働時間の大量、充用される労働の量であり、またどこまでもそうである。ところが、大工業が発展するのにつれて、現実的富の創造は、労働時間と充用された労働の量とに依存することがますます少なくなり、むしろ労働時間のあいだに運動させられる諸作用因の力Machtに依存するようになる。」「もはや、労働が生産過程のなかに内包されたものとして現れるというよりは、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関わるようになる。機械装置について妥当することは、同様に、人間の活動の結合と人間の交通Verkehrの発展とについても妥当する。もはや労働者は、変形された自然対象(機械のこと---引用者)を、客体と自分の間の媒介項として割り込ませるのではなく、彼は、彼が産業的な過程に変換する自然過程(機械---引用者)を、自分と自分が思うままに操る非有機的自然とのあいだに手段として押し込むのである。この変換のなかで、生産と富との大黒柱として現れるのは、人間自身が行う直接的労働でも、彼が労働する時間でもなくて、彼自身の一般的生産力の取得、自然にたいする彼の理解、そして社会体としての彼の定在を通じての自然の支配、一言で言えば社会的個体の発展である。現在の富が立脚する、他人の労働時間の盗みは、新たに発展した、大工業それ自身によって創造されたこの基礎に比べれば、みすぼらしい基礎に見える。直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の尺度であることを、やめるし、またやめざるをえない。」(『資本論草稿Ⅱ 2』大月書店、489-490頁)
現在、労働者は、AIやロボットの登場によって、ひょっとすると仕事を失うかも知れないという恐怖にさらされている。工場からブルーカラーが消え、またオフィスからはホワイトカラーが消えたとすら言われている。資本が支配する以上、直接的労働とその時間を盗まなくては資本は生きた吸血鬼としてやっていけない。にもかかわらず、人手不足や人件費のコスト高で、機械がたえず拡大された規模で導入され、無人の資本が生まれる。
マルクスが述べている資本の自己止揚への傾向は、総資本の長期的な矛盾を想定したものである。それゆえに、短期の、狭い空間での、個々の企業、地域、国民社会の経営において、この矛盾がどのように不均等に現れるかについて、まったく捨象された多くの要因が見込まれるし、またさまざまな緩急が想定しうるのである。また、そうであるかぎり、この過程をもっと細かくカウントすれば、決して幸福な過程を約束するものでもあるまい。
しかし、もし機械の導入が最高度に発展してくると、人間が直接労働から切り離され、ますます一般的な知力、自然理解力、社会体を運営するマネジメント能力を持つ方向へ導かれざるをえない。このことは、個々の企業が無政府的に競争しあった過去の時代を卒業させ、生産過程の主作用因であることをやめさせ、生産過程と並んで現れるところの高度に管理的な主体として人間を発展させるから、まさしく社会的個体を鍛え上げるに違いない。
それは、本稿でとりあげた「労働(労働一般)」概念の発生、発展、死滅の最後の段階の到来である。もし労働が富の源泉であることが終わり、したがって労働時間が富の価値を測る尺度であることをやめてしまえば、生きた人間に残されるのは、人間の活動Tätigkeitの再評価、金に収れんする労働とは区別される諸活動の意味の開放へつながりうる。
このことは労働から活動への人間の能産性の転換にとどまらない。人称世界もまた変わるのだ。商品経済ではつねに私人化と差別化によって人称関係は無人称的、物象的力によって疎外されてきたが、労働が活動へ転換するにともない、三人称を含む巨大な共同体をつくる足がかりになりうる(「ビートルズ革命の世界史的意味」拙著『坊っちゃんの世界史像』本の泉社、2024年所収)。これは興味深い主題である。
おわりに
本稿は、かなり思い切って、哲学上の言語論的転回にまつわる議論を異次元へ投げ込んでみた。これは、いわゆる言語論的転回の先に想定されるテーマをより可視的にしてみたいと考えた、ささやかな結果である。まだ、ほんの試論的な域を出るものではない。多くの手つかずの論点を残しているのだが、それらについてはまた別の機会に論じることにしよう。(本稿はもともと『市民科学通信』第61号、2025年6月28日所収の拙稿「言語発生論について」を改題、加筆したものである)。
『一望荒野』2025年9月号 第2号
◆「河上肇と夏目漱石の個人主義の差異について」
はじめに
河上肇(1879~1946)ファンは多い。河上はとても求道的である。ある意味宗教的なほどだ。しかも、彼は同時に科学的な真理探究におおいに尽くしたのである。だから、この求道性と学問性の二つの関係には凄味がある。そういう点が、万事合理主義のいまどきの学者にはない魅力である。このエッセイでは、河上の個人主義論を考える。そして、そのうえで夏目漱石の個人主義論を加味して、比べてみたい。
1.「日本独特の国家主義」(1911年)にみる個人主義の評価
日本には天賦人権は存在せず、国賦人権である。ゆえに、天賦国権、国賦人権であるというのが河上の悲痛な日本人権論である。天賦国権とは「天が国家権力を与えた」という意味である。天とは、神や仏にも近い絶対の自然である。その絶対の自然が国家権力を与えたのであるから、もう逆らいようがないわけである。明治憲法(1889年公布)には、人は生まれながら権利をもつのではなく、国家あるいは天皇が定めた憲法によって汝臣民に恵んでやるぞよ、という位置づけであった。
大逆事件(1910~1911)は、幸徳秋水らが天皇陛下を殺害しようという計画をもっていたと国家権力がでっちあげ、秋水自身は何の関与もなかったにもかかわらず、「無政府共産」を唱えているから秋水が関与したに違いないという調書を作成して、死刑にまでいたらしめたという、言論、思想弾圧事件である。
これに憤慨した河上は、明治憲法より大逆事件までの経過をみて、自由民権運動(1874~1890)は根づかなかったどころか、反対に否定され、こけにされ、ただ国家主義だけが残ったというふうに見ていた。
4節で河上は「日本の国家主義と西洋の個人主義」を論じる。西洋では個人は目的であり、国家は手段である。しかるに、日本では個人は目的ではなく国家の手段にすぎない。
と、こう論じる以上、河上が西洋個人主義を高く評価し、そこから見て、日本の個人主義の欠如を嘆いていることは明白である。河上の言い分をまとめるなら、西洋=天賦人権=民賦国権=個人主義=民主主義、日本=天賦国権=国賦人権=反個人主義=反民主主義。なお、いうまでもないが、西洋の天賦人権説とは、イギリス17世紀のT・ホッブズやJ・ロックの市民革命思想を指している。
2.個人主義と社会主義の関係
日本はかように国家主義であるから、とうぜんのこと個人主義は斥けられる。そして、ここからが河上の自説展開である。伏線として、幸徳秋水とはごくふつうの庶民からみれば、『帝国主義』(1901)、『社会主義神髄』(1903)を書いた過激な思想家であった。しかし、河上は、そうしたぶっ飛んだ過激思想家が処刑されたのであって、一般庶民には関係がないというふうなものの見方を許さないのである。
というのも、河上の見るところ、秋水の処刑は社会主義者にたいする脅しであるだけではない。もっと広範な問題、もっと深い問題、日本社会の人権状況に突き刺さるような本質的な問題なのである。
「一見する時は国家主義と社会主義とはその性質相近似し、共に彼の個人主義と対峙するものの如く見ゆ。何となれば、かのいわゆる社会主義なるものは、一切の土地資本を公有となしすべての産業を公営となすべしと主張するものにて、いかにも個人主義と相容れざるがごとくなればなり。しかしながら、かくのごときは真に外形上の事なり。即ちその精神に至っては、いわゆる社会主義なるもの全く個人主義の上に立脚するものにほかならず。その土地資本を公有にし一切産業を公営にすべしというは、その事が国家のために必要なるがゆえにあらずして、まったく各個人のために必要なるが故にほかならず。即ちその根本の精神、本来の出発点、最後の立脚地は依然としてあくまでも個人主義なり」(『河上肇評論集』48頁)。
すなわち、その精神において見れば、個人主義=反国家主義=社会主義である。この「精神」が肝心である。実際自由民権運動の代表的思想家たる中江兆民のすすめた「自由」を通って秋水は出現した。とすれば、自由民権の個人主義と秋水の反国家主義と社会主義は陸続きであろう。
歴史段階で見れば、個人主義は17世紀の産物である。社会主義は19世紀以来の新思想である。それらは異なる時代の異なる思想のごとく見える。だが、「その精神において見れば」、社会主義は個人主義の実現のための手段である。河上の社会主義論は、だから、「個人主義に立脚せる産業公有論そのもの」(同、49頁)なのである。
河上は、こういう具合に個人主義の価値をきわめて高く評価し、それこそが社会主義を求めさせるものとした。しかし、大逆事件のでっち上げが示したように、日本は個人主義と社会主義とを許さない。ぎゃくに国家主義者は神としてまつられる。その証拠に、松陰神社(萩市)や伊藤公神社(光市)があるではないか。河上は山口市出身なので、郷土の神様がみな国家主義者であることを知っていたのである。
3.社会学者戸田貞三にたいする河上の反発
戸田貞三(1887~1955)という社会学者がいる。戸田の指導を受けたものは喜多野清一は当然としても、清水幾太郎、服部之総がおり、日高六郎も末弟にあたる。だから、師の思想と弟子とは区別されねばならない。その戸田に対して河上は追録で採りあげていて面白い。「戸田貞三博士は、西洋を以って主我主義の国となし日本を以って没我主義の国となし、この点に彼我民族性の差異ありと論ぜられた」。しかし、この「没我主義」は、河上の行論に沿って正確にいえば、国家に個人が対するときに「没我」となることを指しており、本質は「国家主義」である。ゆに、個人主義がない日本では個人主義から帰結する自治がない。官治あるのみとなる。国家有為の人物たれ、人の健康を祝するにも、なお邦家のためにこれを慶すといえり。国家々々、「ともかくも国家主義は現代日本の民衆的一般的信仰なり」(同、65頁)。
この時点で戸田の「没我主義」は、西洋の主我主義向かう前段と位置づけられたかどうか、不明である。「没我主義」を西洋と異なる日本的美徳と持ち上げた可能性もある。社会学者にはよくあるタイプだが、良い意味でも悪い意味でも実証主義的で、時局にYESともNOとも言わない。幸い戸田は積極的にファシズムに協力しなかったが、反対したわけでもなかった。このため、実証的には核家族論の成果をもって、戦後社会学会の設立に寄与した。悪人ではないが、まあまあの人物である。河上が戸田の「没我主義」という概念を国家主義と言い換えたことは、戸田に痛烈な反省を迫る。なぜなら、「没我主義」は西洋に対する別類型であるが、国家主義となると対立概念となるから、戸田は思想的対決を迫られることになる。あまり思想はなくても類型論をつくることはできるが、概念論をたてるためには一定の思想が必要となる。社会科学の場合、思想と科学はつきものであるが、思想には濃淡がある。この意味で、河上の学問はつねに強力な思想を背景とし、比べて戸田は思想が希薄である。戸田は、それでも日本の社会学の歴史に残った。だが、河上ほどジャンルを超えた永続性をもたない。
4.河上肇と夏目漱石はともに個人主義を高く評価するが、微妙な差異がある
河上が「日本独特の国家主義」(1911年、M44)を発表したあと、漱石(1867~1916)は「私の個人主義」(1914年、T4)という講演をおこなった。二人とも大逆事件を重大な思想弾圧事件と考えていたことは間違いない。河上が「国家々々」と言い、漱石が「国家国家といってあたかも国家に取りつかれたような真似は到底我々には出来る話でない」と揶揄するのは、明確な思想的攻撃対象をもっている点で完全に同一である。
河上が反国家主義的になればなるほど親個人主義に傾くのは当然である。同じく、漱石が「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える」(『漱石文明論集』137頁)と論じたのも同一趣旨である。
河上は、その後どんどん思想的に進化して、ついにマルクス主義に到達する。漱石はロシア革命前年に死去したが、最後まで「社会主義者と言われても平気だ」と言っていた。
しかし、二人とも、「組織の上に個人を置いてはならない」などと吹聴するようなタイプではなかった。
私自身の概念を使えば、河上のいう天賦人権の個人主義はなお<私人>に取りつかれている。その限りでは、彼の個人主義は本当の個体主義ではない。河上の「個人主義に立脚する産業公営」という語は、論理的に厳密に言えば「私人主義に立脚する産業公営」でありうるから論理矛盾を犯している。
マルクスの思想を徹底すると、西洋の天賦人権=民賦国権じたいがすでにして解放思想としては狭い。これでは、民権を守るためには国家権力が絶対必要ということになり、国家権力を地上から廃棄するという考えが出てこなくなる。わたしたちは、尖閣列島が中国のものか日本のものかといった問題を熱心に論じるばあい、歴史を調べていずれかに帰属させる根拠を探したりする。そういう研究はそれはそれとして値打ちがないとは言わない。しかし、国家というのは他の国家との境界をもつから国家であるわけだ。すると、その域内の人々は税金を納めることを承諾することにもなるし、ある地でルールを破ったら牢屋にいれられても仕方がないよねということになる。民賦国権のほうが国賦人権よりもいいということを河上は教えてくれるわけだが、そしてその論理は非常にシャープなのではあるが、どうして人々は国家というやっかいな強制機関を自分の方からつくってしまうのか、という自由の問題が残ってしまわないか。だから、河上の言う民賦国権は、強制を自分でつくりだすという背離を含んでいるように思われる。「日本独特の国家主義」は好きになれないが、西洋の国家だって「西洋独特の国家主義」を生み出す種を隠している。
東西を問わず、およそ一切の国家主義の種を剪定し、国家(国民国家)の廃棄まで進めようとすれば、もう一段「個人主義」という用語をきびしく分析して、国家をつくりだすような個人主義(民賦国権)ともはや国家を必要としないような個人主義を別物として設定しないといけない。それを私は、私人と個体という二つの対抗的概念として整理している。だが、「日本独特の国家主義」を書いた時点の河上は、扱っている問題がなにせ大逆事件への批判だから、そこまではいかなかった(行く必要がなかった)。
にもかかわらず、河上が「その精神において」個人主義は素敵なものだという点を擁護したことに私たちは感動する。
ところで河上が扱ったのと同一の問題を同じく「個人主義」という概念で分析した人がいる。それはかの夏目漱石(1867~1916)であった。1914年学習院補仁会でやった講演「私の個人主義」が、河上の個人主義と比べてどういう位置にあるかにおおいに興味がある。漱石はロンドン留学中に、ホッブズ以来の西洋個人主義を読破した。そこから「自己実現」というのが西洋文明の原動力になっていることをつきとめた。ところが、文明が発展すると「自己実現」がうまくいかなくなる。万人の自己実現ができなくなるのは、誰かが「利己実現」しているからではないかと思い至る。漱石は自分なりに言葉を模索して「自己self」と「利己ego」は混同されることが多いけれども、別のものであり、むしろ対抗するものであることをこの講演以前に見抜くようになっていた。それどころか、「利己」と「自己」の対抗という考えをもとにいろいろな小説も書いた。
利己主義者は金力と権力を手元に集めることに倦むことがない。しかし、金力と権力から締め出される多数の人びとは「自己実現」できなくなる。「自己実現」から始まったはずの文明が「自己実現」を否定する、これこそが「文明のパラドクス」だと見た。
漱石の「個人主義」(1914)はゆえに金力と権力に抵抗するような個人主義の推奨である。この意味で、万人の自己実現の希求であるから、「利己主義」ではなく「個体主義」であると言いかえても間違いではない。
河上肇と夏目漱石は、いずれも個人主義なしには社会主義はないという点では同じであり、戦後の思想家たちで言えば、水田洋さん、内田義彦さん、平田清明さんなどにきわめて近い。
本題へもどるなら、1911年の「日本独特の国家主義」の河上と1914年の漱石を比べたらどういうことが言えるかだ。河上の個人主義は、西洋国家への賞賛が強すぎるように思える。もちろん、「日本独特の国家主義」批判のための方便として西洋社会を導入しただけなので、河上が西洋に心酔するような人だったかというと必ずしもそうではないし、ますます後になると西洋のことを容赦なく批判するようになるけれども、この時点での二人の個人主義を対比してみよう。
そもそも河上のいう「日本独特の国家主義」がいったいなにゆえに出現するか、なぜかくも強靭なのか、どうして天皇制的資本主義がこの列島を覆ってしまったのか、幸徳秋水をでっちあげで殺すような国家をどうして多くの日本人はポカンと受け入れているのか、というところまで考えていくと、西洋の国家は天賦人権だから好い、というのでは済まされないと思う。なぜなら1911年の時点で、西洋諸国は傍若無人の植民地主義を世界中にばらまいている。中国侵略(1840年)、インド侵略、南ア侵略などがおこなわれた。これに誘われて日本も日清、日露戦争で植民地主義を模倣する。ここから「日本独特の国家主義」が現れたのだ。だから、すでにこの時点で西洋国家は天賦人権でよいが、日本は国賦人権だから悪い、というだけで済むのか、という疑問が消えない。植民地主義という点で言えば、西洋も日本も変わらない。ただ天賦人権の植民地主義(西洋)と国賦人権の植民地主義(日本)がある。
漱石は、1914年よりも前に「利己(私人)」と「自己(個体)」という二つの概念を区別し、その葛藤を凝視していたと先に言った。たとえば『それから』(1909年)を参照すればよくおわかりになろう。漱石が個体の自己実現という思想にもとづいて社会を見ており、また、彼の死後に出現したロシア・マルクス主義を断固斥ける骨格を十分に具備していたという点で、私は河上への共感を惜しむものではないが、漱石の個人主義の深さ(それは西洋社会の賃労働批判に届いていた)になにやら底知れぬ慧眼を感じる。
というのは、漱石の個人主義というのは、「自分で考え自分でやる」ということなのだ。それは為政者が命じ国民がついていく、とか、資本家が構想し労働者が実行する,
言い換えると「人に使われる」(扱き使うも、使うも本質は変わらない)、つまり偉い人が考えて他の人が従うということを一切許さないのである。応用すれば、前衛が考えて後衛がついていくということも拒否するだろう。
もしも漱石の個人主義を真剣に受け止めるなら、万人が「自分で考え自分でやる」というところまで行くほかはない。そうなれば、日本の国家、西洋の国家どころではなく、およそ一切の「金力権力本位の社会」とことごとく対決する。考えて見たまえ、この地上にあるのは「金力権力本位の社会」に違いない。こういう社会にたいして「自己本位」を対置するのが漱石の個人主義なのだ。お金に媚びず頼らず、また権力にも媚びず頼らない。常識から見てそれは不可能に見える。だから、誰もそれができるとか、やろうじゃないかとは言わないものなのだ。常識と思想の境界線はここにある。
もし地球のすべての人たちが実際的に漱石の個人主義を身につければ、ある意味では河上肇の「国家主義批判」以上に遠大なところまで到達できる。
漱石の社会イメージははるかに常人にわかりやすく、かつ身体化されており、ずっとラジカルであると言えるかもしれない。私自身の感じでは、幸徳秋水の「無政府共産anarchistic communism」は庶民から見てまだまだ固い。河上の個人主義はロジカルだがすこし狭い。漱石の個人主義は、もっと柔らかくて、もっと広々としている上に、二人以上にラジカルである。
おわりに
漱石の講演「私の個人主義」をその場で拝聴した主催者のなかには、学習院関係の貴族もいた。だが、かれらは、漱石の講演にたいして危険さを感じず、それどころか「このくらいならまあいいんじゃないかね」と感想をもらしたそうだ。そう思わせるには思わせるだけの周到な構成があったわけだが、おそらく漱石はこの感想を聞いたら「ざまあみやがれ」と膝を叩いただろう。世の中が見えている、慧眼であるということは、決して派手な、エキセントリックなものではない。もっと穏やかで、もっと地に足がついた、いぶし銀のものである。
私は、河上肇という人、また夏目漱石という人を、いずれもおおいに敬愛する。かれらの個人主義への傾倒は素晴らしい。ただ、ほんの微妙な差異はある、と申し上げたのである。
創刊号
◆「自分を探っていくと言葉に行き着く そこから世界へ広がる
ことができる」
自分というのは、不思議なものだ。たとえば、自分には何か名前がある。太郎とか花子だ。私は太郎だ。私は花子だ。でも、名前は親から名付けられたものである。つまり、君が君である根拠は、実は君の外,たいていは親にある。ところで親が名付けるとしたら、親は日本の伝統内部にあるから、漢字やひらがなで名前をつける。もともとの音の日本語の原型は「やまとことば」という。もともと「やまと」という生活の単位は昔になればなるほどなかっただろう。九州と近畿と東北はべつべつで、あまり関係はないし、「やまとことば」という統一原語があったとはいえない。だが、奈良に古代の中心ができたから大和盆地の豪族の下で残されていたことばを「やまとことば」の頂点へもってきたのであろうと思う。だが、「やまとことば」は音だけであったから文字を知らない。そこで口語を残すばあいに、漢字をつかった。文字を漢の時代にできた漢字から輸入したのである。いや、輸入というよりも、漢字をしっている大陸系の人々が渡来人として流れ込んでいた。別段国境もないから「輸入品」ではなかった。あらゆるものは流れつき、流れでたのだ。もともと人民は別々の国民ではなく、もっと自由に入り混じるカオスのようなものだったろう。
表記の上で、漢字だけでは読みにくいので、「やまとことば」に合わせてひらがな、カタカナをつくった。万葉集でも、土佐日記、古今和歌集でも、平家物語でも、すべてがひらがなによる「自分の分身」の表現である。
「ゆたかな自分」というのは、ただ突っ立っていてできるものではない。けっきょく自己の「分身」をたくさん生み出すこと、それが表現である。別段はっきりした「自己」というものがあるわけではない。むしろ、表現してみて、言葉や音を外に出してみて、そのあとで、自分が何かがわかる。まだ喋れない赤ちゃんが、「あ〜」と腹が減って思わず声を出してしまったとしよう。すると親が「あらまあ、お腹が空いたのね」と言って近づいてくる。それで初めて赤ちゃんは「そうか、あ〜と言ったらミルクをくれるんだ」と自分を理解するようになる。もう少し進むと「あ〜」じゃなくて「ママ」「パパ」で呼ぶようになる。外からもらった言語で自分を外なる「分身」に変えて押し出す。外化する。無表情で座っていても、他人には何が何だかわからない。ところが外に出すと世界は反応するのだから、面白いんだ。大学にはゼミという場がある。ゼミで何か言えば、喋る自分、音を外に出す自分をつくりだすのである。
3世紀以降長らく中国を先生と見立ててきた日本だが、19世紀(明治)以降は先生は西洋であるというふうに、方針を大転換した。これまで長い間お世話になった中国や朝鮮という偉大な先生が、あまり役立たないし、強くもないと言うことで見かぎり、挨拶もせず、むしろ、唾を吐きかけたり、殴ったり、殺したりした。恩知らずも甚だしい。
けれども、これによって漢字まで捨てたわけではないし、派生した平がな、カタカナも使っているから、日本人の自我の基底に漢字文化がある。
しかし、明治以来西洋化を進めると、英語が流入するから、それをカタカナ表記して取り込んだ。テレビ、ラジオ、エアコン、スマホ、マクド、ミスドなどは、西洋から来たので漢字表記ではなく、カタカナにした。中国はテレビを「電子台」というふうに漢字化した。
ここから見て日本人の自我(つまり君と僕のSelf)は、音の土台に「やまとことば」を置き、表記の土台に漢字、ひらがな、カタカナをいれた。これだけで十分東西からもらったもので自分の言語構造ができているから、東西へ開いていくこともできるわけだ。今はそれでも間に合わないから、SDGs、GPSなども、原語のまま練り込んでいる。「空気が読めない」をわざわざKYと言ったリするのは英語化の一環だろうか。
ともあれ、僕らの自我は、トータルで見ると、かたや中国、こなた西洋からできている。そうやって、いわば四方八方へ広がるようにできている。
こんな自我の持ち主はそうは多くない。何故こういうことが起きたか?日本は地理的にたまたまアジアの東の端にある。また、太平洋の西の終わるところにある。だから、東西二つの文明が出会うところに日本が位置していた。これを便利に使って、世界の交通が頻繁になるにつれて、揉まれた。暖流と寒流の出会うところの魚が美味いように、日本人は文化的に美味いのだ。 揉まれたときに、ひどく間違ったこともしてしまった。人をたくさん殺した。けれども反省も含めて頑張れば、美味しい魚は世界のために役立つかもしれない。この国の人々は努力次第で世界史的な人間、つまり、集団エゴイズムにとらわれることなく、どこまでも世界を丸く生きていく主体になれるんじゃないかと思う。いわば日本の多層的文化こそが平和大使になる資格を与えてくれる。
自動翻訳機やAIの技術で、世界平和を目指す方向は世界の誰にでもいずれは可能になるにちがいないであろうが、取り分けて日本はすでにその好条件が揃っている。これは世界的にみて珍しい。東洋と西洋の境目にあって、どちらにでも行けて、どちらの発想や思考をも理解できる人々はそう滅多にいない。あまり知らないが、トルコとか国境近くのメキシコ人とかが御同輩かもしれない。言語だけじゃない。もっと素晴らしい遺産としてあるのは日本国憲法第9条である。しかも、条文だけじゃなくて、先祖代々の成り立ちからして、平和な未来に向かって人々の仲介役になれるのはこういう境界線上の私たちなのだ。だから、西洋人とも東洋人ともうんと仲良しに生きていけたらいい。間違っとりますか?
『一望荒野』2025年8月号 創刊号
◆「コンピテンスについて━「理想的発話状況」の現実化」
竹内 真澄
はじめに
世界が間違っているのは、少し勉強すればわかることである。漱石も「間違ったる世の中」と言い切った。いま、戦争、環境破壊、人の格差、人間性の劣化などが起こって、間違っていることはますます明白になってきている。だが、間違ったる世の中はたとえどれほど間違っていてもなかなか変わらない。何故か。それは間違ったる世の中それ自体が固有の権力Macht(金力とゲヴァルト)をもつからである。すなわち、権力は富とゲヴァルトによって価値観の体系を構成し、自己を物質的、精神的に正当化できるので、この世を間違ったる世の中であると見なす者を、妄想者、変人、異端、魔女などとして排除することができる。
それだけではない。権力は、その力によって少数の抵抗者をも予防的に消滅させることができる。一見するだけでは見えない社会制度は網目のように広がっている。権力は、それらの制度、つまり会社、学校、マスコミ、病院、家族、大通り、路地に浸透するので、一人一人の個別者Einzelneの内面は白昼堂々の操作対象となるのだ。
学問は、このような事態を<物象化された世界/物象化された意識の循環>として捉えることはできるが、これじたいがあまり生産的なやり方ではない。
社会心理学とか社会意識論が、あまり流行らなくなった現代的理由は、世界にはそれを支える意識がつきものであるというトートロジーしか教えないからだろう。これでは悪い世の中には悪い意識が対応する、ということしか言えない。「悪い世の中」と「悪い意識」が対応することは自明だから、両方を同時に変えるべきだということにはなるが、人間は自己意識の強い動物だから、どうしても「悪い意識を捨てよう」という片方に比重のかかった貧弱な答えしか出てこない。それならば、自己啓発書のほうが手っ取り早いのだから、比較優位の結果、社会心理学は衰退したのだと私は思う。
ルカーチとハイデガーが物象化Verdinglichungという現象をめぐって酷似した問題圏にあったという指摘(Lucien Goldmann 1973,Jochen Hörish,1985)は、おそらく専門家にとっては疑いなく正しいものであるだろう。けれども、二人の哲学者は、あまりにも「意識の物象化」にこだわりすぎて、問題を矮小化したように思われる。
「意識」を問題にしはじめると、けっきょくのところ、「われ思う、ゆえにわれあり」というデカルト的な「意識哲学」の引力に引き戻されてしまう。たとえ、「われ」を「われわれ」に置きかえたり、集団(組織論)を導入し「われ集団に組織される、ゆえにわれあり」と言い換えたとしても、また意識を「死に臨む存在」に向き合わせたとしても、所詮は「意識」が存在の帰結であり、存在の憑き物であることに変わりはない。ゆえに、豆乳(構造)の上皮(意識)にすぎない湯葉をかき回しても、「意識」に「別の意識」を対置したり、上皮に介入することしかできず、存在そのものの仕組みを問い直すことはなかなか容易でない。
あらためていうのもおこがましいけれども、哲学者たちは頭でものごとを考える癖のある人なので、「意識」の意識改革という結論しか教えない。しかし、意識改革なんぞではなくて田をつくるところから物事をつかまなければ、存在の秘密に迫ることはできまい。ひところ流行った「想像力imagination」、つまり不在の何ものかを表象する力に期待する試みも、「田をつくること」から離れるならば、それなりの限界を持つように見えて仕方がない(三木清(1897-1945)『構想力の論理』1939も同じような問題をはらんでいるのではないか)。
では、何を考察するのがよいのかと言えば、意識ではなくて、コンピテンス(後天的能力)ではないかと思われる。この世ではこの世の意識が対応するとしても、より根本的なことは、この世にはこの世のコンピテンスが対応するのだ。それゆえ本稿はこのコンピテンスについて考察してみたい。
1.どうしてコンピテンスが問題になるのか
コンピテンスは、意識するsich Bewusstsein werdenではなく、遂行するleisten力である。遂行能力というのは、外界にたいして働きかける能力であって、遂行能力の範囲は意識に比べてずっと広い。だから、大円が遂行能力で、その中に納まる小円を労働能力とみなすことにしよう。人や物からなる外界に働きかける遂行能力のうち、とくに自然に働きかける力を労働能力という。労働能力は遂行能力の中核である。
原始社会や無文字社でも労働は営々と行われてきた。アジアの段々畑、イギリスのアラン島の石垣で囲われた昆布を撒いた畑などをみると、人間の(無言でもできる)労働に脱帽する。そういう労働の蓄積の上に築かれた生活環境の上に乗って、私たちは、書いたり、語ったり、デモ行進したり、その他いろいろな活動をする。さらなる遂行能力はこの環境に乗って積み重ねられるのである。
もう一度概念を整理すれば、遂行能力(コンピテンス)というのは、労働能力(外界に働きかける人間の力)とコミュニケーション能力(人と人が相互に働きかける力)の総和だと言ってもよい。ともにある場で何かを遂行する人々は、労働しながら、自然に互いに語り合う。二つを基軸に据えることができるだろう。遂行能力は、したがって、労働能力とコミュニケーション的能力の間の相関の中で発展するものだとみてよいだろう。
たとえば、ハーバーマスは歴史貫通的な次元でコミュニケーション能力を分析した(Habaermas,1971)。歴史貫通的というのは、すこし言いすぎかもしれないが、近代に真善美が整理されて以降は、みな発話し行為する主体になったという見方をさす。その際、発話し行為する諸主体の理想を「理想的発話状況」と彼は呼んだ。彼の分析を読んで思う。当時の彼の批判理論の構想では、目の前の現実が悪い現実かどうかを判断する基準が「理想的発話状況」である。重要なことは、この理想は、勝手に持ち込まれた外在的基準ではなく、すべての人が先取りし、前提にせざるをえない絶対的基準だということである。つまり、人を騙そうとしている人でも、討論は無意味であると考えている人でも、言葉に不信感を持つ人でも、ひたたび言語共同体に属するかぎり、コミュニケーションを通じて真理、道徳、誠実の何たるかに関するコンセンサスをつくることができる目的(テロス)を捨てることができないのである。男社会で抑圧された女性に腹の底から発言してもらえば、男社会の仕組みは変わる。いまだ「理想的発話状況」になく、いろいろ気を使って女性は自由にものが言えない。家父長的男性だって、目的を自分も前提にしている。実際にはこの目的に触れたがらず、そっと隠しているわけである。けれども「理想」を隠すということは、それがあるからなのだ。
2.アーペルという人のこと
ハーバーマスは、「理想的発話状況」の理念をK.O.アーペル(1922-2017)に負うている。アーペルはすでに1960年代末に「コミュニケーション的共同体」というアプリオリな超越論的前提について考察していた。そして、この共同体を倫理基準とするならば、そこから一切の非対称的な関係は廃止されねばならないというところまで、つまり社会制度のことまで論じたのであった。
ある意味では溜飲のさがる議論である。いわゆる正統派マルクス主義あるいはソ連型社会主義が現に存在し、国家権力を握っていた頃に、学問は歩みを止めることなく進んでいた。イメージで言うと、田を作ることは労働能力に依存している。マルクスから労働を取り出すことは正当だが、労働だけを取り出すことは正当ではない。ソビエト・マルクス主義は、労働以外の活動を取り上げるべき時期に正当にそれを取り上げなかった。人間は田を作り、米を食べる。しかしそれだけではなくて、互いに語り合い、また真善美を求めあう存在なのだ。
ゆえにこれら二つの能力を正当に位置づけることは、哲学にとって避けられない課題となった。それは戦後国際政治が、GDP競争だけに血道をあげるのではなく、管理された国際秩序を維持するために互いに語り合う人間的能力をますます必要としたからでもあった。
哲学は時代に求められる理論的課題を模索すれば、おそらく二つの道しか残されていなかった。一つは、近代世界システム論、もう一つはコミュニケーション論である。
近代世界システム論は、主権国家間の協調が世界市場の競争によって脅かされるという警告である。たとえ一国規模の「社会主義」という主権国家が出現したとしても、近代は終わらないし、極限までに考えてすべての国が個々にいわゆる「社会主義国家」になったとしても、近代世界システムは存立し続けると論じた(Wallerstein,1967)。
コミュニケーション論またはコミュニケーション的能力は、多少なりとも非対称的人間関係(階級、人種、ジェンダー、従属国家など)が残っているばあい、なぜそれが「悪」であると言えるのかの根拠を示した。
これら二つの理論的遺産が冷戦期にジワジワと準備されたことによって、なぜ20世紀のあちこちの革命運動にもかかわらず非人間的な状況が再生産されているのかという点と、この非人間的な状況をなんらかの歯の浮くような偽の正義によってではなく、ある規範的基準に即して内在的に、自信をもって変えることができるのか、という問題にそれなりの回答がえられた。
いま、コミュニケーション的共同体の系列の議論(アーペルはそれの起源にいる)を辿るとき、コンピテンス論は歴史のなかですこしずつ豊かに開化する変動的な次元で語られたとすれば、アーペルとハーバーマスに共通しているのは、理想/現実、言語共同体/資本主義、理想的発話状況/歪められたコミュニケーション、生活世界/システムなどという二項対立的な理論構成であった。コンピテンス論は、いきなり超越論的に高みからものごとを論じるわけではなく、現実=資本主義=歪められたコミュニケーションが息苦しいものとして感受されればされるほど、二項対立の反射としてくっきり現れた項目だったと言える。
一般に能力論というものは、「なにかをやればできる」論である。コミュニケーション的能力について言っても、万人に発話し行為する能力があるならば、二項対立のうちの後項を問題化し、変える力があるはずだという暗黙の前提をふくんでいる。しかし、ふつうに考えてみればわかることであるが、たとえば「理想的発話状況」、つまり一切の縛りなく、腹の底から言いたいことを言えたら、きっと合意が成り立つはずだ、という素敵なアイデアは「もの申すことが抑圧されている現実がある」ということを照らすが、それでも照らすだけではまだまだ、特殊歴史的な現実を現実的に否定することはできない。それは、たんなる労働過程一般を考察したからと言って価値増殖過程という現実を否定できものではないのと同じことである。
ゆえに、問題は、「理想」を「現実的な理想」へ加工することである。語られるコンピテンスが現に目の前にある特殊歴史的な社会において、どのような内容的制約をうけるか。また、その特殊歴史的な内容制約は、当の特殊歴史的な社会の変化の中で従来の制約をどう脱皮するか、しかもそのうえで「現実的な理想」が「現実的現実」をいかにして凌駕するのか、これを論じる必要がある。
私の考えでは、アーペルもハーバーマスも、規範的基準を言い当てることに精力を集中したために、コンピテンス論もまた「たんなる理想」に終わっている。「たんなる理想」が特殊歴史的な次元での「現実的な理想」に育ち、現実的なコンピテンスに具体化されるまでどういう曲折と対抗をたどるものかをより緻密に考える余地がある。
3.コンピテンスとビルドゥングス・コスト
アーペルとハーバーマスの研究を踏まえて本稿が言いたいことは、かれらがたんなる理想/現実的な理想、という二項対立をまだ考察の外に残していることである。
前稿(「権力について」市民科学通信5月号所収)で私は、事柄には分析的にみて3つの次元があると述べておいた。つまり、①歴史貫通的なもの②特殊歴史的なものによって制約された歴史貫通的なもの③特殊歴史的なもの、という三次元である。実際は②と③の二重性として物事は定在する。だからといって、①が不要ではない。すでにおわかりと思うが、アーペルとハーバーマスの理論構成には②が抜けているのである。
②が抜けるとはどういうことか。コンピテンスとの関係で言えば、絶えず賃金がコストとして最小化されるという特殊歴史的な圧力があるなかで、ビルドゥング・コストは最小化されるのであるが、これによってコンピテンス、すなわち<労働能力とコミュニケーション能力の総体>は、絶えず秩序再生産的にか、または委縮した再生産へ切り詰められる。
すると、「理想的発話状況」なり「言語共同体」のもつ可能性は、まだひどく抽象的なままだから、「現実的な理想」へ向かって増殖するどころか、かえって現実のコスト最小化の圧力のもとで開花できないところへ追い詰められるであろう。
だから②の次元での分析は、「理想」を「現実的な理想」へ鍛えるうえで不可欠のものである。ここでどういうふうに考えるかについて、いろいろなアイデアがあってよいと思うのだが、私見ではアーペルとハーバーマスには賃金論、つまりビルドゥングス・コスト論をつけ足して考えていかなければならないのだ。
言語哲学者に対して「賃金論」をうんぬんするのは唐突な感じを与えると思うけれども、人間の自己形成を主題とするばあい、②はコンピテンスとビルドゥングス・コストが衝突する場面である。だから、この場面を扱うことができなければ、「理想的発話状況」は素晴らしい着想ではあるが、やはり絵に画いた餅にとどまってしまう、それはよろしくない。
おわりに
コンピテンスがどのように内容的に制約されるかを考える場合、私人→部分的個人→機械の付属物という論理(MEW,Bd.23)が参考になる。これは労働力の要素から見たコンピテンスである。コンピテンスを構成するもう一つの要素はコミュニケーション能力であるが、これは労働力に還元されないが、無関係でもない。労働能力もコミュニケーション能力もいずれも賃金の大枠に制約されるからだ。(1)労働能力が低減し、コミュニケーション力も引き下げられる場合、(2)労働能力は低減し、コミュニケーション能力は上がる場合、(3)労働能力は上昇し、コミュニケーション力が引き下げられる場合、(4)労働能力もコミュニケーション能力もともに上昇する場合。
アーペルとハーバーマスの「理想」が「現実的な理想」になるのは、ビルドゥング・コストの理論と突き合せたばあい、(4)のケースである。では(4)が可能になるのは、いかなる現代資本主義の動向においてであるのか。これは、なかなかあり得ない状況だが、可能性はゼロではない。簡単にこたえられる問題ではないが、直観的にわかるのは、新自由主義においては、(1)が基調となって、(2)(3)が不均等なばらつきをもって起こるのではあるまいか。いずれのばあいも現実の働く人々は自信をもつことはなかなかできないだろう。
だからこそ難しい課題がクリアーに見えてくる。つまり(4)は、不可能ではないが、理論的実践および社会的実践にその多くがゆだねられる本質的領域である。この領域の可能性を増やすにはどう言うことをすればいいのだろう。そのことを研究していくことによって、哲学に触発された社会学の理論もまたすこしずつ先へすすんでいける。それがぼくが思っている投企的見通しだ。
(たけうち ますみ)




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