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月刊『一望荒野』毎月25日に   論考とエッセイを出版。

更新日:11月27日

  • 誌名は、幸徳秋水『兆民先生』(岩波文庫、1960)緒言から得ています。

    「想起す 去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて荼毘に附するや、ときまさに

    初冬、一望荒野(いちぼうこうや)、風つよく草枯れ、満目惨凄(まんもくさんせい)として万感胸にたたえ、去らんと欲して去らず、悄然車にまかせて還る。」(6頁)

     兆民先生は1901年12月13日に満54歳で死去、このとき秋水は30歳であった。思いもよらないことであっただろうが、秋水はまったく無実であったにもかかわらず、国家のでっちあげで処刑される。兆民先生を見送ってわずか10年足らずであった。



『一望荒野』2025年11月号 第4号


É・デュルケムの植民地主義 その歴史意識と論理構造

キーワード:デュルケム,社会学,植民地主義,経済,社会

 

 

はじめに

E・デュルケム(仏  1858-1917)は,フランス社会学の第二世代(第一世代はA・コント)を代表するとともに,現代社会学にたいして直接の基磯を与えた人物である1)。19世紀社会学との関係で見ると,彼はコントから実証主義を受け継ぐ一方で,スペンサーに対してはきわめて批判的であった。コントが社会学を「社会静学」と「社会動学」に分けたことは,前著(『社会学の起源』2015)で紹介したとおりである。コントは,「静学」で家族秩序に合わせて個人と産業社会の双方がどういうふうに社会的秩序にたいして貢献するかを論じ,また,フランス革命以降の知識の変動が神学,形而上学を通過して実証主義へ進むと考えた。最後の知の形態は当然産業社会を求めさせるものである。デュルケムはコント社会学のこうした静動の二部構成を 19世紀末から20世紀の新たな状況に適応させた。後で詳しく述べるよう


1)  『社会学の起源』で私は,経済人が織りなす機械的な領域とは区別される,有機体的な領域にコントが強い関心をもつことを論じた(同143頁)。デュルケムは,コントの経済/社会という構想を受け継いでいることは明らかである。


 

に,デュルケムは「静学」にしたがって,ある秩序の内的編成に関心をもつとともに,「動学」にしたがって,産業社会が新しい秩序への移行することを解明したといえる。産業社会の新しい秩序は,旧秩序を否定しながら出てこなくてはならない。それゆえデュルケムは,旧秩序の代弁者であったスペンサーを徹底的に攻撃したのである。

したがってこの点から見ると,デュルケムは,ホブハウスとウェーバーとともに社会学の第二世代と言われるけれども,それはたんに年齢的に同世代だということではない。もっと内容的な意味で次の世代なのだ。すなわち,第一世代が産業社会の秩序の秘密を解明したのに対して,次の世代は自由放任的資本主義から国家介入的資本主義への「産業社会」の転換をするどく読み取り,その後の社会学に対して打ち消すことのできない新パラダイムを提供した。新パラダイムの特徴は,「社会というものの決定的な諸特徴は主観的な性質のものである」2)という点に関わる。ホブハウスのマインド,デュルケムの道徳,ウェーバーの精神は,すべてここに述べた「転換」に直面したことから出てきた。おそらくは3者の真の敵はマルクスだったのであって,かれらはマルクスを一種のタダモノ論的に理解したために,社会が物質的生産から説明されるべきではなく,社会の成員が抱く「主観的な性質」から説明されるべきだということを異様な情熱で力説した。現代社会学が,マルクス社会理論から物質的秩序という思想を取り込み,社会学の伝統から象徴的秩序という思想を取り込んで折衷しているのは,それじたいが非常に興味深い現象である。本章では,互いに他を刺激するとともに,緊張関係をなすふたつの秩序という思想の一端が,まさしくデュルケムからもらい受けたもの


2)  スチュアート・ヒューズ,生松敬三,荒川幾男訳『意識と社会 ヨーロッパ社会思想 1890-1930』みすず書房,1970年,192頁。社会がその構成員の主観的なものに負うているという着眼は,見ようによっては,古代以来のすべての社会観に見いだされる。しかし,第二世代社会学者の洞察は,いずれも産業資本主義から国家介入的資本主義への転換に促がされたものである。かれらは主観的なものをどこへ向かうやら訳の分からない要素とするのではなくて,新しい秩序の固有の次元として定着させることにおおいに貢献した。


であることを探求しよう。

デュルケムは,比較的穏やかな学究生活を送ったが,おそらくユダヤ人であることから受ける差別や窮屈を知っていた。ユダヤ教において聖職者は世襲であるが,彼が学者をめざしたのは,こうした慣例を抜け出すことを意味する。「分業が発展するためには・・人間が世襲の桎梏から解放されねばならない」というのは,ユダヤ教の支配下にあった低級社会(環節社会)から高級社会(組織社会)への移行の中にまさに自分自身を位置づけた命題であり,決して他人事ではなかった。社会学とは,社会(秩序と変動)の中に個人を位置づけることである。デュルケム自身,社会学上古典とみなされる有名な著作をたくさん書いた。残された業績の数々は,いずれも開拓者的な業績であるが,どの著作にも一貫した考え方が貫かれていた。それは,個人が社会的であるというのは,社会が成員たる個人を排出するからだという考え方である。この考えに立つと,利己主義の極や利他主義の極は,いずれも個人が健全に社会化される様式を逸脱した病理である。デュルケムはこの意味において後にパーソンズが作った用語「制度化された個人主義」3)の社会学者であった。

だが,断固とした文章と深遠な生の深みに達する彼の筆力は,彼の穏やかな暮らしのなかに浸透してくる「社会的なもの」への豊かなセンスを感じさせる。コントの系譜に立つ彼は実証主義的な社会学を育てた人であるとの評価が高い。けれども,彼の実証主義は,たんに物事の機能を論じるだけの,冷たくデータ的な圧力のことではない。データが人間にとってどういう意味


3)  「制度化された個人主義」という用語は,T・パーソンズがデュルケムの思想を要約したものである。パーソンズによれば「近代社会に現れつつあるパターンは制度化された個人主義 institutionalised individualism である。このパターンの初期の定義者は,有機的連帯の概念に関連してデュルケムであった。有機的連帯とは,異なる個人や集団が異なる機能を果たす分化した社会を指す。その成員は同時に,社会への忠誠と市民としての相互の絆という共通の紐帯によって統合されている。」Leon  H.  Mayhew  ed.  Talcott  Parsons  on  institution  and  social evolution,  selected writings, Univ. of Chicago Press,1982,pp.328-329.


をもつかということを彼はいつでも重視した。「われわれが人類に愛着し,また愛着しなければならぬ理由は,人類がこのようにして実現されつつある一個の社会であり,われわれがこの社会に連帯的であるからである」4)。この言葉にあるように,社会と自分をつねに不即不離にとらえる迫力は社会学者の本分であるから当たり前であるけれども,その透徹程度は他の追随を許さないほどである。本章は,デュルケム社会学を第二世代のフランス的特徴を最もするどく体現した人として,できるだけ構造的に考察することを課題とする。

1.         個人史

1858年4月14日デュルケムはフランス北東部の都市エピナルのユダヤ人のラビ(律法学者)の家の父母(モーゼとメラニー)の5人兄弟の末っ子として生まれた5)。この地は伝統的にカトリックが多く,プロテスタントやユダヤ教徒はあとから流入した。とりわけユダヤ人はゲットーに集まって暮らしたが,虐待と攻撃をうけた。若いデュルケムも肩身の狭い思いで世間をみつめていた。1870年に普仏戦争がおこり,エピナルにプロシア軍が入ってきた。同年第二帝政が崩壊した直後民衆は第三共和制を宣言した。フランス敗北後のフランクフルト講和条約は領土割譲と多額の賠償を認めたもので,支配階級の裏切りであった。このため1871年民衆は蜂起して,パリ・コミューンを樹立し,72日間市民が首都を自治都市とした。これは国軍によって鎮圧されたとは言え,共和制の性格をより進歩的なものへ変化させた。第三共和制のもとで王党派を排除した安定したブルジョア政権がつくられ,このもとで産業化,都市化が進行すると同時に社会問題も激化した。


4)  Emile Durkheim, De la division du travail social, p.401,田原音和訳『社会分業論』青木書店,1971年,388頁。以下,必要に応じてDT と略記する。

5)  Marcel Fournier, t ranslated by David Macey, Émile Durkheim a biography,

Polity Press,2013

pp.13-28.以下,伝記による場合はM.Fournier,ED と略記する。


エミールはラビを継ぐ気持ちはなかったので,1876年パリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に入るためにパリに出た。一浪の末高等師範に合格した。卒業後,サンスのリセ(高等中学校)の哲学の教師になれた。高等師範の同級生にはJ・ジョレス,A・ベルクソン,A・ブルトンら錚々たる人がいた。ここに滞在した3年のあいだにデュルケムは社会問題に関心を持ち,社会学を学び始めた。1881年にH・スペンサー,A・コント,A・トクヴィルを読んだ。この頃からは哲学者に関心をもち,Ch.ルヌヴィエ(1815-1903)の「全体は部分の総和に等しくない」という命題とともに「連帯」という概念に大きな感銘をうけた6)。

1886年,休職許可をとって彼はドイツ旅行へ出発した(1886年1月~8月)。様々な観察のうちにはむろん博士論文の執筆が含まれていた。「個人と社会」という抽象化されたタイトルの背後に,個人主義と社会主義という具体的なテーマが隠れていた。だからドイツの大学で講壇社会主義やマルクスの文献に出会った。後に書きのこしたものによると彼はマルクスを科学としては認めず,ただ時代の願望の代弁として,その限りでの社会的事実として観察したにすぎない。ドイツには,その時代の西欧がそうであるように,自由放任学派と講壇社会主義の対立があった。デュルケムは講壇社会主義に近い立場から,A・シェフレ(1831-1903)を発見した。シェフレはドイツの社会有機体説を代表する経済学者であり,社会学者とも言えた。彼はシェフレを擁護する立場から「社会は『市民の算術的総和』に還元できない」と論じた7)。

ドイツ旅行は決して無駄ではなかった。彼は,自由放任論にも国家主義にも満足できなかった。いわば第三の道を追求した。第三の道とは,人びとの慣習,行動,世論が道徳性をもつという考え方である。それを彼は「社会的連帯」と呼んだ。帰国後1887年ボルドー大学でフランス初の「社会学(社

                                           

6)ED., pp.39-42. 

7)ibid., p.81.


会科学と教育学)」講座を担当した。1893年に博士論文をもとに初の大著『社会分業論』および『社会主義論』を出版した。翌年,ユダヤ人将校が無実の罪を着せられるドレフュス事件がおこったので,救援活動をおこなった。『社会学的方法の規準』1895,『自殺論』1897,そののち,1902年にはソルボンヌ大学に移籍して「教育科学講座」を担当した。そして,フランスにおける社会学と人類学の雑誌『社会学年報』を1898年に発刊した。モースの影響をうけながら書いた『宗教生活の原初形態』を1912に刊行した。処女作『社会分業論』には,もともと現代社会論として読めるが,そこには高級社会(組織的社会)を低級社会(環節的社会)と比較する試みがすでになされていた。今日,現代社会を扱う社会学と非文明社会を扱う人類学は学問上の分業にしたがって別物となっているが,デュルケムはその分岐の現場に立ち会い,二つの科学を創始した人物なのである。これだけの大きな仕事を果たしたその年に,フランスは事実上モロッコを植民地化した。また,彼は第一次大戦において共和国への愛国主義ゆえに対独戦争を熱烈に支持した。戦争はデュルケムの多くの教え子を犠牲にしたばかりか,息子を奪った。この悲しみのただなかで,1917年に脳溢血のため死去した。モンパルナスのユダヤ人区画に葬られた8)。

2.     『社会分業論』1893について

ある程度物事に通じている人は,分業について,A・スミスやマルクスの「分業」ないし「社会的分業」という概念を知っているであろう。これは,農業と商工業のような職業分化のことであって,相互に商品交換によって媒介されたものである9)。では,社会分業De la division du travail socialというデュルケムの概念は,これと同じものなのだろうか。この問いは,実は第


8)ibid., p.722.É·Durkheim, L’Allemagne au-dessus de tout:La mentalité allemande et la guerre, Revue de Métaphysique et de Morale,Vo.23,1915.


二世代の社会学の誕生の必然性を考察するうえで避けられない。言いかえれば,この点の理解がデュルケムの社会学を理解するうえで決定的に重要である。スミスの「分業division of labor」やマルクスの「社会的分業Division du travail dans la société」とも似て非なるものである。すなわち,スミスやマルクスなど,政治経済学者の考えている「社会的分業」は,デュルケムからすればたんなる「経済的分業」にすぎない。どこが違うかというと,

「経済的分業」のばあい,その担い手の間に特別な集合意識は不要である。担い手たちは,交換による利益(スミス)や能力の一面性(マルクス)によっていわば無意識につながりあっている。これにたいしてデュルケムの言う,固有の意味での「社会分業」というのは,たんに社会の中に様々な職業分化が並列的に存在するという意味ではまったくない。

すなわち政治経済学の「分業」と社会学の「分業」は,言葉は同じでも,集合意識(共同意識)のないものとあるものとの好対照をなしているのだ。このことをデュルケムは「同じ社会の成員たちの平均に共通な諸信念と諸感情の総体は,固有の生命をもつ一定の体系を形成する。これを集合意識または共同意識 la conscianscience collective ou commune とよぶことができる」10)と述べている。

お互いが仲間意識をもって,連帯して互いに結び合おうという,非孤立的な努力を払って,一体化し,一体性の意識をもつ「社会的労働travail social」の分割が「社会分業」なのである。

しかし,政治経済学の強みは,この無意識的な分業こそが「見えざる手」によって経済を絶えず調整してくれるという発見であった。とすれば,なぜ,デュルケムは分業の識別にあえて集合意識を結びつけるのか,が問われる。デュルケムの分業論は社会科学史上の後退ではない。むしろ,デュルケムはしばしばものごとを誇張して,イギリスには「経済的分業」しかないが,フランスには「社会分業」があるなどと言うほど,


9)A. Simith, Wealth of Nations, 1776,K.Marx,Das Kapital, 1867.                                                          

10)Emile Durkheim,DT., p.40,同80頁。


この点を重視していた11)。

そうすると,デュルケムの場合,固有に「社会的なもの」とか「道徳的なもの」とは,人々をただお金目当てのためや商売上相手を一時的に利用するだけで良しとするような,利己主義の動機でつながりあうような「水臭い」関係ではなく,一緒に仕事をしていくために,君はそこをやってくれ,ぼくはこちらをやるから,というふうな有機的な仕事の分割をこそ指すものだということになる。しかも,それは小さい家族から,工場,果ては国民経済にまで達する集合意識をまとわねばならないのである。

しかしながら,フランスに限らず,どこの国の発展した資本主義でも見られることだが,資本家,地主,小経営者,労働者など実に多様な利害に分かれて,生き馬の目を抜くような,抜け目のない活力で生きているような人々はあまりにも多く見られる。実際,スペンサーの社会学においては,社会とは経済と同じものであった。だから,デュルケムはスペンサーに対して非常に批判的であり、攻撃的である。デュルケムのみるところスペンサーにおいては「要するに社会とは,諸個人がその生産物を交換しあっている関係状態たるのみであって,経済外の本来社会的な作用がこの交換 échangeを規制するようなことは一切ない」12)のである。スペンサーの言う「自発的協同voluntary cooperation」とは,個別的な個人が私利のためにつながりあっている状態


11)   DT.,   pp.266-267,同272-273頁。「とりわけある社会では,環節的類型がなおきわめて顕著であるにもかかわらず,ある分業,なかんずく経済的分業が非常に発達しているばあいがある。イギリスのばあいがそうであるようだ」。デュルケムがイギリスの分業の状態にたいして下すこの皮肉は,われわれがイギリスこそ異質異種分業の社会であることを知っているからこそ,またこの国がA・スミス,H・スペンサー,J.S.ミルを生んだ国であることを知っているがゆえに,環節的類型の語感と著しく相容れない印象をもつ。しかし,ここにはデュルケムがイギリスに対してもっているイメージが関わっている。というのもイギリスはいずれも利己心の交換次元しか扱ってこなかったために,デュルケムはこのことにたいしていら立ちを示しているわけである。英仏のこの対比は,デュルケムが二つの国の帝国主義=植民地主義の基本的性格をしばしば「残酷な帝国主義」(イギリス)と「優しい帝国主義」(フランス)として考えるところまで達する。そのかぎりでフランス帝国主義に対する批判は弱まる。

12)   DT., p.180,同199頁。


のことであった。スペンサーの『社会静学』1851の想定していた社会の均衡もまた,デュルケムから見ると「社会のない経済」にすぎない。

いったい「社会学」という同一看板で研究しているスペンサーとデュルケムが,どういう理由で社会学の定義において相容れないか,ということについては,まとめて後述するが,先取りして結論じみたことを言っておくならば,要するに,資本主義そのものがもはや「見えざる手」でやっていけないところまで来ている,という発見がデュルケムの社会学の背景にある。だから,社会とは何かという定義が根本的に対立しあうのは,二人の生きた時代の違いから生まれているのである。およそ,学説の変化や発展というものは,こうした時代の違いからくることが多い。したがって,思想史的な比較を抜きに,社会とは何かという定義自体を対比しても,空虚な空中戦に終わる。生産的な学説史では,このような形而上学的な考察を避けることが賢明である。なぜA氏がa説を言い,B氏がb説を述べたかをその発生史的根拠から考え,社会学の更新の理由を合理的に説明できなくてはならないのである。

スペンサーが「社会有機体」のなかで賞賛した人口増と分業の発展も同じである。それは,デュルケムの目をとおして見ると「正常」なものとは言い難い。なぜなら皆がエゴイストであり,共有する道徳などどこにもないからだ。そのような社会は,むしろ「病理」であり,「異常」なものなのである。社会学には他の社会科学とは異なって規範normeという重要な概念がある。デュルケムの著作に頻出するこの用語は,正常か異常かという判断と密接にかかわっている。社会の規範normeを構成員がしっかりと共有しているばあい,その社会は正常なnormal社会である13)。

                                           

13)   Ibid.,   pp.596-620,『社会分業論』第1版序論,訳421頁.統計的平均は基準が一元的で,多数が正常で,少数が異常の場合である。これはいわば共時的な軸で考えた場合のことである。しかし社会を観察する場合,共時的な考察だけでは足りない。というのは社会はたえず変化するからだ。ゆえに通時的な軸で正常を判断しなければならない。第一に社会が進化すれば,社会的平均そのものが動くか。まさに,デュルケム『社会分業論』が問うのはこの正常/異常なのである。彼によれば,「経済という集合生活の全領域は,その大半が規範的準則régleの作用をまぬがれてしまうような結果に終わっている。」具体的には①商工業恐慌と倒産,②労資の階級対立とストライキ,③科学が専門化しすぎて統一性を失っていること,をデュルケムは「病理」だとみていた。「経済界の悲惨な光景が呈する,あのたえまなく繰り返される闘争やあらゆる種類の無秩序がよってきたるべきところは,まさにこのアノミー(無規制)状態である。というのは,たがいに対峙している諸力を抑制するものも,それらに守るべき限界を指示するものも,いずれもまったく欠けているので,これらの力は際限なく伸びていこうとするし,互いに激突して,圧しあい,つぶしてしまうことになるからである。いうまでもなく,ついには最強者が最弱者を圧しつぶしてしまうか従属させてしまう結果となる」



ら,正常類型もまた違ったものへ移る。だから,その社会が幼児期,成人期,老人期のどこにあるかを調べる必要がある。第二に,そのうえでもなお一定の正常類型に信を置けない場合がある。それは健康状態の特徴が衰退と形成の入れ替わりの時期にある場合だ。過去の健康状態は壊れたのに,新しい変化に適応した健康状態がまだ固まりきってない場合,何が正常かをきめるのは簡単ではない。デュルケムは,新道徳は過去の道徳が果たしたのと同じ機能を代わって遂行しなければならないのだから,その代行を果たしえない間は正常とは言えないとみている。新旧道徳の機能の比較によって,正常か異常かを判定するというのがデュルケムの研究態度であった。しかも,かれはまだこれでも正常類型が完成度に達したか否かは確かではないと述べている。このように。共時的な判断と通時的な判断を社会状況に応じて使い分けるのがデュルケムのやり方であった。道徳的秩序に敏感な科学を樹立するために,こうした工夫が模索されたのである。



アノミーとは a-nomie,すなわちa-normalから転じたもので,正常の否定,異常である。もとは古代ギリシア語の a-nomos,法なき状態に由来するが,『社会分業論』で初めて使われ,次に『社会主義論』で使われ,『自殺論』で決定的に有名になった。


失せた状態,つまり異常のことだ。むろん,個人の場合だけでなく,現在の経済の状態もまた,彼の社会学からみれば「異常」である。目の前の現実をどういうものとして特徴づけるかというのは,科学としての社会学にとってとても重要な点である。よく私たちは「ふつう」ということを重んじる。

「ふつうに学校へ行って,会社に勤めるようになる」と言う。だから大量にみられる,標準的な現象を「ふつう」と呼ぶ。ここで,日常語の「ふつう」は,正常というニュアンスを含んでいる。しかし,デュルケムは,たとえ大量に,標準的にみられる現象であったとしても,それらの全体が異常であり,病理だと言えるものはあるとみている。社会学は,このように常識人とは異なる形で,正常/異常を弁別できる学問である。しかし,この判断基準は独断ではないのかという疑問をもたれる人がいるだろう。実証主義といいながら勝手な独断で学問をつくってもらっては困る。ところが,デュルケムはきちんと根拠を準備している。

では『社会分業論』は,いったいどういう手続きによって正常/異常を弁別したのであろうか。それは,けっきょくのところ,経済は異常であり,社会が正常だという,彼自身の全体社会(経済/社会の区別と全体)観によるものである。デュルケムは,後続の少なからぬ社会学者が共有している「経済と社会」という区別を非常にクリアーに提出した。第二世代の社会学者,ホブハウス,デュルケム,ウェーバーに共通するのは,先行するスペンサーに代表されるような自由放任主義の考え方からいかに脱却できるかという課題であった。スペンサーは『社会静学』『社会学原理』などを書いて19世紀を席巻した人であるが,彼の言う社会とは経済のことであった。なぜなら,スペンサーは利己主義が社会をつくる力をもつと信じて疑わなかったからだ。

 ところが,利己主義を放任することは,18世紀以来健全ものであり,解放的ですらあったのだが,19世紀後半の西洋では,反対に様々な社会問題の原因となるものとみなされた。そうなると,社会学の根底には常に「エゴイズム問題」の告発という関心が隠れているのである。

 図式的に整理すれば,(1)利己主義の基礎には私的所有があるから,私的所有を維持するためにも利己主義を否定すべきではない。(2)私的所有は,いまや万病のもとであり,利己主義とともに廃止するしかない。これが社会主義である。これらとは違って(3)利己主義はすぐれて道徳や倫理の問題であるから,私的所有の廃止までいかなくても,なんとか道徳の再建で資本主義の秩序を維持できるという立場ができる。19世紀末の西欧にはこれら三つの考え方ができあがっていた。

 第二世代の社会学者たち(ホブハウス,デュルケム,ウェーバー)は,濃淡の差を含みつつ(3)を共有する。ここに,旧自由主義でもなく社会主義とも異なる,学問としての社会学の思想的立場をかなりはっきりと言い当てることができる。だから,どれほど,科学性を自称しても,社会学は両極の中間にあるから,完全にイデオロギーから自由であることはできないのである。

 デュルケムはこの中間的立場を概念化するうえで最も鮮明に「経済と社会」という区別を打ち出した。社会学者は第二世代以降,経済という領域から区別された「社会」に重大な関心をもっている。経済はエゴイズムの領域である。これにたいして社会は,経済とは違って反あるいは非エゴイズムの領域である。この経済/社会という構図は,もしもこの区別が成り立たなければ,社会学が成り立たないほど重要な意味をもつ。なぜならば,社会学は私的所有と市場を,外見上いかに強く非難しても,社会主義ほど断固としてそれを廃棄するとは言わないが,社会主義が過剰に出てくるときには個人の自由が失われてはならないというかたちでブルジョア社会を擁護するからである。

 だから,「経済と社会」という区別は,経済と社会が対立するという意味を含むけれども,経済と社会を相互補完的に考えるということでもある。この意味で『社会分業論』は,新しい社会学を定礎したのだ。


 デュルケムに代表されるように,社会学者が共通に考えているのは,経済というのはエゴイズムの領域だという断定である。これにたいして,社会はずっと多義的なものである。その多義性をどう把握するかは社会学者によって様々であるが,デュルケムの場合,社会は経済の外側にあって,まったく対照的な法則に従っている。つまり,経済/社会は,エゴイズム/非エゴイズム,没規範的/規範的,非道徳的/道徳的な二つの別個の領域なのである。

ここでちょっとしたエピソードをさしはさみたい。私が2000年にヴェトナムのホー・チミン市に行ったとき,ある女性社会学者と話をする機会があった。ヴェトナムは社会主義国である。そういうお国柄でいったいどういう人が社会学を研究しているだろうかと私は強い関心をもった。彼女は環境社会学の専門家だった。当時街を歩くと夥しい量のモーターバイクで道路は埋め尽くされている。ライダーは皆サングラスとマスクをつけているし,歩行者もマスクをつけていた。政府はドイモイという経済開発路線をとっている。モータリゼーションはその一環である。彼女は,経済開発の裏で起こっている環境破壊を研究しているのであった。ヴェトナムで社会学者として生きていくのには知恵がいる。政府のすすめるドイモイと彼女の社会学は,対立とまではいかないかもしれないが,ある緊張をおびていると私は思った。日本では福武直(1917-1989)という社会学者が,政府の「経済開発」にたいして「社会開発」という用語を立てて,バランスのある日本社会の発展の在り方を呼びかけたことがあり,彼女はそれを連想させた。話が終わって,別れ際に私は「あなたの社会学の理論ベースにあるのは誰ですか」と尋ねた。すると,「デュルケムです」と即答した。「経済と社会」という区別は,ヴェトナムの地でこういうふうに生きているのかと私は感動を禁じえなかった。

 もとに戻る。デュルケムによれば,無政府的な経済競争は,異常な状態である。このような異常を停めるためには,「市場に逆らう国家State against Market」が成立しない限り,無理であろう。


 そういう意味で,『社会分業論』のデュルケムは,集合意識=共同意識=道徳意識を人々が正常に持つようになれば,こうした病理を直すことは可能だと考えるのである。逆に言えば,デュルケムは,現在無規制のまま放置されている経済はいずれは規制(réglementation)されるべきであるという。では,誰が,どうやって規制するのか。デュルケムは「規範的準則」「道徳的準則」が,と応える。

このあたりが,私のような者からすると,デュルケム社会学がなんだか非常にもどかしい,中途半端なところである。つまり,誰がそれをやるのかということを彼は指し示さないのである。誰でもよい,誰かが社会の要請をみたすべきだということになる。あまりに道学者的である。それでも仮にデュルケムの言い分を認めるとして,ではどうやって「道徳意識」を変えるのか。「経済的機能は,いまや大多数の市民を吸収しつくしているがゆえに・・・諸個人の生活の最大部分がいっさいの道徳からの影響を受けないままでうちすぎてゆくからである」16)と彼は言う。まったく非道徳的な人びとが支配的な状況で,いったいどうやって経済的アノミーを是正できるのか,という疑問を誰しも感じるだろう。

だが,いったいどうやって(ハウツー)という問題はいわば入口の問題に過ぎない。もっと本質的な問題がある。それは,なぜという点にかかわる。デュルケムはいろいろな利害関係者を観察して皆アノミー(無規範状態)に陥っていると言う。ここでデュルケムに問いかけたい。しからば,市民が皆無規範化しているというのに,なぜあなただけは規範的なのか,なぜあなたはアノミーを免れえているのか。なぜ,異常の外に出ることができたのか。人々は,デュルケムの言う「病理」をまるで「正常」であると思っている かのうように生きているとデュルケムは言う。ではなぜ,社会学者たるデュルケムだけが大衆の感覚と真逆の感受性をもちうるのか。私は,この感受性


14)Ibid., p.28,同2頁。

15)ここに「アノミーanomie」という『自殺論』で有名なあの概念がすでに使われていることに注意してほしい。アノミーというのは,ふつうの辞書には載っていない。デュルケムの造語である。類語はanomalieで,変則とか異常をさす。アノミーは道徳的なアナーキー,規範的なものがまったく消え

16)   DT, p.Ⅳ,同第二版序文,3頁。アノミーはしばしばアナーキーと互換的である。


を彼がどうやって獲得したのか,それを知りたいし,知らなくてはデュルケムを学者として根元から把握できないように思う。

 『社会分業論』は素晴らしい本である。それは経済とは異なる社会という領域を世界で初めて定礎した。だが,私からするととても大きな謎がある。

『社会分業論』は,彼の判断基準を前提にしておいて,機械的連帯よりも有機的連帯が優越することや異常な分業と正常な分業について実に「客観的」に叙述しているのである。ところが,この「客観的」記述が本当はおおいにクセモノである。いったい何が正常で,何が異常であると,誰が決めるのか。なぜデュルケムは物事の正常/異常を決める権利をもつのか。しかも,学問がいまや科学の名において,言い換えれば実証主義を逸脱せずに善悪を決める権限を持つというのだ。その判断基準の根拠は何か。これは統計で応え得る問題ではない。数が多ければ正常と言えない何ものかをデュルケムは心に密かに抱いていることは間違いない。ところが「密かな規準」が『社会分業論』では覆い隠されている17)。私の考えでは,彼の判断基準が何かを知るためには,『社会分業論』と同年に出た『社会主義論』を見なくてはならない。そこにおいて,デュルケムは自分の判断基準を赤裸々に語ったのである。


17)   第1版序文問題において,正常と異常をどのように根拠づけるうるか,検討している。それを要言すれば,①正常/異常は社会類型ごとに異なること,②ある社会(類型)で平均的なものは正常であり,平均から逸脱すれば異常である。さらに,③正常/異常は,その社会の年齢(幼児,成人,老人)におうじて変動する。

④急激な社会変動が起こると,古い健康状態は廃れ,新しい健康状態が未形成ということが起こるが,この場合も過去のデータと比較して平均的な正常さが機能するのと同じように新しい健康状態が機能すると言えるならば正常と言える。デュルケムのこうした実証主義にもとづく正常/異常の基準論は『社会学的方法の規準』でも再論される。筆者はよくわからないが,規範的なものを統計やデータで根拠づけるというのがデュルケムの立場なのであるが,これが果たして可能なのか,いまひとつ説得的でないように見える。デュルケム的な見地からすれば,完全雇用を規範として失業率を見てはならないことになるが,そうであろうか。交通事故死や戦死者の数は例年並みであれば正常なのか。けっきょくこうしたことは,個人の生命の重みをどう考えるかということに帰着する。デュルケムは広い意味では個人主義に肯定的であるが,データ処理過程では個人論を一切使わない。これが私の違和感のもとにある。


       

3.     『社会主義論』1895

 デュルケムは1886年にベルリンに旅行にでかけた。そこで講壇社会主義,マルクスの文献,ドイツ社会民主党の活動を見た。社会学は社会主義理論とは別のものである。だが,第二世代の社会学者たちは,その違いを常に正確に描こうとした。デュルケムも,この時の成果を1895年に大著『社会主義』として出版した。

 この本で,彼はサン=シモン(1760-1825)からヨーロッパ全体に広がる多種多様な社会主義を見て,それらの共通点をまとめた。

 第一に,すべての社会主義教義は,例外なく,現在の経済機能の分散状態に抗議し,その転換を,突然に,あるいは漸進的に求めている。経済的分散とは,①個別企業が互いに独立していて,なんら共通の道徳的目標をもたないということ,および,②経済を構成しているのは「交換者」であって,彼らは国家(中央規制機関)が定期的に立ち入ることのできない特別の領域を形成している。

第二に,社会主義とは,経済機能の拡散した状態を組織化された状態へと,突然あるいは徐々に移行させる傾向である。この意味で,社会主義とは,多かれ少なかれ,「経済力の社会化」を目指すものである。

まとめて言えば,「社会主義は・・・現に拡散的である経済的諸機能のすべて,あるいはそのうちの若干を,社会の指導的意識的・中枢部に結合しようとするすべての説」を意味する。

 さて,このようなデュルケムの要約は一見してわかるとおり、必ずしも独創的ではない。ここでは触れないが、経済は無政府的であるが、国家は計画的であるという社会主義観はそれじたいが近代主義的な公私二元論の枠内にあって、きわめて俗流的なものである。しかし,デュルケムの底意に気づかねばならない。とくに『社会分業論』との関係で言うと,デュルケムは決して社会主義者ではないが,そうであるにもかかわらず,ヨーロッパに蔓延しつつある社会主義を公私二元論の延長上で自分の道徳主義に利用したいと思っていた節がある。デュルケムからすれば,社会主義者は「経済機能の分散」を「経済力の社会化」に置き換えようとしているのである。社会主義は「社会の指導的中枢部」すなわち国家によって経済を制御するという思想だとデュルケムは見た18)。

 これはデュルケムから見ると人々の規範形成力,あるいは「規範的規制」「道徳的規制」の必要を捉えていない。社会主義国家を建設するとか,私的所有を廃止するというのは,あまりにも制度に頼るものである。だが,本当に大切なのはまさにこの道徳的な問題次元なのだ。だからデュルケムは「このような革命は,深遠な道徳的変革なしには起こりえないことを,私たちは今や理解している。経済生活の社会化とは,経済生活の中で依然として優勢を占めている個人的で利己的な目的を,真に社会的で,したがって道徳的な目的に従属させることを意味する」と力説した。

 デュルケムは,自らは社会主義者でもないのに,どうして『社会主義論』

                                          

18)   デュルケムの社会主義観は,基本的に市場/国家,私的領域/公的領域という,いわゆる近代の二元論の枠組内部で考えられている。二元論の枠組み内では,市場が強ければ国家が弱まり,国家が強ければ市場が弱まる。こうした理解自体が,社会主義を近代主義的に理解している証拠である。20世紀マルクス主義の自己理解でも,社会主義とは国家による無政府性の廃止である。ゆえに基本的にデュルケムが勝手に社会主義を歪めて理解したというわけではない。20世紀マルクス主義とデュルケムが基本的に同じような枠組みで社会主義を理解していたということが,実は本稿では批判的な対象化の素材となる。市場/国家をそれぞれ無政府性/計画性という二つのモメントでつかみ,前者に抗して後者を強化すべきだと考えるところから,理論の退廃が起こった。そもそも論に立ち返ってみた場合,マルクスの理論体系は,近代哲学における公私二元論を労資二元論によって超克するというものであった。当然,マルクスの場合は公私二元論の枠組をいかにして,誰が壊すかが理論的な問題になる。そして,マルクス自身は計画性の主体が,労働の社会化を担う労働者自身であって,「国家」ではない。国家は二義的なものだ。労働がますます直接的に社会化され共同的労働になる。とはいえ,労働の社会化はあくまでも資本のもとでの社会化にすぎないから,資本の専制を壊すことで初めて労働のコンビネーションをアソシエーションに転化させることが最大の課題である。労働を担う労働者自身が直接的に社会化された労働を自治する,という理解はマルクスの固有のものであって,その補助的道具として国家が位置づけられる。20世紀マルクス主義やデュルケムにおいて欠けていたのは,こうしたマルクス理解であった。この意味で,デュルケムは20世紀マルクス主義と同様に,マルクスを読めていない。この点で「社会的所有と民主主義」(1885)のデュルケムが「私的所有」を「個人的所有」と言い換えている点にも,マルクスの「個体的所有の再建」を読み取れなかったかれの限界が現れている。 Durkheim, E, La Socialisme,


という大著を書いたのだろうか。それは,まさに社会主義者たち自身の求めているものが,実は道徳的変革だということに無自覚であるからだ。これは,ヨーロッパの一部で流行っていた「歴史的必然」の信仰にたいして一撃を加えただろう。資本主義は必然的に社会主義に移行する,だから待っていてもそうなるという理解である。これが間違っていることをデュルケムは学問的に言いたかった。そしてこの目的を達成するために『社会主義論』を書いたのである。

 より一般化していえば,社会主義とは経済生活における無規範を是正するべきもの,経済を再規範化させるものである。経済/社会,非道徳的領域/道徳的領域の対照を概念的にはっきりさせ,そのうえで,社会が経済を指導すること,あるいは道徳が非道徳を包摂することを学問的に主張することができる。このことを言おうとしたのが彼の社会学なのだ。このように考えていくと,デュルケムは社会主義と一線を画しながら,しかも,社会主義が直面している問題の本当の回答が道徳的次元にあるのだということを学問的外観によって,客観的に高い所から見下ろすことができる。学者としてのデュルケムは,まさに社会主義が一定の現実的要素となっておればこそ,そこに別の回答を与えることができるのである。社会主義を押し上げる力を利用して,しかもそれと一線を画し,別の方向へ転轍させようという彼の野心はたいへんなものである。(以下、12月号に続く)




『一望荒野』2025年10月号 第3号

言語生成史論について    

                                竹内 真澄

 

 はじめに

 ぼくのアイデア(思いつき)の自分史をはっきりさせておきたい。ながらく社会学史を担当してきた。それは広く社会思想史的なやり方を使って、社会学という学問がどういう目的をもって生まれたのかを考察するものである。あれこれの社会学者が何を言ったかということは当然押さえるべき素材になる。けれども、A,B,C,Dの社会学者がそれぞれa.b,c,dということを言ったと要約するだけで本当に良いのだろうかという疑問が湧いてきた。

大学では、学生は至って新鮮な存在だ。社会学がいったいどういう学問かということなどふつうは知らない。聞き手はよかれあしかれアマチュアなので、プロとしてのぼくは、知ったふうなことを言う。社会学者ABCDの言説abcdを並べて、その共通性や時間的変遷を解説すれば、一応整ったかたちにはなる。世上流通している社会学入門や社会学史というのも、至って解説ふうなものや凝った作りのものはあるにしても、おおよそ名前列挙的なものが多い。だから、学史は当然のところ、誰彼があれこれのことを論じたという紹介になる。受講生は、講師が何十年も学説史をやっているのだから、特定の人物が何を書いたかについては熟知していると考える。たいていは講師の好み(学問的な重要性の恣意的判断)によって、特定の学者の特定の側面が抽象される。それを生誕時期の順に並べれば、一応社会学史と名づけてもよかろうとされている。

 たとえば、平凡な講師としてのぼくは、「マルクスは土台が上部構造を規定するということを主張しましたが、ウェーバーはある時代の観念は決して受動的なものではなく、むしろ、能動的に経済の在り方に影響をあたえるということを主張しました」というふうなことを言う。ここでぼくは単なる羅列ではなく、対象の共通性と歴史的前後関係があることに、ちょっと得意になっているのである。すなわち、社会学というのは経済と観念の相関関係を論じることができる(共通性)だけでなく、先にマルクスが説を立て、後になってそれに反発したウェーバーが異説を述べた、ということ(歴史性)をも教えることができる、と言いたいのである。

 しかし、こういうのを10年、20年とやっていると、自分は毎年毎年ある回に知ったふうなことを言うのだが、これが学生にとっていったいどういう意味を持つのだろうかという疑念をもつようになる。一般化しておこう。講師は、Aはaと論じたが、後になってBはbと言った。bはaに対する異論または批判だった、と語るとしよう。学生はこれを聞いて「うーん、これはとても重要なことを言っているぞ、経済と観念という一個のブロックを社会学部の学生は考えなきゃいけないな」と果たして思ってくれるだろうか。「思ってくれる」というのがぼくの希望的観測だったのだが、今はやや異見を持っている。確証はないが、突き放して言えば、希望は所詮希望でしかないのである。講師の信仰は思い上がりにすぎず、学生たちはつまらぬ豆知識を与えられただけではないのだろうか。要するに「経済と観念が相互作用するが、このなかで経済の規定性を強調する人と意識の能動性を評価する人の、二つの流れがある」というふうにパッケージ化してとらえて、彼らは問題をまとめてしまうかもしれない。これはおおいにありそうなことなのである。

 従来の思想史において、1950年前後から1960年代初めころのことであったが、思想史の方法についてあれこれの素材を解読してきた人々が、あらためて自分の方法とは何かについて語る実り豊かな時期があった。実際この時期の方法論議は思想史家が自分の手の内を率直に開かすという点で興味深く、今日でも参考になる。そのなかには「経済の規定性」と「思想の相対的自律性」について興味深い点が反省された。丸山眞男氏や家永三郎氏のようにマルクス主義に一定の距離をとる研究者たちは、思想の基底体制還元主義を警戒し、「相対的自律」を強調したが、「経済の規定性」を無視したわけではなかった。むろん、経済の規定性が思想の隅々まで貫いていることを論証することに思想史の本質を認めるような人、たとえば守本順一郎氏のような人もいた。氏の作品を実際読んでみると、これはこれで見事である。そうなると、思想史の方法論だけで作品の良し悪しが決まるというわけでもなさそうなのである。生きた思想を取り上げるばあい、分析家のなかで働いている方法論が微妙な匙加減と塩梅で読解を主導していくことは間違いのないことである。丸山・家永/守本は、ウェーバー/マルクスの対抗の持続を示していて、両者の対抗が個々の思想のどういう側面をどのように読み取ろうとするのか、という点まで踏み込めばそれはそれで面白い。

しかし、学部向けの社会学史でこうした方法論上の差異に触れ、その効果がいかなるところに現れるかを分析するとすれば、話が複雑すぎることになるであろう。だから、便宜上講義はとても図式的になり、豆知識的になり、つまるところは暗記しやすく、飲み込みやすいものにしてなる。またそれでよしとすべきかもしれないのである。

 現代は、それが良いことであるとは思わないけれども、コスパとタイパの時代である。どんな情報もすべては豆知識化される。豆知識のうちには「4丁目の角に素敵なフルーツサンド屋さんがオープンした」というのもある。ぼくが90分かけて教えた豆知識はこの4丁目の豆知識よりも有意味なのであろうか。むしろ、やや見劣りがするのではあるまいか。だって、ぼくの提供した豆知識は「深遠」すぎて使いようがないが、4丁目の豆知識は地下鉄に乗って店へいけばとても美味しかったという見返りがある。

 プラグマティズムの教えるところに従えば、使える知識は生きるが、使えない知識は絶える。もしそうであるならば、なにも何十年にもわたって知ったふうなかたちに定型化した講義を行ったとしても、あまり意味はなかったのかもしれない。そう思うと我ながら馬鹿丸出しだったなあとさえ思えてきてしまうのである。自虐的すぎるかもしれないが、そういう反省がますます強くなる。

 だから、「土台の規定性」「相互作用」「思想の相対的自律性」などを羅列してもたいして賢くならないといま考えている。では、どういう方向へ掘り下げていけばよいかという課題をあえて立ててみよう。

 さきほど豆知識と言ったが、豆知識そのものがもっと内容上インパクトのある、重大な、忘れられない豆知識なら生きるのではあるまいか。豆知識そのものが悪いのではなく、その内容の濃さが足りないのかもしれないのだ。たとえば、「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのは『論語』から伝わる豆知識であるが、中庸や節度を守らせる有効な知識となって、幸か不幸か、生きている。豆知識は、いくつかの文からなる小さい物語である。そこから世界を描くものだ。文は語からなる。だから、語の一つ一つを丹念にさかのぼれば、言語空間の可能性をその要素から把握できる。たとえば「個人」という語の始まりを把握できれば、旧共同体と近代社会の違いが見えてくるようになる。同様の作業を、キーワード史というピン・ポイントでやると、ぼんやりしていた語義がはっきり掴めるようになる。ピン・ポイントで言葉を押さえていくと、だらだらした記述がにわかにピリッと締まる。直観的にであったが、ぼくは2000年ごろから単語論に関心を持ち、その言葉がいつごろから使われ始めたか調べることにした。

 ちょうど職場には柳父章さんがいた。『翻訳語成立事情』1982は西洋語にはあるが日本語にはない単語(たとえば個人や社会・・・)を明治人はどうやって翻訳したかという研究であった。とても面白い本である。単語を英語と日本語で対比するだけで、西洋と日本に生きる人々がいったいどういうイメージをもって生きていたかがわかるのである。だが、ぼくは、柳父さんにおおいに刺激されながら、柳父さんがいう「個人individual」は実は私人private personであるというところまで突き詰めていないのではないかというところに不満を感じた。そのかぎりで柳父さんは近代主義的なのだ。だから、翻訳語という比較言語をやるばあいには、西洋語のルーツをもっと掘り下げておかないと、翻訳の中で何が脱落したかがわからなくなる恐れがある。個人の場合で言うと、西洋語の個人は、私人と個人というふたつの側面をもっている。私人は、共同体から独立したバラバラな存在を指し、個人は共同体から切り離しえないという意味をもともとはもっていた。ところが、私人の実在的圧力が高まるにつれて、共同体と不可分という意味は脱落し、個人はある社会の最小単位という意味になった。これは個人が、全体の中の部分であり、不可分の成員であるという意味から、ある社会の分析可能な単位に反転した例である。柳父さんの翻訳語論では、西洋における個体の私人化の経緯が触れられていなかった。そこにぼくの不満はあった。

ともあれ単語史を方法として会得していく途上で、ある意味では自然なことだったが、独語ならグリム兄弟の編さんした『ドイツ語辞典』、英語なら『オックスフォード英語辞典』、中国語なら『漢語大詞典』、日本語なら『日本語大辞典』があることが、遅まきながらわかってきた。これらはいずれも先人の膨大な、しかもまことに地味な作業を集大成したもので、いかなるジャンルの研究者の垣根も超えて、およそ言語で生活する人にとっての宝の山である。

 そこで思いついたのであるが、ある単語が特定の時期に誕生するメカニズムや、その背後にある法則性を解き明かす言語論というのを構想することができないものだろうか。グリム兄弟によるドイツ語辞典のように、各単語の初出時期を文献的に特定する研究は進んでいるし、各国語でも同様の蓄積がある。であれば、初出は何年、例文はこれこれという事実を踏まえて「なぜその単語が、その時期に、その意味を持って生まれたのか」という問いに対する統一的な法則を見出すことはできないものだろうか。この問いは自然にでてきた。 「ある意味を持つ単語がなぜその時期に発生したか」という問いは、言語学者のみならず、もっと広大な人々にとって大いに価値がある。ぼくがなかんずく考えたいのは、一種のヘゲモニー論(A・グラムシが考えた意味でのそれ)である。つまり、言語の発生と普遍化の法則に則らなければ、話は広がらないし、遺産として残らない。資本蓄積に対抗できるのは言葉の蓄積以外ではあるまい。社会は、ヴィトゲンシュタインの言う複数の言語ゲームが闘争するアリーナである。諸ゲームが互いに闘争するとき、いずれの言説が競り勝つかは、言語法則にしたがうものだといえる。なぜ、どのような言語(単語)が、どういう理由で発生するか、その変動の法則は何か、これを研究してみるということがヘゲモニー論の内実をつくるのではないか。これがひとつのアイデアである。これは、すでに誰かがどこかでやっている研究かも知れない。まして現代はグローバル化が進行するから、西洋語の非西洋への複雑な浸透過程が一方的なものではなく、受容側の一定の主体性を介して、定着する過程に関心が向かうはずである。今後こうした研究はますます発展してくると予測できるから、深遠で魅力的なテーマがそこにあるにちがいない。今後の研究の発展が待たれるもののひとつであろう。

 

1.言語論的転回について

 20世紀は哲学上の言語論的転回が大きな遺産をもたらした。従来の主観/客観というこわばった図式には多かれ少なかれ独我論solipsismがつきまとっていた。ところが、言語論的転回がひとたび起こると、おそらくは古代ギリシアで発芽し、近代において、とりわけデカルトから出発しカント(1724-1804)において完成した「独立した自立的人間einzelne Mensch」という特定の歴史的人間像が次第に、しかし決定的に古くさいものとして処理されるようになった。

 拙稿「社会・言語・移行」(『市民科学通信』第60号、2025年5月)で扱ったことだが、20世紀の哲学は独我論から共同主観性論へ転換する際に、言語を考察することをテコにした。言語論的転回が着目したのは、たとえばデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と自己反省するばあい、反省が自分一人ではつくることができない言語を前提しているというところである。これによって、「思うから、我は実在する」というのはまだ我の実在根拠として弱いのであって、実在を思い込んでいるところの自我そのものが、言語に依存していることが解明され、近代哲学(の基礎)は崩壊し始めた。

一口に言語論的転回と言っても、そこには大きく括って2種類のものがあるようにみえる。

 第一は、言語を、特定の民族的、地域的言語から抽象し、言語一般の構造を思考するものである。第二は、そのぎゃくに、特定の国民的または民族的なコミュニティの言語として思考するものである。

 ふたつのうちいずれが生産的であるかは論じるべき課題による。私にとってはまだ今後の研究プロジェクト次第だが、扱いたい言語は第一のものである。これにたいして、多文化共生とか一種のコミュニタリアニズム運動や各国語の硏究が重視するのは第二のものである。

ただし、第二の言語研究は捨てがたい。というのもおよそ社会科学というジャンルでは多くの用語が西洋起源だ。だからさしあたりは特定の国民(たとえば西洋のどこかの国)の言語からうまれた様々な概念は、西洋起源の近代社会の広がりにつれて、世界共通語へと広がっていったから、世界規模での言語体系の種差の境界を言語がどういうふうに克服していくかを考察しなくてはならない。

 これを重視する立場から見ると、言語学者の扱う言語は非常に静態的である。たとえばチョムスキーの言語論は、言語の深層と表層の変換の問題をあつかうことに関心が向いている。ゆえに、言語の共時的な構造を研究課題にしているわけである。はっきりと 時間は捨象するとも言っている。ラッセルやヴィトゲンシュタインはどうかというと、同じように言語を共時的(静態的)に考察するものが圧倒的に多い。

 したがって、社会学史から出発したぼくにとって、言語論的転回は関心のあるテーマであるけれども、これまでの言語論は圧倒的に共時的構造に関心が傾き過ぎており、共同主観の歴史的変化に関心があるぼくには物足りない。共時的構造からの独我論批判というのも限定が強すぎる。そこで、試論的に言語の時間的な、あるいは歴史的な発生の問題を考えてみたい。その素材は結構身近にある。

 

2. 言語の共時構造から通時構造へ・・・労働という言葉がなぜ生まれるか

 ぼくにとってヴィトゲンシュタインは非常に啓発的な言語論者であることは間違いない。私的言語は存在しないと言う。だが彼が言う通り、人間が世界を認識するばあいにいつでも言語が先行している、というのは正しい認識であるが、それで独我論を壊すことができる範囲は限定されているのではなかろうか。というのも問題は、毎日、毎時、毎分言語に依存して生きている私たちが、それを使用する主体であるにもかかわらず、言語が使用諸主体から離れて、あたかもひとつの生き物のごとく変化する、その動態を言語論的転回がどの程度解明したか、まだ不確かであるからだ。

 このように言語発生論に課題を設定したばあい、ヴィトゲンシュタイン、F・ソシュール、N・チョムスキー、K.O.アーペル、J.ハーバーマスらは、いずれも言語を静止状態で把握している。しかし、これらのいずれよりも強い印象を与えるのはマルクスの言語の構造的発生論(と仮に名づける)である。ぼくは、この議論をひとつの手がかりにして新旧言語ゲームの相克を射程に入れて、言語の発生史論に注目したい。

 マルクスの言語発生史論と私が呼ぶのは、よく知られた「経済学の方法」に含まれるアイデアを仮にそう名づけるにすぎない。それは『資本論草稿 1857―58年の経済学草稿』にある。少々長いが、とても重要なので引用する。

 

「富を生む活動のいずれの規定性をもすてさったのは、アダム・スミスの巨大な進歩であったーマニュファクチュア労働でもなく、商業労働でもなく、また農業労働でもないが、しかしそのどれでもあるたんなる労働〔Arbeit schlehithin〕。富を創造する活動の抽象的一般性とともに、こんどはまた富として規定される対象の一般性、生産物一般、すなわちふたたび労働一般であるが、対象化された過去の労働としての労働一般〔Arbeit überhaupt〕。この移行がどんなに困難であり、かつまた偉大なものであったかは、アダム・スミス自身が、なおときおりふたたび、重農主義に逆もどりしていることからもわかる。ところで、労働一般という言葉によって、人間が━どんな社会形態のもとであろうと━生産する者として登場するさいの、もっとも単純で、もっとも太古的な関連を表すための抽象的な表現がみいだされたかにすぎないかのように見えるかもしれない。これは一面からは正しい。他面から見れば正しくない。労働の一定種類にたいする無関心は、どんな種類の労働ももはやすべてを支配する労働ではなくなっているような、現実の労働諸種類のきわめて発展した総体を前提としている。こうしてもっとも一般的なもろもろの抽象は、一つのものが多くのものに共通のものとして現れ、すべてのものに共有されているような、もっとも豊かな具体的発展のあるばあいにだけ、一般に成立する。そのときには、ただ特殊な形態でしか考えることができないということはなくなるのである。他方では、労働一般というこの抽象は、ただ諸労働の具体的総体の精神的結果であるだけではない。一定の労働にたいする無関心は、諸個体が一つの労働から他の労働に移っていくことが容易であり、労働の一定種類は彼らにとって偶然的であり、それゆえ無関心的なものであるような社会形態に照応している。ここでは労働は、範疇においてばかりでなく、現実においても、富一般の創造のための手段として生成しており、人の身上として諸個体とある特殊性をもってむすびつくということがなくなっている。このような状態は、ブルジョア社会のもっとも近代的な定在形態━アメリカ合衆国━でもっとも発展している。したがって、「労働」、「労働一般」、たんなる労働〔Arbeit sans phrase〕といった範疇の抽象、近代経済学の出発点は、ここにおいてはじめて実際上の真実となる。」(大月版、経済学の方法、56頁)

 

 繰り返すまでもないだろうが、太古においてわが先祖たちは、魚をとりにいく、山に植物を採りに行く、種をまくなどと具体的なものを具体的なままに名づけ、遂行していたのであろう。レヴィ・ストロースは『野生の思考』1962でブリコラージュと名づけて、手元のありあわせで物を作る作業を実に細かく分類していた。

 これは未開人の「ここといま」がいかに多種多様であるかを示すものである。ところが、「ここといま」における多様性と土着性をもつ言葉は次第に淘汰されてしまう。なぜならば、商品交換の頻度が上昇してきて、ある具体的有用労働と別のそれとをどういう割合で交換するのがよいかという問題に日々人が直面するようになるとブリコラージュでは早晩限界に突き当たるからだ。個々の具体的作業にそれぞれ別々の言葉をあてがうのは、人びとが互いに隣接し、傍で見よう見まねで教えー教えられる共同体にふさわしい。ところが、商品が共同体の限界において発生すると、人びとはそうした接触の場で伝承の限界に悩み、「共通」項を求める。個別共同体のあいだの共通項を模索する、気の遠くなるような時間の堆積の結果、「労働一般」という共通の範疇が生成してくるのだとマルクスは指摘する。これによってかつての「ブリコラージュ」は淘汰されるのである。魚とり、種まき、山菜取りなどは、互いに共通する「労働」あるいは労働一般へと還元されるようになるわけだ。

 以上のマルクスの記述は、定式化して、<存在━カテゴリー━意識形態>という図式にまとめることができる。つまり人の存在が商品経済に包まれるようになると━労働一般というカテゴリーが析出されてくる━すると主体は個々の活動の具体性や些末さに無関心となり、その分だけ、関与する客体は固有の素材の質的差異を失い、貨幣の量にのみ収斂されてしまう。こうした主体―客体関係が支配的になる。マルクスは「社会的存在が意識を規定する」と論じたが、それをカテゴリーの析出を媒介して再構成すれば、社会史に対応する意識の変化を読み取ることができるようになるであろう。上記の引用でマルクスによれば、「労働一般」はまずイギリスで先行的に生まれ、古典派経済学を生み出す。そして、アメリカ合衆国で学者だけでなく、ふつうの人々の日常を動かすような、もっとも発展した、商品化した言語状況を生み出す。すなわち人々は主体側で具体的な労働の多様性に無関心になっていき、他方で客体側はますます貨幣形態に収れんするようになる。これがブルジョア社会で日々起こっている事柄なのだ。

 ここでいささか突飛だが、マルクスの「労働」カテゴリーの発生史を素材にして、20世紀のバートランド・ラッセルとヴィトゲンシュタインが発展させた分析哲学の主題を考えてみよう。ラッセルとヴィトゲンシュタインは、マルクスのような歴史的な言語発生論の視点をもたなかった、だから彼らは共時的にものを考えたので、世界と名前の静止的な関係を考察した。ゆえに真理とは、世界にどういう名前をつけるかにかかっていると彼らは考えた。それはよい。しかし、マルクスに即せば、それらの「名前」は机上で自由自在に作りだせるものではない。スミスが『国富論』で「見えざる手」のメカニズムを解明できた根拠は、様々な質的に異なる仕事が共通の第3者である「労働」に還元されるという事実にあった。「労働一般」の発生は、スミスの机上における発明ではない。古代、中世が終わって、マニュファクチャ時代が終わりの社会的生産諸力がはじめてスミスの近代経済学をつくりだしたのだ。

 この意味で、「労働」範疇の発生は近代の根本条件である。だが、もし「労働」以外の様々な単語もそれぞれに背負う歴史があるとしたら、我々が生きている社会を構成する重要「カテゴリー」は我々自身の営みのなかから、ある独特の基軸的なカテゴリーを北極星のような中心におくことで回転しているのではないだろうか。近代には近代固有の言語の星座的な体系constellationがある。そしてこの中心に「労働」が座っているとみなしてもよかろう。

 もしこういうことが言えるならば、言語論的転回を、ただ哲学上のひとつの洞察にとどめるべきではない。また哲学上の認識論偏重を存在論へ開くというような哲学固有の問題意識からも開け放って、およそわれわれが拠って立つ言語の、その都度の社会史に対応する言語ゲームの変遷史へ問題を敷衍することが必要でもあり、可能なのではあるまいか。

 そうすると、言語ゲームの構造的発生論を大掛かりに探求していくことは、新旧の言語ゲームの相克やそれをどういう立場から戦略的に活かしていくかなど、一種の文化的ヘゲモニー論の再構築にとって重大な前提作業となってくるのではないだろうか。

 マルクスは、これらの作業のうちの「労働」という根本的範疇について考察したのだが、労働概念は資本の主体的根拠となるべき用語であるから、労働━資本というセットが、近代言語体系の中心にあることを示唆したものと読める。こうした読みが可能であるならば、彼の書いたものはすべて言語の発生史論として読みなおすことができるかもしれない。たとえば、剰余価値学説史は、古典派経済学のなかで説明不可能であった、労働価値説と構成価値説のジレンマを突破するかたちで、新カテゴリー(剰余価値)を析出する過程を書いたものと考えることができる。すると、それは近代的な社会認識を近代批判の社会認識へ移行させる、言語移行論の準備なのである。共同主観性の移行を考えるばあいの礎石はこうしてマルクスによって、まだ学者の一部での変化にすぎないとしても、与えられている。

おそらく、私たちの社会を新社会へ移行させるにあたって、常に民衆の使う言語が基盤になるとすれば、ますます言語発生史論は不可欠の武器となるだろう。言語発生史がすべての学問、教育過程の基礎となって、そこから私たちの明日の社会を構想する力が根拠づけられる日が今後来るかもしれないのである。従来「ヘゲモニー論」は、狭い政治戦略上の問題として処理されすぎたきらいがある。だが、ヘゲモニー論をもっとひろげて考えてみるならば、マルクスのカテゴリー論はまったく新しい視野を開いていたというべきであろう。

 

3. 第三者der Dritteの発生について

 マルクスは、労働概念を起点とすることによって、もっと様々な別のカテゴリーについても論じているように思われる。

 それは第3者(三人称der Dritte)である。これまた商品経済と関わってのことだが、「共同体と共同体の接触から商品が生まれる」という場合、接触した時点で、共同体は互いに一種の「私的労働」になる。ゆえに、商品を生み出すのは「私的労働」であって、絶えず、私的労働は「抽象的人間労働」(これは「労働一般」という日常語をさらに学問的に抽象した言葉だ)を価値実体の一定量を含むものとして、他の「私的労働」と価値形態に入り込む。相対的価値形態と等価形態は、それ自体として見ればAとBの二者関係である。ここから、商品Aと商品Bの交換において、Aの価値実体(抽象的人間労働)は、Bの使用価値の一定量で表現されねばならない。相対的価値形態の位置にある商品Aは、等価形態の位置にある商品Bと対峙する。等価形態を担う特別の商品が次第にしぼり込まれて、A、B、C、D、E、F・・・が相対的価値形態にあって、特定の商品Xが等価形態に立つようになれば、一般商品の無限の系列がすべて一個の商品X(たとえば金)と交換されるようになる。これが貨幣の完成である。商品の無限性がたった一つの貨幣という商品のもとにへりくだるようになる。ゆえに、貨幣は特別な第三者である。商品群は第三者を除外するし、また貨幣は一般商品を排除して自己の権力を維持するようになる。AとBといった様々な商品が市場に入れ代わり立ち代わり入って来きて、商談が成立すると消費過程へ消えてゆく。ところが、こうした激しい流動の中で、貨幣だけは市場に残り続け、貨幣所有者はあれこれの寿命をもつ商品群をまるで不死鳥のように待ち、持ち手を変えて残り続ける。第3者は、この意味で超越的な審級として媒介性をもつ強力な権力なのである。

 貨幣は、この意味で、二つの異なる商品の価値実体の値踏みに公平な裁定をくだす特別な水準の権力者である。諸商品から見れば、貨幣は「公平な観察者(A・スミス)」「一般化された他者(G・H・ミード)」だから、商品たちの憧れである。しかし、この憧れの的の地位にどの商品も到達できないけれども、いずれかの商品をたえず析出しつづけなくてはならない。平等主義者である商品たちは、まことに価値対象性をもつがゆえに、権力的な貨幣を生み出すのである。

 この意味でマルクスは「価値形態論」において商品所持者AとBを扱う場合、つねに「三人の当事者drei kontrahenten」(MEW,Bd.23,S.163)を想定している。なぜ貨幣は生まれるのか。それは人々が皆「私的労働」の主体であるからだ。この主体こそ私人Einzelneである。私人は、互いに商品を所持し、市場で売ろうとする。だが、互いに自己の使用価値を欲しがる人にめぐり合うのは容易でないので、諸商品は「第3の商品dritte ware」、すなわち貨幣を群の外へ押し出す。近代民主主義とは、私人が集う民間領域が貨幣という絶対主権を析出することで、実在の国家Staatを支えるべきであるという近代神話をシンボライズするものだ。

 ひとたび「売りW-G」と「買いG―W」がスタンダードな富の交通形態になると、売買契約が成立したときに証人が法的に設定される。証人は、貨幣の支払いを強制する「一般化された他者」である。また「掛け売り」や「つけ」が行われた場合に、証文が交換の客観性を裏づけるものとして、水掛け論を仲裁する力をもつようになる。ゆえに契約には第三者の保証がつきものである。マルクスは、このように価値形態論に関わらせて「第三者(三人称)」が発生する史的理由を論じていると考えてもいいだろう。

 ぼくはもともとは森有正の三人称論からヒントをえて、社会科学の客観性の問題を考察したことがあるが、これをいまやマルクスとつなぐ道が見えてきた。各国語の歴史的研究でますます明確になっているのは、いわゆる「第三人称」がいつ頃生まれたかという研究である。諸説あるが英語では、1400年代に「彼he」が誕生し、そのごsheが生まれたという。どの地域の言語も、「これ」「それ」「あれ」という指示代名詞で会話主体の場所的限定からの距離の遠い者、あるいは不在の人物を話題にする。「彼」とは「かのひと」からの転生である。それが固定し、抽象化されて第三人称というトポスが生まれた。野口武彦の研究によれば、日本で、「彼」「彼女」は明治維新以降成立したという(野口『三人称の発見まで』筑摩書房、1994年)。また、黄興濤の研究によれば、中国で彼女を意味する「她Ta」は、五四運動(1919年)までは存在しなかった。「他」によって性別抜きに第三人称は一括されていた。だが中国の西洋化、近代化にともなって、陳独秀が中心となり、魯迅や胡適等の加わった新文化運動(雑誌『新青年』に結集した)の成果として女性の三人称は、論争の上で、普及したという(黄興濤、孫鹿訳『「她」という字の文化史 中国語女性代名詞の誕生』汲古書院、2021年)。筆者は溝口雄三他編『中国思想文化事典』(東大出版会、2001年)を閲覧したが、女子の項でもこの「かのじょ」の欠落はなんら指摘されていないから、黄の她の研究は画期的なものである。西洋から伝播した三人称は、もともと商品経済に照応するべく出現したが、日本における三人称は英語の三人称よりも400年遅れており、中国の她はsheよりも500年遅い。なぜ東アジアでは三人称の出現はなぜかくも遅れたのだろうか。商品形態と思考形態は基本的に照応するものであるが、東アジアは、それだけでは方向しか説明できない。このタイミングの遅れは、中国固有の商品経済と儒教的伝統文化の双方から説明されねばならないであろう。これは、歴史的近代を超えて、フェミニズムを含む、人類の未来にまで波及する文化的意味をもつ問題なのである。

 それはともかくとして、なぜ、目の前に現前しない第三人称を話題にするのか。前述のようにそれは、商品経済の発展とむすびついている。人と人の交際範囲がたえず広域化し、共同体で「これ」「それ」「あれ」で充分であった身体的指示が、ある臨界点で壁に阻まれた。

 だから、マルクスによる「労働」という言葉の発生と「第三人称」のカテゴリーの使用は、相互に関連しあう。商品は平等主義者なので、主体(私、君、彼/彼女)を析出する。互いに労働を交換するブルジョア社会が徐々に日常の範型として生成する過程でぼくたちは「私」に気づき、「君」に気づき、そしてついに「彼/彼女」を必要にするようになる。

 その後の歴史を辿れば明らかであるが、「労働」と「人称的世界」が紡ぎ出されると、私たちは「貨幣」を求め、また「売れる商品」を求め、人生に「有用性」を求め、機能的合理主義を「ラショナル」な思考とするようになる。これは、ポジティブな意味を持つ。しかし、その反対側で「崇高なもの」「形而上学的なもの」「ユートピア」の崩壊をもたらすことになる。すなわち、功利主義的な人生観が一般化すればするほど、いったい「私」は何のために生きているのだろうか。ただ、じぶんのためにだけ生きているのだろうか。もしそうだとすれば、何の愛もなく、ただじぶんのためにいき、死んでしまうことほど恐ろしく、寂しい人生はないのではあるまいか。「だれかのために本気で一途につくしてみたい」。そうした苦悩が台頭しもする。だが、功利主義の支配はこうした願望を拒絶するのである。

ある意味ではもう手遅れなのだ。功利主義の蔓延は止められない。このように、このまま進めば進むほど、社会は一種のニヒリズムに蝕まれていくであろう。

経済体制としての資本主義は宿痾のようにニヒリズムを生み出す。これは富をどう処分すべきかという狭い問題設定の中での経済体制論を超えて、生の意味と世界観にまで及ぶ考察を刺激するであろう。

 ここでふたたび「労働一般」というカテゴリーと「人称的世界」の成立は何であり、人にとってどういう意味をもつものであったかが再検討される。「労働」と「人称」の成立は、たしかに商品―資本体制の産物だが、それはただ資本主義のイデオロギーに人が巻き込まれたというだけのことだったのだろうか。ある意味で無駄なことをしていたのだろうか。このことを問うてみたい。

 私たちは、まだもっともっと発展するであろう、商品経済の真ん中に生きている。言葉はそのなかから次々に生まれてくる。

 第一に「労働一般」以前のブリコラージュの世界、かの「野生の思考」の世界があった。自他の区別すらない「自他一如」、我も君も彼/彼女もない共同体の生き生きとした連帯世界があった。しかしながら、気の遠くなるほど長いこの連帯世界は終わった。

 第二に、その後「労働一般」が範疇的に確立し、我々を抽象的に結びつける非人格的な紐帯が成立することによって、我、汝、彼/彼女というフラットな人称的世界が形成された。人称的な項のなかに身分を超えて誰でもが入れるというのはまことに画期的なことで、人間という概念すらこの時期の産物である。

順序が逆になるが、第一と第二の時期の間に、長い移行期がある。土地所有を媒介にした未発達な商品経済の時代である。貨幣が未発達で、代わりに土地所有者と農民の上下関係が機軸にあり、補足的に職人と商人が周辺を構成する。

 第二期のフラットな人称的関係は、心地よい開放的な関係のように見えるかもしれないが、そうではない。というのは、人称関係は総体として無人称の物象的関係(商品・貨幣・資本)に従属させられているからだ。ここでは、物象が主役であって、人称は物象の奴隷である。具体的に言うと、彼や彼女は、社長や部長であって、「我と汝」の世界には入ってこないし、また入ってこられても困る。人間は、階級や階層の人格化にすぎない。人格は階級や階層を生きている間なんとかかんとか「役role」を演じるが、その時期が終われば「役たたずuseless,worthless」となる。

 したがって、近代において成立する人称的関係は、物象に封じ込められて、主役にはなりえない。もしも、人称関係が物象から解き放たれて、本当にフラットに、互いに人格として尊重しあえる基礎となりうるならば、現在思考しうる範囲でもっとも解放的な人間と言えるかもしれない。

 この意味からすれば、近代は、いわば解放の可能性の萌芽とそれを抑制する現実との非常に複雑な層をなす言語的構成体である。おそらく、言語史的探求をもっと深めていけば、その重層を分節することができるようになるであろう。抑圧とは別の可能性はたしかに胚胎している。

 「労働」(労働一般)という範疇は、オートメーションとIAの発展の過程で、また人間がますます「機械の自己意識ある付属物」になる過程で、価値実体の尺度であることをやめるかもしれない。マルクスは『資本論草稿』で次のような、きわめて興味深い指摘をしている。

 

 「生きた労働の対象化された労働との交換(生きた労働と死んだ労働の交換のこと----引用者)は、すなわち社会的労働を資本と賃労働との対立という形態で措定することは、価値関係と価値に立脚する生産との究極の発展である。この生産の前提は、富の生産の決定的な要因としての、直接的労働時間の大量、充用される労働の量であり、またどこまでもそうである。ところが、大工業が発展するのにつれて、現実的富の創造は、労働時間と充用された労働の量とに依存することがますます少なくなり、むしろ労働時間のあいだに運動させられる諸作用因の力Machtに依存するようになる。」「もはや、労働が生産過程のなかに内包されたものとして現れるというよりは、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関わるようになる。機械装置について妥当することは、同様に、人間の活動の結合と人間の交通Verkehrの発展とについても妥当する。もはや労働者は、変形された自然対象(機械のこと---引用者)を、客体と自分の間の媒介項として割り込ませるのではなく、彼は、彼が産業的な過程に変換する自然過程(機械---引用者)を、自分と自分が思うままに操る非有機的自然とのあいだに手段として押し込むのである。この変換のなかで、生産と富との大黒柱として現れるのは、人間自身が行う直接的労働でも、彼が労働する時間でもなくて、彼自身の一般的生産力の取得、自然にたいする彼の理解、そして社会体としての彼の定在を通じての自然の支配、一言で言えば社会的個体の発展である。現在の富が立脚する、他人の労働時間の盗みは、新たに発展した、大工業それ自身によって創造されたこの基礎に比べれば、みすぼらしい基礎に見える。直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の尺度であることを、やめるし、またやめざるをえない。」(『資本論草稿Ⅱ 2』大月書店、489-490頁)

 

 現在、労働者は、AIやロボットの登場によって、ひょっとすると仕事を失うかも知れないという恐怖にさらされている。工場からブルーカラーが消え、またオフィスからはホワイトカラーが消えたとすら言われている。資本が支配する以上、直接的労働とその時間を盗まなくては資本は生きた吸血鬼としてやっていけない。にもかかわらず、人手不足や人件費のコスト高で、機械がたえず拡大された規模で導入され、無人の資本が生まれる。

マルクスが述べている資本の自己止揚への傾向は、総資本の長期的な矛盾を想定したものである。それゆえに、短期の、狭い空間での、個々の企業、地域、国民社会の経営において、この矛盾がどのように不均等に現れるかについて、まったく捨象された多くの要因が見込まれるし、またさまざまな緩急が想定しうるのである。また、そうであるかぎり、この過程をもっと細かくカウントすれば、決して幸福な過程を約束するものでもあるまい。

 しかし、もし機械の導入が最高度に発展してくると、人間が直接労働から切り離され、ますます一般的な知力、自然理解力、社会体を運営するマネジメント能力を持つ方向へ導かれざるをえない。このことは、個々の企業が無政府的に競争しあった過去の時代を卒業させ、生産過程の主作用因であることをやめさせ、生産過程と並んで現れるところの高度に管理的な主体として人間を発展させるから、まさしく社会的個体を鍛え上げるに違いない。

それは、本稿でとりあげた「労働(労働一般)」概念の発生、発展、死滅の最後の段階の到来である。もし労働が富の源泉であることが終わり、したがって労働時間が富の価値を測る尺度であることをやめてしまえば、生きた人間に残されるのは、人間の活動Tätigkeitの再評価、金に収れんする労働とは区別される諸活動の意味の開放へつながりうる。

このことは労働から活動への人間の能産性の転換にとどまらない。人称世界もまた変わるのだ。商品経済ではつねに私人化と差別化によって人称関係は無人称的、物象的力によって疎外されてきたが、労働が活動へ転換するにともない、三人称を含む巨大な共同体をつくる足がかりになりうる(「ビートルズ革命の世界史的意味」拙著『坊っちゃんの世界史像』本の泉社、2024年所収)。これは興味深い主題である。

 

おわりに

 

 本稿は、かなり思い切って、哲学上の言語論的転回にまつわる議論を異次元へ投げ込んでみた。これは、いわゆる言語論的転回の先に想定されるテーマをより可視的にしてみたいと考えた、ささやかな結果である。まだ、ほんの試論的な域を出るものではない。多くの手つかずの論点を残しているのだが、それらについてはまた別の機会に論じることにしよう。(本稿はもともと『市民科学通信』第61号、2025年6月28日所収の拙稿「言語発生論について」を改題、加筆したものである)。


『一望荒野』2025年9月号 第2号


◆「河上肇と夏目漱石の個人主義の差異について」

 

はじめに

 河上肇(1879~1946)ファンは多い。河上はとても求道的である。ある意味宗教的なほどだ。しかも、彼は同時に科学的な真理探究におおいに尽くしたのである。だから、この求道性と学問性の二つの関係には凄味がある。そういう点が、万事合理主義のいまどきの学者にはない魅力である。このエッセイでは、河上の個人主義論を考える。そして、そのうえで夏目漱石の個人主義論を加味して、比べてみたい。


1.「日本独特の国家主義」(1911年)にみる個人主義の評価

 日本には天賦人権は存在せず、国賦人権である。ゆえに、天賦国権、国賦人権であるというのが河上の悲痛な日本人権論である。天賦国権とは「天が国家権力を与えた」という意味である。天とは、神や仏にも近い絶対の自然である。その絶対の自然が国家権力を与えたのであるから、もう逆らいようがないわけである。明治憲法(1889年公布)には、人は生まれながら権利をもつのではなく、国家あるいは天皇が定めた憲法によって汝臣民に恵んでやるぞよ、という位置づけであった。

 大逆事件(1910~1911)は、幸徳秋水らが天皇陛下を殺害しようという計画をもっていたと国家権力がでっちあげ、秋水自身は何の関与もなかったにもかかわらず、「無政府共産」を唱えているから秋水が関与したに違いないという調書を作成して、死刑にまでいたらしめたという、言論、思想弾圧事件である。

 これに憤慨した河上は、明治憲法より大逆事件までの経過をみて、自由民権運動(1874~1890)は根づかなかったどころか、反対に否定され、こけにされ、ただ国家主義だけが残ったというふうに見ていた。

 4節で河上は「日本の国家主義と西洋の個人主義」を論じる。西洋では個人は目的であり、国家は手段である。しかるに、日本では個人は目的ではなく国家の手段にすぎない。

 と、こう論じる以上、河上が西洋個人主義を高く評価し、そこから見て、日本の個人主義の欠如を嘆いていることは明白である。河上の言い分をまとめるなら、西洋=天賦人権=民賦国権=個人主義=民主主義、日本=天賦国権=国賦人権=反個人主義=反民主主義。なお、いうまでもないが、西洋の天賦人権説とは、イギリス17世紀のT・ホッブズやJ・ロックの市民革命思想を指している。


2.個人主義と社会主義の関係

 日本はかように国家主義であるから、とうぜんのこと個人主義は斥けられる。そして、ここからが河上の自説展開である。伏線として、幸徳秋水とはごくふつうの庶民からみれば、『帝国主義』(1901)、『社会主義神髄』(1903)を書いた過激な思想家であった。しかし、河上は、そうしたぶっ飛んだ過激思想家が処刑されたのであって、一般庶民には関係がないというふうなものの見方を許さないのである。

 というのも、河上の見るところ、秋水の処刑は社会主義者にたいする脅しであるだけではない。もっと広範な問題、もっと深い問題、日本社会の人権状況に突き刺さるような本質的な問題なのである。

 「一見する時は国家主義と社会主義とはその性質相近似し、共に彼の個人主義と対峙するものの如く見ゆ。何となれば、かのいわゆる社会主義なるものは、一切の土地資本を公有となしすべての産業を公営となすべしと主張するものにて、いかにも個人主義と相容れざるがごとくなればなり。しかしながら、かくのごときは真に外形上の事なり。即ちその精神に至っては、いわゆる社会主義なるもの全く個人主義の上に立脚するものにほかならず。その土地資本を公有にし一切産業を公営にすべしというは、その事が国家のために必要なるがゆえにあらずして、まったく各個人のために必要なるが故にほかならず。即ちその根本の精神、本来の出発点、最後の立脚地は依然としてあくまでも個人主義なり」(『河上肇評論集』48頁)。

 すなわち、その精神において見れば、個人主義=反国家主義=社会主義である。この「精神」が肝心である。実際自由民権運動の代表的思想家たる中江兆民のすすめた「自由」を通って秋水は出現した。とすれば、自由民権の個人主義と秋水の反国家主義と社会主義は陸続きであろう。

 歴史段階で見れば、個人主義は17世紀の産物である。社会主義は19世紀以来の新思想である。それらは異なる時代の異なる思想のごとく見える。だが、「その精神において見れば」、社会主義は個人主義の実現のための手段である。河上の社会主義論は、だから、「個人主義に立脚せる産業公有論そのもの」(同、49頁)なのである。

 河上は、こういう具合に個人主義の価値をきわめて高く評価し、それこそが社会主義を求めさせるものとした。しかし、大逆事件のでっち上げが示したように、日本は個人主義と社会主義とを許さない。ぎゃくに国家主義者は神としてまつられる。その証拠に、松陰神社(萩市)や伊藤公神社(光市)があるではないか。河上は山口市出身なので、郷土の神様がみな国家主義者であることを知っていたのである。


3.社会学者戸田貞三にたいする河上の反発

 戸田貞三(1887~1955)という社会学者がいる。戸田の指導を受けたものは喜多野清一は当然としても、清水幾太郎、服部之総がおり、日高六郎も末弟にあたる。だから、師の思想と弟子とは区別されねばならない。その戸田に対して河上は追録で採りあげていて面白い。「戸田貞三博士は、西洋を以って主我主義の国となし日本を以って没我主義の国となし、この点に彼我民族性の差異ありと論ぜられた」。しかし、この「没我主義」は、河上の行論に沿って正確にいえば、国家に個人が対するときに「没我」となることを指しており、本質は「国家主義」である。ゆに、個人主義がない日本では個人主義から帰結する自治がない。官治あるのみとなる。国家有為の人物たれ、人の健康を祝するにも、なお邦家のためにこれを慶すといえり。国家々々、「ともかくも国家主義は現代日本の民衆的一般的信仰なり」(同、65頁)。

この時点で戸田の「没我主義」は、西洋の主我主義向かう前段と位置づけられたかどうか、不明である。「没我主義」を西洋と異なる日本的美徳と持ち上げた可能性もある。社会学者にはよくあるタイプだが、良い意味でも悪い意味でも実証主義的で、時局にYESともNOとも言わない。幸い戸田は積極的にファシズムに協力しなかったが、反対したわけでもなかった。このため、実証的には核家族論の成果をもって、戦後社会学会の設立に寄与した。悪人ではないが、まあまあの人物である。河上が戸田の「没我主義」という概念を国家主義と言い換えたことは、戸田に痛烈な反省を迫る。なぜなら、「没我主義」は西洋に対する別類型であるが、国家主義となると対立概念となるから、戸田は思想的対決を迫られることになる。あまり思想はなくても類型論をつくることはできるが、概念論をたてるためには一定の思想が必要となる。社会科学の場合、思想と科学はつきものであるが、思想には濃淡がある。この意味で、河上の学問はつねに強力な思想を背景とし、比べて戸田は思想が希薄である。戸田は、それでも日本の社会学の歴史に残った。だが、河上ほどジャンルを超えた永続性をもたない。


4.河上肇と夏目漱石はともに個人主義を高く評価するが、微妙な差異がある

 河上が「日本独特の国家主義」(1911年、M44)を発表したあと、漱石(1867~1916)は「私の個人主義」(1914年、T4)という講演をおこなった。二人とも大逆事件を重大な思想弾圧事件と考えていたことは間違いない。河上が「国家々々」と言い、漱石が「国家国家といってあたかも国家に取りつかれたような真似は到底我々には出来る話でない」と揶揄するのは、明確な思想的攻撃対象をもっている点で完全に同一である。

 河上が反国家主義的になればなるほど親個人主義に傾くのは当然である。同じく、漱石が「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える」(『漱石文明論集』137頁)と論じたのも同一趣旨である。

 河上は、その後どんどん思想的に進化して、ついにマルクス主義に到達する。漱石はロシア革命前年に死去したが、最後まで「社会主義者と言われても平気だ」と言っていた。

 しかし、二人とも、「組織の上に個人を置いてはならない」などと吹聴するようなタイプではなかった。

 私自身の概念を使えば、河上のいう天賦人権の個人主義はなお<私人>に取りつかれている。その限りでは、彼の個人主義は本当の個体主義ではない。河上の「個人主義に立脚する産業公営」という語は、論理的に厳密に言えば「私人主義に立脚する産業公営」でありうるから論理矛盾を犯している。

 マルクスの思想を徹底すると、西洋の天賦人権=民賦国権じたいがすでにして解放思想としては狭い。これでは、民権を守るためには国家権力が絶対必要ということになり、国家権力を地上から廃棄するという考えが出てこなくなる。わたしたちは、尖閣列島が中国のものか日本のものかといった問題を熱心に論じるばあい、歴史を調べていずれかに帰属させる根拠を探したりする。そういう研究はそれはそれとして値打ちがないとは言わない。しかし、国家というのは他の国家との境界をもつから国家であるわけだ。すると、その域内の人々は税金を納めることを承諾することにもなるし、ある地でルールを破ったら牢屋にいれられても仕方がないよねということになる。民賦国権のほうが国賦人権よりもいいということを河上は教えてくれるわけだが、そしてその論理は非常にシャープなのではあるが、どうして人々は国家というやっかいな強制機関を自分の方からつくってしまうのか、という自由の問題が残ってしまわないか。だから、河上の言う民賦国権は、強制を自分でつくりだすという背離を含んでいるように思われる。「日本独特の国家主義」は好きになれないが、西洋の国家だって「西洋独特の国家主義」を生み出す種を隠している。

 東西を問わず、およそ一切の国家主義の種を剪定し、国家(国民国家)の廃棄まで進めようとすれば、もう一段「個人主義」という用語をきびしく分析して、国家をつくりだすような個人主義(民賦国権)ともはや国家を必要としないような個人主義を別物として設定しないといけない。それを私は、私人と個体という二つの対抗的概念として整理している。だが、「日本独特の国家主義」を書いた時点の河上は、扱っている問題がなにせ大逆事件への批判だから、そこまではいかなかった(行く必要がなかった)。

 にもかかわらず、河上が「その精神において」個人主義は素敵なものだという点を擁護したことに私たちは感動する。

 ところで河上が扱ったのと同一の問題を同じく「個人主義」という概念で分析した人がいる。それはかの夏目漱石(1867~1916)であった。1914年学習院補仁会でやった講演「私の個人主義」が、河上の個人主義と比べてどういう位置にあるかにおおいに興味がある。漱石はロンドン留学中に、ホッブズ以来の西洋個人主義を読破した。そこから「自己実現」というのが西洋文明の原動力になっていることをつきとめた。ところが、文明が発展すると「自己実現」がうまくいかなくなる。万人の自己実現ができなくなるのは、誰かが「利己実現」しているからではないかと思い至る。漱石は自分なりに言葉を模索して「自己self」と「利己ego」は混同されることが多いけれども、別のものであり、むしろ対抗するものであることをこの講演以前に見抜くようになっていた。それどころか、「利己」と「自己」の対抗という考えをもとにいろいろな小説も書いた。

 利己主義者は金力と権力を手元に集めることに倦むことがない。しかし、金力と権力から締め出される多数の人びとは「自己実現」できなくなる。「自己実現」から始まったはずの文明が「自己実現」を否定する、これこそが「文明のパラドクス」だと見た。

 漱石の「個人主義」(1914)はゆえに金力と権力に抵抗するような個人主義の推奨である。この意味で、万人の自己実現の希求であるから、「利己主義」ではなく「個体主義」であると言いかえても間違いではない。

 河上肇と夏目漱石は、いずれも個人主義なしには社会主義はないという点では同じであり、戦後の思想家たちで言えば、水田洋さん、内田義彦さん、平田清明さんなどにきわめて近い。

 本題へもどるなら、1911年の「日本独特の国家主義」の河上と1914年の漱石を比べたらどういうことが言えるかだ。河上の個人主義は、西洋国家への賞賛が強すぎるように思える。もちろん、「日本独特の国家主義」批判のための方便として西洋社会を導入しただけなので、河上が西洋に心酔するような人だったかというと必ずしもそうではないし、ますます後になると西洋のことを容赦なく批判するようになるけれども、この時点での二人の個人主義を対比してみよう。

 そもそも河上のいう「日本独特の国家主義」がいったいなにゆえに出現するか、なぜかくも強靭なのか、どうして天皇制的資本主義がこの列島を覆ってしまったのか、幸徳秋水をでっちあげで殺すような国家をどうして多くの日本人はポカンと受け入れているのか、というところまで考えていくと、西洋の国家は天賦人権だから好い、というのでは済まされないと思う。なぜなら1911年の時点で、西洋諸国は傍若無人の植民地主義を世界中にばらまいている。中国侵略(1840年)、インド侵略、南ア侵略などがおこなわれた。これに誘われて日本も日清、日露戦争で植民地主義を模倣する。ここから「日本独特の国家主義」が現れたのだ。だから、すでにこの時点で西洋国家は天賦人権でよいが、日本は国賦人権だから悪い、というだけで済むのか、という疑問が消えない。植民地主義という点で言えば、西洋も日本も変わらない。ただ天賦人権の植民地主義(西洋)と国賦人権の植民地主義(日本)がある。

 漱石は、1914年よりも前に「利己(私人)」と「自己(個体)」という二つの概念を区別し、その葛藤を凝視していたと先に言った。たとえば『それから』(1909年)を参照すればよくおわかりになろう。漱石が個体の自己実現という思想にもとづいて社会を見ており、また、彼の死後に出現したロシア・マルクス主義を断固斥ける骨格を十分に具備していたという点で、私は河上への共感を惜しむものではないが、漱石の個人主義の深さ(それは西洋社会の賃労働批判に届いていた)になにやら底知れぬ慧眼を感じる。

 というのは、漱石の個人主義というのは、「自分で考え自分でやる」ということなのだ。それは為政者が命じ国民がついていく、とか、資本家が構想し労働者が実行する,

言い換えると「人に使われる」(扱き使うも、使うも本質は変わらない)、つまり偉い人が考えて他の人が従うということを一切許さないのである。応用すれば、前衛が考えて後衛がついていくということも拒否するだろう。

 もしも漱石の個人主義を真剣に受け止めるなら、万人が「自分で考え自分でやる」というところまで行くほかはない。そうなれば、日本の国家、西洋の国家どころではなく、およそ一切の「金力権力本位の社会」とことごとく対決する。考えて見たまえ、この地上にあるのは「金力権力本位の社会」に違いない。こういう社会にたいして「自己本位」を対置するのが漱石の個人主義なのだ。お金に媚びず頼らず、また権力にも媚びず頼らない。常識から見てそれは不可能に見える。だから、誰もそれができるとか、やろうじゃないかとは言わないものなのだ。常識と思想の境界線はここにある。

 もし地球のすべての人たちが実際的に漱石の個人主義を身につければ、ある意味では河上肇の「国家主義批判」以上に遠大なところまで到達できる。

 漱石の社会イメージははるかに常人にわかりやすく、かつ身体化されており、ずっとラジカルであると言えるかもしれない。私自身の感じでは、幸徳秋水の「無政府共産anarchistic communism」は庶民から見てまだまだ固い。河上の個人主義はロジカルだがすこし狭い。漱石の個人主義は、もっと柔らかくて、もっと広々としている上に、二人以上にラジカルである。


おわりに

 漱石の講演「私の個人主義」をその場で拝聴した主催者のなかには、学習院関係の貴族もいた。だが、かれらは、漱石の講演にたいして危険さを感じず、それどころか「このくらいならまあいいんじゃないかね」と感想をもらしたそうだ。そう思わせるには思わせるだけの周到な構成があったわけだが、おそらく漱石はこの感想を聞いたら「ざまあみやがれ」と膝を叩いただろう。世の中が見えている、慧眼であるということは、決して派手な、エキセントリックなものではない。もっと穏やかで、もっと地に足がついた、いぶし銀のものである。

 私は、河上肇という人、また夏目漱石という人を、いずれもおおいに敬愛する。かれらの個人主義への傾倒は素晴らしい。ただ、ほんの微妙な差異はある、と申し上げたのである。


創刊号

「自分を探っていくと言葉に行き着く そこから世界へ広がる

  ことができる」


 自分というのは、不思議なものだ。たとえば、自分には何か名前がある。太郎とか花子だ。私は太郎だ。私は花子だ。でも、名前は親から名付けられたものである。つまり、君が君である根拠は、実は君の外,たいていは親にある。ところで親が名付けるとしたら、親は日本の伝統内部にあるから、漢字やひらがなで名前をつける。もともとの音の日本語の原型は「やまとことば」という。もともと「やまと」という生活の単位は昔になればなるほどなかっただろう。九州と近畿と東北はべつべつで、あまり関係はないし、「やまとことば」という統一原語があったとはいえない。だが、奈良に古代の中心ができたから大和盆地の豪族の下で残されていたことばを「やまとことば」の頂点へもってきたのであろうと思う。だが、「やまとことば」は音だけであったから文字を知らない。そこで口語を残すばあいに、漢字をつかった。文字を漢の時代にできた漢字から輸入したのである。いや、輸入というよりも、漢字をしっている大陸系の人々が渡来人として流れ込んでいた。別段国境もないから「輸入品」ではなかった。あらゆるものは流れつき、流れでたのだ。もともと人民は別々の国民ではなく、もっと自由に入り混じるカオスのようなものだったろう。


 表記の上で、漢字だけでは読みにくいので、「やまとことば」に合わせてひらがな、カタカナをつくった。万葉集でも、土佐日記、古今和歌集でも、平家物語でも、すべてがひらがなによる「自分の分身」の表現である。


 「ゆたかな自分」というのは、ただ突っ立っていてできるものではない。けっきょく自己の「分身」をたくさん生み出すこと、それが表現である。別段はっきりした「自己」というものがあるわけではない。むしろ、表現してみて、言葉や音を外に出してみて、そのあとで、自分が何かがわかる。まだ喋れない赤ちゃんが、「あ〜」と腹が減って思わず声を出してしまったとしよう。すると親が「あらまあ、お腹が空いたのね」と言って近づいてくる。それで初めて赤ちゃんは「そうか、あ〜と言ったらミルクをくれるんだ」と自分を理解するようになる。もう少し進むと「あ〜」じゃなくて「ママ」「パパ」で呼ぶようになる。外からもらった言語で自分を外なる「分身」に変えて押し出す。外化する。無表情で座っていても、他人には何が何だかわからない。ところが外に出すと世界は反応するのだから、面白いんだ。大学にはゼミという場がある。ゼミで何か言えば、喋る自分、音を外に出す自分をつくりだすのである。


 3世紀以降長らく中国を先生と見立ててきた日本だが、19世紀(明治)以降は先生は西洋であるというふうに、方針を大転換した。これまで長い間お世話になった中国や朝鮮という偉大な先生が、あまり役立たないし、強くもないと言うことで見かぎり、挨拶もせず、むしろ、唾を吐きかけたり、殴ったり、殺したりした。恩知らずも甚だしい。


 けれども、これによって漢字まで捨てたわけではないし、派生した平がな、カタカナも使っているから、日本人の自我の基底に漢字文化がある。


 しかし、明治以来西洋化を進めると、英語が流入するから、それをカタカナ表記して取り込んだ。テレビ、ラジオ、エアコン、スマホ、マクド、ミスドなどは、西洋から来たので漢字表記ではなく、カタカナにした。中国はテレビを「電子台」というふうに漢字化した。


 ここから見て日本人の自我(つまり君と僕のSelf)は、音の土台に「やまとことば」を置き、表記の土台に漢字、ひらがな、カタカナをいれた。これだけで十分東西からもらったもので自分の言語構造ができているから、東西へ開いていくこともできるわけだ。今はそれでも間に合わないから、SDGs、GPSなども、原語のまま練り込んでいる。「空気が読めない」をわざわざKYと言ったリするのは英語化の一環だろうか。


 ともあれ、僕らの自我は、トータルで見ると、かたや中国、こなた西洋からできている。そうやって、いわば四方八方へ広がるようにできている。


 こんな自我の持ち主はそうは多くない。何故こういうことが起きたか?日本は地理的にたまたまアジアの東の端にある。また、太平洋の西の終わるところにある。だから、東西二つの文明が出会うところに日本が位置していた。これを便利に使って、世界の交通が頻繁になるにつれて、揉まれた。暖流と寒流の出会うところの魚が美味いように、日本人は文化的に美味いのだ。                                   揉まれたときに、ひどく間違ったこともしてしまった。人をたくさん殺した。けれども反省も含めて頑張れば、美味しい魚は世界のために役立つかもしれない。この国の人々は努力次第で世界史的な人間、つまり、集団エゴイズムにとらわれることなく、どこまでも世界を丸く生きていく主体になれるんじゃないかと思う。いわば日本の多層的文化こそが平和大使になる資格を与えてくれる。


 自動翻訳機やAIの技術で、世界平和を目指す方向は世界の誰にでもいずれは可能になるにちがいないであろうが、取り分けて日本はすでにその好条件が揃っている。これは世界的にみて珍しい。東洋と西洋の境目にあって、どちらにでも行けて、どちらの発想や思考をも理解できる人々はそう滅多にいない。あまり知らないが、トルコとか国境近くのメキシコ人とかが御同輩かもしれない。言語だけじゃない。もっと素晴らしい遺産としてあるのは日本国憲法第9条である。しかも、条文だけじゃなくて、先祖代々の成り立ちからして、平和な未来に向かって人々の仲介役になれるのはこういう境界線上の私たちなのだ。だから、西洋人とも東洋人ともうんと仲良しに生きていけたらいい。間違っとりますか?




  • 『一望荒野』2025年8月号 創刊号


    ◆「コンピテンスについて━「理想的発話状況」の現実化」

                                 竹内 真澄

     はじめに

    世界が間違っているのは、少し勉強すればわかることである。漱石も「間違ったる世の中」と言い切った。いま、戦争、環境破壊、人の格差、人間性の劣化などが起こって、間違っていることはますます明白になってきている。だが、間違ったる世の中はたとえどれほど間違っていてもなかなか変わらない。何故か。それは間違ったる世の中それ自体が固有の権力Macht(金力とゲヴァルト)をもつからである。すなわち、権力は富とゲヴァルトによって価値観の体系を構成し、自己を物質的、精神的に正当化できるので、この世を間違ったる世の中であると見なす者を、妄想者、変人、異端、魔女などとして排除することができる。

    それだけではない。権力は、その力によって少数の抵抗者をも予防的に消滅させることができる。一見するだけでは見えない社会制度は網目のように広がっている。権力は、それらの制度、つまり会社、学校、マスコミ、病院、家族、大通り、路地に浸透するので、一人一人の個別者Einzelneの内面は白昼堂々の操作対象となるのだ。

     学問は、このような事態を<物象化された世界/物象化された意識の循環>として捉えることはできるが、これじたいがあまり生産的なやり方ではない。

    社会心理学とか社会意識論が、あまり流行らなくなった現代的理由は、世界にはそれを支える意識がつきものであるというトートロジーしか教えないからだろう。これでは悪い世の中には悪い意識が対応する、ということしか言えない。「悪い世の中」と「悪い意識」が対応することは自明だから、両方を同時に変えるべきだということにはなるが、人間は自己意識の強い動物だから、どうしても「悪い意識を捨てよう」という片方に比重のかかった貧弱な答えしか出てこない。それならば、自己啓発書のほうが手っ取り早いのだから、比較優位の結果、社会心理学は衰退したのだと私は思う。

     ルカーチとハイデガーが物象化Verdinglichungという現象をめぐって酷似した問題圏にあったという指摘(Lucien Goldmann 1973,Jochen Hörish,1985)は、おそらく専門家にとっては疑いなく正しいものであるだろう。けれども、二人の哲学者は、あまりにも「意識の物象化」にこだわりすぎて、問題を矮小化したように思われる。

     「意識」を問題にしはじめると、けっきょくのところ、「われ思う、ゆえにわれあり」というデカルト的な「意識哲学」の引力に引き戻されてしまう。たとえ、「われ」を「われわれ」に置きかえたり、集団(組織論)を導入し「われ集団に組織される、ゆえにわれあり」と言い換えたとしても、また意識を「死に臨む存在」に向き合わせたとしても、所詮は「意識」が存在の帰結であり、存在の憑き物であることに変わりはない。ゆえに、豆乳(構造)の上皮(意識)にすぎない湯葉をかき回しても、「意識」に「別の意識」を対置したり、上皮に介入することしかできず、存在そのものの仕組みを問い直すことはなかなか容易でない。

     あらためていうのもおこがましいけれども、哲学者たちは頭でものごとを考える癖のある人なので、「意識」の意識改革という結論しか教えない。しかし、意識改革なんぞではなくて田をつくるところから物事をつかまなければ、存在の秘密に迫ることはできまい。ひところ流行った「想像力imagination」、つまり不在の何ものかを表象する力に期待する試みも、「田をつくること」から離れるならば、それなりの限界を持つように見えて仕方がない(三木清(1897-1945)『構想力の論理』1939も同じような問題をはらんでいるのではないか)。

     では、何を考察するのがよいのかと言えば、意識ではなくて、コンピテンス(後天的能力)ではないかと思われる。この世ではこの世の意識が対応するとしても、より根本的なことは、この世にはこの世のコンピテンスが対応するのだ。それゆえ本稿はこのコンピテンスについて考察してみたい。

     

    1.どうしてコンピテンスが問題になるのか

     コンピテンスは、意識するsich Bewusstsein werdenではなく、遂行するleisten力である。遂行能力というのは、外界にたいして働きかける能力であって、遂行能力の範囲は意識に比べてずっと広い。だから、大円が遂行能力で、その中に納まる小円を労働能力とみなすことにしよう。人や物からなる外界に働きかける遂行能力のうち、とくに自然に働きかける力を労働能力という。労働能力は遂行能力の中核である。

    原始社会や無文字社でも労働は営々と行われてきた。アジアの段々畑、イギリスのアラン島の石垣で囲われた昆布を撒いた畑などをみると、人間の(無言でもできる)労働に脱帽する。そういう労働の蓄積の上に築かれた生活環境の上に乗って、私たちは、書いたり、語ったり、デモ行進したり、その他いろいろな活動をする。さらなる遂行能力はこの環境に乗って積み重ねられるのである。

     もう一度概念を整理すれば、遂行能力(コンピテンス)というのは、労働能力(外界に働きかける人間の力)とコミュニケーション能力(人と人が相互に働きかける力)の総和だと言ってもよい。ともにある場で何かを遂行する人々は、労働しながら、自然に互いに語り合う。二つを基軸に据えることができるだろう。遂行能力は、したがって、労働能力とコミュニケーション的能力の間の相関の中で発展するものだとみてよいだろう。

     たとえば、ハーバーマスは歴史貫通的な次元でコミュニケーション能力を分析した(Habaermas,1971)。歴史貫通的というのは、すこし言いすぎかもしれないが、近代に真善美が整理されて以降は、みな発話し行為する主体になったという見方をさす。その際、発話し行為する諸主体の理想を「理想的発話状況」と彼は呼んだ。彼の分析を読んで思う。当時の彼の批判理論の構想では、目の前の現実が悪い現実かどうかを判断する基準が「理想的発話状況」である。重要なことは、この理想は、勝手に持ち込まれた外在的基準ではなく、すべての人が先取りし、前提にせざるをえない絶対的基準だということである。つまり、人を騙そうとしている人でも、討論は無意味であると考えている人でも、言葉に不信感を持つ人でも、ひたたび言語共同体に属するかぎり、コミュニケーションを通じて真理、道徳、誠実の何たるかに関するコンセンサスをつくることができる目的(テロス)を捨てることができないのである。男社会で抑圧された女性に腹の底から発言してもらえば、男社会の仕組みは変わる。いまだ「理想的発話状況」になく、いろいろ気を使って女性は自由にものが言えない。家父長的男性だって、目的を自分も前提にしている。実際にはこの目的に触れたがらず、そっと隠しているわけである。けれども「理想」を隠すということは、それがあるからなのだ。

     

    2.アーペルという人のこと

     ハーバーマスは、「理想的発話状況」の理念をK.O.アーペル(1922-2017)に負うている。アーペルはすでに1960年代末に「コミュニケーション的共同体」というアプリオリな超越論的前提について考察していた。そして、この共同体を倫理基準とするならば、そこから一切の非対称的な関係は廃止されねばならないというところまで、つまり社会制度のことまで論じたのであった。

     ある意味では溜飲のさがる議論である。いわゆる正統派マルクス主義あるいはソ連型社会主義が現に存在し、国家権力を握っていた頃に、学問は歩みを止めることなく進んでいた。イメージで言うと、田を作ることは労働能力に依存している。マルクスから労働を取り出すことは正当だが、労働だけを取り出すことは正当ではない。ソビエト・マルクス主義は、労働以外の活動を取り上げるべき時期に正当にそれを取り上げなかった。人間は田を作り、米を食べる。しかしそれだけではなくて、互いに語り合い、また真善美を求めあう存在なのだ。

    ゆえにこれら二つの能力を正当に位置づけることは、哲学にとって避けられない課題となった。それは戦後国際政治が、GDP競争だけに血道をあげるのではなく、管理された国際秩序を維持するために互いに語り合う人間的能力をますます必要としたからでもあった。

    哲学は時代に求められる理論的課題を模索すれば、おそらく二つの道しか残されていなかった。一つは、近代世界システム論、もう一つはコミュニケーション論である。

    近代世界システム論は、主権国家間の協調が世界市場の競争によって脅かされるという警告である。たとえ一国規模の「社会主義」という主権国家が出現したとしても、近代は終わらないし、極限までに考えてすべての国が個々にいわゆる「社会主義国家」になったとしても、近代世界システムは存立し続けると論じた(Wallerstein,1967)。

    コミュニケーション論またはコミュニケーション的能力は、多少なりとも非対称的人間関係(階級、人種、ジェンダー、従属国家など)が残っているばあい、なぜそれが「悪」であると言えるのかの根拠を示した。

     これら二つの理論的遺産が冷戦期にジワジワと準備されたことによって、なぜ20世紀のあちこちの革命運動にもかかわらず非人間的な状況が再生産されているのかという点と、この非人間的な状況をなんらかの歯の浮くような偽の正義によってではなく、ある規範的基準に即して内在的に、自信をもって変えることができるのか、という問題にそれなりの回答がえられた。

     いま、コミュニケーション的共同体の系列の議論(アーペルはそれの起源にいる)を辿るとき、コンピテンス論は歴史のなかですこしずつ豊かに開化する変動的な次元で語られたとすれば、アーペルとハーバーマスに共通しているのは、理想/現実、言語共同体/資本主義、理想的発話状況/歪められたコミュニケーション、生活世界/システムなどという二項対立的な理論構成であった。コンピテンス論は、いきなり超越論的に高みからものごとを論じるわけではなく、現実=資本主義=歪められたコミュニケーションが息苦しいものとして感受されればされるほど、二項対立の反射としてくっきり現れた項目だったと言える。

     一般に能力論というものは、「なにかをやればできる」論である。コミュニケーション的能力について言っても、万人に発話し行為する能力があるならば、二項対立のうちの後項を問題化し、変える力があるはずだという暗黙の前提をふくんでいる。しかし、ふつうに考えてみればわかることであるが、たとえば「理想的発話状況」、つまり一切の縛りなく、腹の底から言いたいことを言えたら、きっと合意が成り立つはずだ、という素敵なアイデアは「もの申すことが抑圧されている現実がある」ということを照らすが、それでも照らすだけではまだまだ、特殊歴史的な現実を現実的に否定することはできない。それは、たんなる労働過程一般を考察したからと言って価値増殖過程という現実を否定できものではないのと同じことである。

    ゆえに、問題は、「理想」を「現実的な理想」へ加工することである。語られるコンピテンスが現に目の前にある特殊歴史的な社会において、どのような内容的制約をうけるか。また、その特殊歴史的な内容制約は、当の特殊歴史的な社会の変化の中で従来の制約をどう脱皮するか、しかもそのうえで「現実的な理想」が「現実的現実」をいかにして凌駕するのか、これを論じる必要がある。

     私の考えでは、アーペルもハーバーマスも、規範的基準を言い当てることに精力を集中したために、コンピテンス論もまた「たんなる理想」に終わっている。「たんなる理想」が特殊歴史的な次元での「現実的な理想」に育ち、現実的なコンピテンスに具体化されるまでどういう曲折と対抗をたどるものかをより緻密に考える余地がある。

     

    3.コンピテンスとビルドゥングス・コスト

     アーペルとハーバーマスの研究を踏まえて本稿が言いたいことは、かれらがたんなる理想/現実的な理想、という二項対立をまだ考察の外に残していることである。

    前稿(「権力について」市民科学通信5月号所収)で私は、事柄には分析的にみて3つの次元があると述べておいた。つまり、①歴史貫通的なもの②特殊歴史的なものによって制約された歴史貫通的なもの③特殊歴史的なもの、という三次元である。実際は②と③の二重性として物事は定在する。だからといって、①が不要ではない。すでにおわかりと思うが、アーペルとハーバーマスの理論構成には②が抜けているのである。

    ②が抜けるとはどういうことか。コンピテンスとの関係で言えば、絶えず賃金がコストとして最小化されるという特殊歴史的な圧力があるなかで、ビルドゥング・コストは最小化されるのであるが、これによってコンピテンス、すなわち<労働能力とコミュニケーション能力の総体>は、絶えず秩序再生産的にか、または委縮した再生産へ切り詰められる。

     すると、「理想的発話状況」なり「言語共同体」のもつ可能性は、まだひどく抽象的なままだから、「現実的な理想」へ向かって増殖するどころか、かえって現実のコスト最小化の圧力のもとで開花できないところへ追い詰められるであろう。

    だから②の次元での分析は、「理想」を「現実的な理想」へ鍛えるうえで不可欠のものである。ここでどういうふうに考えるかについて、いろいろなアイデアがあってよいと思うのだが、私見ではアーペルとハーバーマスには賃金論、つまりビルドゥングス・コスト論をつけ足して考えていかなければならないのだ。

     言語哲学者に対して「賃金論」をうんぬんするのは唐突な感じを与えると思うけれども、人間の自己形成を主題とするばあい、②はコンピテンスとビルドゥングス・コストが衝突する場面である。だから、この場面を扱うことができなければ、「理想的発話状況」は素晴らしい着想ではあるが、やはり絵に画いた餅にとどまってしまう、それはよろしくない。

     

    おわりに

     コンピテンスがどのように内容的に制約されるかを考える場合、私人→部分的個人→機械の付属物という論理(MEW,Bd.23)が参考になる。これは労働力の要素から見たコンピテンスである。コンピテンスを構成するもう一つの要素はコミュニケーション能力であるが、これは労働力に還元されないが、無関係でもない。労働能力もコミュニケーション能力もいずれも賃金の大枠に制約されるからだ。(1)労働能力が低減し、コミュニケーション力も引き下げられる場合、(2)労働能力は低減し、コミュニケーション能力は上がる場合、(3)労働能力は上昇し、コミュニケーション力が引き下げられる場合、(4)労働能力もコミュニケーション能力もともに上昇する場合。

     アーペルとハーバーマスの「理想」が「現実的な理想」になるのは、ビルドゥング・コストの理論と突き合せたばあい、(4)のケースである。では(4)が可能になるのは、いかなる現代資本主義の動向においてであるのか。これは、なかなかあり得ない状況だが、可能性はゼロではない。簡単にこたえられる問題ではないが、直観的にわかるのは、新自由主義においては、(1)が基調となって、(2)(3)が不均等なばらつきをもって起こるのではあるまいか。いずれのばあいも現実の働く人々は自信をもつことはなかなかできないだろう。

     だからこそ難しい課題がクリアーに見えてくる。つまり(4)は、不可能ではないが、理論的実践および社会的実践にその多くがゆだねられる本質的領域である。この領域の可能性を増やすにはどう言うことをすればいいのだろう。そのことを研究していくことによって、哲学に触発された社会学の理論もまたすこしずつ先へすすんでいける。それがぼくが思っている投企的見通しだ。    

    (たけうち ますみ)













 
 
 

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