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ショート・ショートのおもひで

2026年7月31日 「接ぎのある下着」と「町一番の金持ち」

 5年生のとき、同じクラスのFがふと言った。「おまえ、接ぎのある下着着てるやろ」。この観察はずぼしだった。母が繕ったシャツをぼくは上着の下に隠していたのである。むろん「そんなもん着るか」と反論したが、Fの観察に、ある意味では舌を巻いた。Fは頭がよく体格もよかった。日ごろから一目置いていたが友だちというわけではなかった。衝撃があったので、今も憶えている。6年生になるとFは僕とは別クラスに分かれたので、彼のことをあまり考えなくてよくなった。

 担任のK先生はどこか山の方の小さい学校から転勤してきた。そして、じぶんのクラスを「かみなり学級」と名づけて得意だった。日曜日でも我々の草野球に参加してアンパイヤを買って出たりした。そのK先生が朝のホームルームで「この町で一番の金持ちはF整形外科だそうですね」と言った。どうして彼が朝からそんなことを言ったか文脈がよくわからない。どこかで町の情報を聞き、それをただそのまま披露したのだろう。万事そういう調子の「奴」だった。

 F整形外科は町で一番人気のある病院であった。その息子がFなのである。Fは地元の中学校には目もくれず、県下NO.1とされる私立中学へ進学した。

 なるほど、Fは「接ぎのある下着」を着たことがなかっただろうと思う。そして、人口の半数以上が農民からなるぼくの町の小学生がたいてい接ぎのあるシャツを着ていることを感じたのだ。その一般法則をぼくに適用した。

 K先生は、公教育とは何かを考えたことは、おそらく一度もない教師だった。ただ、自分のクラスの統治がうまくいきさえすれば満足だったろう。彼が赴任し担当した6年生クラスでK先生は自己紹介をした。そのとき一番前の端っこの席に座っていた子がへらへら無駄話をした。反対側に座っていたぼくには聞こえない程度の声であった。ところが、K先生はデビューの日なのに冒涜されたと感じたのか、黒い出席簿を手につかつかと近づき、その子の頬を出席簿で往復びんたした。ものすごい炸裂音がして、クラスは凍りついた。出席簿は厚紙を木枠で補強したものであった。

 卒業したぼくは地元の中学にすすみ、なんとなくバレーボール部にはいった。運動神経のよい悪ガキがあつまったこのチームはなかなか強かったので、県大会で優勝した。このチームにはK先生のクラス出身者が多かった。小学校を卒業してすでに2年経っていた。大会はたいてい土日に県庁のある市の会場で開かれる。ぼくの町からは1時間くらいかかる。

 にもかかわらず、会場の体育館の一番目立つところにK先生は来ていた。熱心に観戦し、ときどき檄を飛ばしているのであった。試合に勝ってコートの中央に我々が集まっていたら、観客席から降りてきてエース・スパイカーに育った元教え子になにか親しげに喋ったりした。「おまえの指導の賜物で勝ったんじゃないぜ」という反感をかんじたので、ぼくは寄りつかなかった。

 子どもの世界に階級社会の存在を教え、自分の力を誇示したがったKの記憶はいまだに鮮明である。


13歳のある日の出来事


 ぼくの少年時代は、小学校と中学校とで、別々の世界だった。

小学校時代は、快活で、明るく、光にあふれていた。とくに、人を笑わせることと

野球、ドッジボール、サッカーなどで、自分で言うのもなんだが、ちょっとした人気があった。野球はピッチャーかショートだった。背が低かったので「ショート」と先輩にいじられたりした。

 勉強のほうはふつうだった。数字で言えば、3がほとんどでぱらぱらと4があった。ところがおわらいとスポーツの威力はすごいものである。たしか、4年生のときの一学期に学級委員という、昔でいう級長選挙が行われたが、ぼくが選ばれた。それが5年生、6年生と続いた。たしか二学期、三学期はべつの人に交代したのだが、常に1学期にダントツで選ばれた。どの人の人生にもあの頃が一番という時期があるとすれば、ぼくのばあいは、断然小学生時代だ。

 中学生になった。春の身体測定はいやな予感がした。身長がぜんぜん伸びていない。6年生のときに女の子から、もっと大きくならないと小学生と間違えられるよ、などと脅されていた。計測結果はなんと139.5cmだった。全校集会などで列をつくると前から2番目である。うしろには足がすらりと伸びた背の高い連中がいたが、前から見ると遠くにかすんで見えなかった。

 中学1年で異変が起こった。学級委員選挙で選ばれなかった。3つの小学校の生徒が集まって中学生になる。だから、ぼくを知っている子は3分の1しかいない。だが、それだけではない。中学では、小学校みたいにお笑いと草野球では人気者にはなれないのだ。何よりも受験体制の重圧がずっしりかかってきた。すると、進学塾に通う秀才が学級委員になった。学級委員は秀才で背が高くないと見ばえがしない。これはぼくを苦しめた。背は低い、成績はあいかわらず中のままである。人気もがた落ちだ。

 中一の秋になった。先生たちは、春以上に受験モードで働くようになった。とくにN塾という町で一番の進学塾に通う連中が全クラスの征服者となった。先生たちは、このグループのなかから有名高校と工業高等専門学校に合格させることを天職にしているみたいだった。先生が授業後歓談するのはきまって塾生たちばかりであった。

 教室を西に傾いた秋の柔らかい日差しが照らしていた。毎日6時間の授業がおわったあと、学級委員の司会でホームルームが開かれる。伝達事項のあと、決まって、皆さんの方から何かありますか、と振って来る。むろん誰も手をあげたりはしない。それが決まりででもあるかのように年中何事も起こらず、帰宅するか部活へいそぐ。

 だがその日だけは違った。ぼくはすくっと手を挙げた。

 ホームルームが始まる前にぼくは成績が中か下に見える子に次々に聞き取りをしていた。「おまえ、学校面白いか?」百発百中だった。こいつらは、ぼくとまったく同じだ。受験体制の中で、頭が悪い方にランク付けされて、隅っこで小さくなっていたのだ。だから「面白くない」と全員が応えた。ぼくはその実態を事前につかんでいた。

 司会がぼくを指名した。ぼくは言った。「先生たちは、成績のいいこばかりをかわいがって、えこひいきしています。ぼくらはちっとも学校がおもしろうない。不公平です」。

 担任のO先生は顔は無表情だが、やや青ざめてみえた。N塾の連中は、こいつ何いいやがるという感じで下を向き、嵐が過ぎ去るのを待っているようだった。

 このあと一体どうなったか。日ごろはおとなしくしている劣等生が一斉に発言をして、教室が騒然となった。ある女子は、私たちは制服しか着られないのに、女先生は赤いツーピースで教えているのは不公平ですなど言いだした。ぼくにすれば、ファッションの自由は今日の議題ではない。言い出せば男の子には坊主頭の強制は嫌だという問題もあげることはできた。だがどちらも別の日に言ってほしいと思った。だが、もうそんなジャンル分けなど意味をもたなかった。誰もかれもが学校生活の不満をぶちまける絶好の機会をえた。

 司会者は前代未聞のアナーキーな状態を制することができず、まとめも方針もだせず、担任もぼくの発言について何一つ言わなかった。それで、その日のホームルームが終わった。

 受験体制の「えこひいき問題」は、その後二度と扱われなかった。たぶんあの場にいた連中も忘れただろう。むしろ、受験体制は2年生、3年生へと重圧を増した。

 もしも、本当に良い教師なら、この問題を逃さなかっただろう。今日は大変重要な問題提起を竹内はしたね。その他の発言も重要です。教員のえこひいき、ファッション、男子の坊主頭、これらは別々の問題なので後日じっくり話し合いましょう、とまとめるだろう。そして教員のえこひいきが真か偽か、職員会議で話し合い、結果を生徒に報告するのが至当だろう。しかし、担任はどの問題についてもまったく触れず、ごっちゃの発言はごっちゃのまま風化するにまかされた。民主主義を学ぶ最高の機会を教員もぼくらもみすみすスルーした。

 このために、ぼくはその後屈折し、外面的にではないが、不機嫌になった。それでも、ぼくは、ぼくだけはこの日の出来事から重大な教訓を得た。抑圧されたものは多数存在すること、そして、その抑圧を覆すためにはもの言わぬ者らが口を開かねば問題が露呈しないこと、抑圧された多数者側に立てば、秩序を変えることは可能だということ、である。

 このとき、大人になったら何をするかを決めていないし、未来は五里霧中だった。しかし、後から見て、これはぼくが研究者になっていくうえでの原体験となった。13歳のある日の出来事はぼくの一生の方向(職業ではなくて)を決めるような大きな事件だったのである。

 

 
 
 

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