ショート・ショートのおもひで
- 竹内真澄

- 8月29日
- 読了時間: 5分
更新日:9月5日
13歳のある日の出来事
ぼくの少年時代は、小学校と中学校とで、別々の世界だった。
小学校時代は、快活で、明るく、光にあふれていた。とくに、人を笑わせることと
野球、ドッジボール、サッカーなどで、自分で言うのもなんだが、ちょっとした人気があった。野球はピッチャーかショートだった。背が低かったので「ショート」と先輩にいじられたりした。
勉強のほうはふつうだった。数字で言えば、3がほとんどでぱらぱらと4があった。ところがおわらいとスポーツの威力はすごいものである。たしか、4年生のときの一学期に学級委員という、昔でいう級長選挙が行われたが、ぼくが選ばれた。それが5年生、6年生と続いた。たしか二学期、三学期はべつの人に交代したのだが、常に1学期にダントツで選ばれた。どの人の人生にもあの頃が一番という時期があるとすれば、ぼくのばあいは、断然小学生時代だ。
中学生になった。春の身体測定はいやな予感がした。身長がぜんぜん伸びていない。6年生のときに女の子から、もっと大きくならないと小学生と間違えられるよ、などと脅されていた。計測結果はなんと139.5cmだった。全校集会などで列をつくると前から2番目である。うしろには足がすらりと伸びた背の高い連中がいたが、前から見ると遠くにかすんで見えなかった。
中学1年で異変が起こった。学級委員選挙で選ばれなかった。3つの小学校の生徒が集まって中学生になる。だから、ぼくを知っている子は3分の1しかいない。だが、それだけではない。中学では、小学校みたいにお笑いと草野球では人気者にはなれないのだ。何よりも受験体制の重圧がずっしりかかってきた。すると、進学塾に通う秀才が学級委員になった。学級委員は秀才で背が高くないと見ばえがしない。これはぼくを苦しめた。背は低い、成績はあいかわらず中のままである。人気もがた落ちだ。
中一の秋になった。先生たちは、春以上に受験モードで働くようになった。とくにN塾という町で一番の進学塾に通う連中が全クラスの征服者となった。先生たちは、このグループのなかから有名高校と工業高等専門学校に合格させることを天職にしているみたいだった。先生が授業後歓談するのはきまって塾生たちばかりであった。
教室を西に傾いた秋の柔らかい日差しが照らしていた。毎日6時間の授業がおわったあと、学級委員の司会でホームルームが開かれる。伝達事項のあと、決まって、皆さんの方から何かありますか、と振って来る。むろん誰も手をあげたりはしない。それが決まりででもあるかのように年中何事も起こらず、帰宅するか部活へいそぐ。
だがその日だけは違った。ぼくはすくっと手を挙げた。
ホームルームが始まる前にぼくは成績が中か下に見える子に次々に聞き取りをしていた。「おまえ、学校面白いか?」百発百中だった。こいつらは、ぼくとまったく同じだ。受験体制の中で、頭が悪い方にランク付けされて、隅っこで小さくなっていたのだ。だから「面白くない」と全員が応えた。ぼくはその実態を事前につかんでいた。
司会がぼくを指名した。ぼくは言った。「先生たちは、成績のいいこばかりをかわいがって、えこひいきしています。ぼくらはちっとも学校がおもしろうない。不公平です」。
担任のO先生は顔は無表情だが、やや青ざめてみえた。N塾の連中は、こいつ何いいやがるという感じで下を向き、嵐が過ぎ去るのを待っているようだった。
このあと一体どうなったか。日ごろはおとなしくしている劣等生が一斉に発言をして、教室が騒然となった。ある女子は、私たちは制服しか着られないのに、女先生は赤いツーピースで教えているのは不公平ですなど言いだした。ぼくにすれば、ファッションの自由は今日の議題ではない。言い出せば男の子には坊主頭の強制は嫌だという問題もあげることはできた。だがどちらも別の日に言ってほしいと思った。だが、もうそんなジャンル分けなど意味をもたなかった。誰もかれもが学校生活の不満をぶちまける絶好の機会をえた。
司会者は前代未聞のアナーキーな状態を制することができず、まとめも方針もだせず、担任もぼくの発言について何一つ言わなかった。それで、その日のホームルームが終わった。
受験体制の「えこひいき問題」は、その後二度と扱われなかった。たぶんあの場にいた連中も忘れただろう。むしろ、受験体制は2年生、3年生へと重圧を増した。
もしも、本当に良い教師なら、この問題を逃さなかっただろう。今日は大変重要な問題提起を竹内はしたね。その他の発言も重要です。教員のえこひいき、ファッション、男子の坊主頭、これらは別々の問題なので後日じっくり話し合いましょう、とまとめるだろう。そして教員のえこひいきが真か偽か、職員会議で話し合い、結果を生徒に報告するのが至当だろう。しかし、担任はどの問題についてもまったく触れず、ごっちゃの発言はごっちゃのまま風化するにまかされた。民主主義を学ぶ最高の機会を教員もぼくらもみすみすスルーした。
このために、ぼくはその後屈折し、外面的にではないが、不機嫌になった。それでも、ぼくは、ぼくだけはこの日の出来事から重大な教訓を得た。抑圧されたものは多数存在すること、そして、その抑圧を覆すためにはもの言わぬ者らが口を開かねば問題が露呈しないこと、抑圧された多数者側に立てば、秩序を変えることは可能だということ、である。
このとき、大人になったら何をするかを決めていないし、未来は五里霧中だった。しかし、後から見て、これはぼくが研究者になっていくうえでの原体験となった。13歳のある日の出来事はぼくの一生の方向(職業ではなくて)を決めるような大きな事件だったのである。







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