たった一つの地球人の思想史
- 竹内真澄

- 5月30日
- 読了時間: 47分
更新日:6月11日
2026年5月30日 「世界資本主義の利潤率低下と軍事化
━ ひとつの試論 ━ 」
はじめに
私はかねてから、21世紀の戦争は利潤率の傾向的低下と何らかの相関(あるいはより強く、因果連関)を持つのではないかと思ってきた。しかし、それをどう道筋をつけて言語化できるか、よくわからないままウクライナ戦争やガザ攻撃の悲報を見て、数年経た。この問題意識は、身の回りに同じようなことをいう人もいないために、忘れがちになった。しかしながら、今の発達したネット社会でなら、工夫次第で欲しいものを取り出し、道筋をつけることができるのではないかとも思う。本稿の課題は一言で言えば、世界資本主義の利潤率の低下傾向の中にわたくしたち人類がすっぽりくるまれていること、またそれゆえに、戦争に反対したり、平和を希求したりするという日常の市民の行為が、利潤率との関りにおいて、いかなる歴史的可能性をはらんでいるかを知ることにある。
1.いわゆる利潤率の傾向的低下と軍事化の関係について
ともかく、上に述べた問題意識でAIにグラフを作成させてみたら以下の図1が得られた(1)。

図1が示しているのは、二つの線の相関である。一方で平均利潤率は傾向的に低下しており、他方軍事費は増大している。相関はあくまで相関であり、因果関係ではない。ところが、すでにP・スウィージー、P・バラン、少し後にはE・マンデルが利潤率の低下が軍事化の原因になることをかなり説得的に論じた。このことを参照するならば、相関関係を因果関係として読む仮説を強化できるのではないかと思われる。一応形式的には第一に、軍事費が増大したから利潤率が低下したと読む。第二に、利潤率が低下したから軍事費が増大したと読む、という二つの可能性がある。しかし、いまその他の第3の要因(たとえば国際関係や政治家の好戦度など)を捨象し、利潤率と軍事化の因果関係に焦点をあてるならば、第一の解釈には、既定の資本主義論から見て無理がある。なぜなら軍事費を増大させることがもし利潤率を下げるのであれば、資本主義国家はそうした策をとろうとしないはずである。それにもかかわらず万が一にもそういう選択をとることがあるとすれば、それは常軌を逸したばあいであって、たとえば交戦中ならば、やらざるをえないこともあろう。だが平時に、長期にわたって国家が自覚的に利潤率を下げる政策をとるようなことがもしあれば、およそ国家として失格である。財界もそれを許すまい。ゆえに、第二の解釈こそが真実という仮説を立てることができる。すなわち、利潤率が下がるという事態ーそれはいわゆる利潤率の傾向的低下の法則と言われてきた事態であるーをいくぶんかでも食い止めるために軍事費を増大させる、という因果関係がより実態に近いという仮説を考えることができよう。第二の解釈をとるほうが合理的な推論であり、図1は、世界資本主義の平均利潤率の長期的低下と軍事費増大との間に顕著な負の相関が存在することを示している。
この相関は、バラン、スウィージー、マンデルらが理論的に提起した「利潤率低下→軍事化」仮説と整合的である。以下論じるのは、仮説を現代的なデータでどこまで再現できるかという点である。そのうえで、もしも、かなりの程度まで仮説が正しいとすれば、平和を求める勢力が、現代的に考えておくべき論点がどこにあり、平和運動が、利潤率とのかかわりにおいて、いかなる歴史的可能性を開くかについても、予備的に研究してみたい。
さて、図1は世界資本主義総体の動きである。ゆえに、個々の国家にとって「総体」の動きは外的環境のように見える。「総体」はまさに適応すべき所与の条件である。しかし、個々の国家は、実は「総体」の一部をなすプレイヤーでもある。そこで国民国家が、固有の事情によって利潤率の傾向的低下に対して軍事化で応じることがありうるならば、「総体」の動きは漠然とした「総体」の傾向ではなくて、個別国家が利潤率の低下を相殺するべく軍事化に向かう衝動を隠しもって行動することの結果であるかもしれない。たとえば、ある国家が利潤率の低下に悩んでいるばあい、国際情勢に適応するだけでなく、むしろ内発的に軍事化をなしとげたいという衝動を抱くことが容易に推論できる。だから、森の「総体」を見た後、木から森を見るべきである。
2.木から森を見る
そうであるならば、森を見て木を見ず、ではまだ不十分である。本稿についていえば、すでに世界資本主義の総体を確かめた以上、こんどは森の木を見なくてはならない。一つ一つの木にあたるのは、アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、北欧、日本、韓国といった主だった国民経済である。これらの国が抱えている「衝動」を具体的に見たほうがなにかとイメージがわきやすかろうと思う。図2、3→


図2によればアメリカの平均利潤率は傾向的に低下した。図3のポスト冷戦期・新自由主義回復期を見ると、利潤率は反発して高くなった。これはロシアと中国が世界資本主義に本格的に参入した時期であり、とくに中国の参入が平均利潤率を押し上げたのではあるまいか。好影響は2000年までつづく。まさにこの時期に軍事費は下がった。これは軍事費の実額の低下をあらわしている。これをどう解釈すればよいか。軍事的緊張が緩和されたために、軍事費を減らすことができたという事情はあるだろう。これはいわば純政治的原因である。だが、本稿は経済が政治の規定要因であるという筋を重視するから、もう少し考えてみる。すると、利潤率の低下を軍事費で代替する必要性が落ちたから、その影響が出たと言えるかもしれない。いずれの解釈も否定できない真実味があるから、ここでは指摘するにとどめる。さらに先の時期に進むと、ポスト冷戦・ネオ・リベラル回復期が終わるころ、平均利潤率はふたたびジグザグをはらみながら低下し始めた。こんどは徐々に軍事費が上昇する。この時期は、いわゆる対テロ戦争をアメリカが開始した時期である。アフガニスタンやイラク戦争があった。純政治的な軍事的緊張が高まったせいだ。しかし同時に、この時期は利潤率がまた低下し始めてもいる。であるから、ポスト冷戦・新自由主義回復期とはまったく波形が逆模様であるが、やはり利潤率が低下し始めると、軍事費を増やすという因果関係が隠れているようにも思われる。ゆえに、慎重に言うならば、利潤率が上がれば軍事費は下がり、利潤率が下がれば軍事費は上がる、という法則が存在する可能性を否定できないように思われる。図4→

図4は図3と波形が似ているが、こちらは平均利潤率を指数で示す。指数が如実に示すのは、平均利潤率が100から40まで大幅に低下したということである。このように、平均利潤率は冷戦期に下がり、ポスト冷戦期・ネオリベラル回復期にいくぶん上がり、2000年以降ふたたび下がる。総資本は、利潤率の低下に直面するたびに絶えず軍事化を求める衝動をもつ。この意味で利潤率→軍事化という法則は否定できない。実際、1950年代から、オイル・ショックとソ連崩壊期を除いて、一貫して軍事化を進めてきたというのが実態である。図5→

図5に見るように、アメリカの防衛産業の利潤率は歴代政権の保護をうけて、全産業の平均利潤率を常時上回っており、防衛3社の平均利潤率は次第に全産業利潤率とのギャップを鋏状に拡大しつつある(2)。
なおここには次のようなメカニズムがある(PDAとUSAIの二つの方式という)。紛争地の政治家(ゼレンスキー)がアメリカからの武器援助を請うたばあい、米側は在庫の武器(政府の支払い済)を援助国に対して渡す(PDA)か、または防衛産業に新規発注をおこない、国税を使って防衛産業製造の武器を買い、紛争国に渡す(USAI)。トランプ大統領は「Make America Great Again!」と叫んで、アメリカ産業の平均利潤率低下に歯止めがかからない苦境のなか白昼ピストルを撃ちまくるクレイジーな警官(わかる人にはわかる比喩)である。そして、こともあろうに周到に国民を軍需産業の育て親にしていくのである。
重要な点を付け加えておくと、トランプが地球温暖化はフェイクだと主張し石油に固執するのは、非科学的に見える。しかし、彼のデマは現実に根ざしている。図6→

図6にみるように、アメリカの石油資本の利潤率は一般産業のそれよりも高い。アメリカの戦闘機、爆撃機、空母、ミサイル輸送、兵站はすべて石油と切り離せない。むろん、まだEV自動車の比率はさほど高くないので、自動車産業を保護するうえでも石油産業の利潤率は高めで推移するだろう。たしかに利潤率の差は縮まりつつあるものの、まだ石油資本の高率は続いている。こうした事情をトランプはわかっているから、アメリカの国家意思を利潤率に従って作動させることを躊躇しないのである。世界中の環境保護団体から見ると、アメリカの「掘って掘って掘りまくれ」という石油回帰政策は狂気の沙汰に見えるであろうが、トランプが決める国家意思がたとえ科学的合理性に著しく反するとしても利潤率上の合理性があるかぎり、環境保護などは後回しにされる。
では、視点を変えてロシアがどういう事情にあるかを見ておこう。むろん、ロシアがウクライナ戦争を起こした原因がどこにあるかもこれでおおよその見当がつく。図7→

ロシアは2022年にウクライナ戦争を始めた。これが国連憲章違反の暴挙であることはそのとおりである。では、なぜ暴挙をしでかすのか?図7は、ロシアが旧ソ連崩壊後、世界資本主義の一員として国際社会に復帰したものの、2000年まで利潤率の低下に悩んでいたことを示す。ロシアは当初シカゴ学派の経済顧問を呼び、新自由主義政策への転換をめざした。にもかかわらず、2000年まで経済の衰退が収まらなかった。そこで早くもB.エリツィン(ロシア初代大統領1991~1999年)はそれまで減らしてきた軍事費(指数)を1995年から増加に転じさせた。2000年から2010年まで経済は上向きになった。その一因は軍事予算増大にあった。だが、後を継いだプーチン大統領も同じ政策を維持した。ところが2010年から現在まで、一時上がった利潤率がふたたび低下し始めた。プーチンは、石油産業に頼りながら防衛産業の利潤率を高めに維持している。2014年2月下旬、ロシアによるクリミア半島侵攻は、ウクライナが一度親ロに傾いた後、真逆の方向へ転換したことにロシアがつけ込んだものだ。まさに2010年、ロシアは利潤率低下に直面していた。プーチンがあえて国連憲章を破ってクリミア侵攻をしたのは、利潤率低下に加えてウクライナ側に大きな動揺と国論分裂の兆候が出たからであった。侵攻の理由を利潤率の低下だけから説明すべきではないが、そこにウクライナが親ロか親EUで混乱をきたという契機が与えられた。
ウクライナは一見すると売られた喧嘩に受動的に応じただけで悪くないかに見える。だがウクライナにも国民不在の戦争衝動がある。ロシアと同じような、弱い経済と強い軍事依存という体質があり、ここに民主主義の脆弱が加わると戦争が起こりやすいのである。ウクライナに即していえば、EUとロシアの境界に立地する国家が、中立・全方位外交をとらずに「あれかこれかEntweder-oder」に踏み込むことは危険である。ヤヌコーヴィッチ初代大統領にせよゼレンスキー大統領にせよ、小国政治をどう操縦するかという大局観があるのかどうか筆者は疑う。ウクライナ側の事情を同じ視点で確認しておこう。図8→

ウクライナの状況を「利潤率と軍事費」一般の理論で説明すべきではあるまい。交戦中だからだ。小国が大国と全面戦争に入ってしまったら、利潤率低下を相殺させるため(●●)に(●)軍事費を増やすなどとは言っておれまい。むしろ図8で見るべきは、2010年まで利潤率がマイルドに上がってきていたのに、低下し始めたこの2010年という時点のもつ意味である。まさに2010年は利潤率低下と軍事費増大へ向かうか否かの決断の時期だったのだ。それはEU加盟か親ロシアかで国論が動揺、決裂した2013年より3年さかのぼる時点であった。ヤヌコーヴィッチ大統領はこの時点にこそ細心の注意を払わねばならなかった。ところがまさにここで彼はEU加盟をやめて親ロシアをとるという大問題を提起したのである。二者択一を先延ばしにしてじっくり国民的に議論する時間を稼いでもよかった。初代大統領の急な親ロ路線に反発したゼレンスキーが、こんどは真逆の親EU路線を出してしまった。ロシアの国連憲章違反を正当化するものではないが、ウクライナ国民の多くは親EUを歓迎したかもしれないが、ロシアの不安を煽り、ロシアの暴走の遠因をつくった節がある。2014年のクリミア侵攻、2022年のキエフ侵略へと続いたためにウクライナ戦争が勃発した。日本の1960年代は軍事負担の少ない経済成長路線にあった。ウクライナは中立を維持することで日本型の経済発展を選びえたのではあるまいか。それが利潤率をいくぶん下げたとしても、より民需中心の経済を建設する余地がこの時点ではあった。現在の状態は、ロシアの侵略によって、民需部門が壊滅的な打撃をこうむり、いわば戦時ゆえの軍事部門肥大国家になった状態である。まさに敗戦前の日本のような窮状である。ゼレンスキーには厳しい評価になるけれども、市民の命を犠牲にして、西側の武器支援に頼り、ますます軍需経済の泥沼に沈み込んでいると言うほかはない。これが賢明な親EU路線であったか、ウクライナ国民はきびしい総括を迫られる。
次に、興味のあるのは中国である。図9、10→

中国については、図9からわかるように、1995年ないし2000年頃からの軍事費が急増した。1978年から準備され、公式に社会主義市場経済にはいるとされたのは1992年であった。そうなれば資本主義一般の利潤率の傾向が中国にも現れてくる。とくに2000年以降、利潤率は傾向的に低下しつつあり、中国政府は防衛産業の利潤率を高めに維持している。1970年に文化大革命が終わり、利潤率が上向きになり2000年にピークに至ったあと、ただちに利潤率は低下してきた。図10をみると「赤い資本主義」は「資本主義一般」と同じように、平均利潤率を上回る防衛産業の利潤率の鋏状のギャップを拡大させている。そうであるとすれば中国の「赤」は少し色が濁ったのか色褪せたのか、ともかく「資本主義」一般と同化するようになりつつある。わたくしたちは、いたずらに優越感や恐怖心をもつことなく、我が国と同一の病理(利潤率の低下を軍事化によって代替する戦略)を持つ者同士として平和の主体になろうと励ましあわねばならないのかもしれない。
次に、日本、イギリス、北欧諸国を見ることにしよう。図11、12、13→

3つの図のいずれにも共通するのは日英北欧どの諸国も利潤率の低下を免れないということ、にもかかわらず平均利潤率を防衛産業のそれが上回ること、である。この意味で、平和憲法をもつ日本も福祉国家の評価が高い北欧諸国も、資本主義国家である限り、絶えず戦争国家への衝動をもっている。最近の出来事でわたくしが驚いたのは、中立国を誇ったスウェーデンがあっさりNATOに加盟したことだった。それはある程度図13でわかる。またグリーンランドをアメリカにとられそうになったデンマークが戦艦を北海に出動させたことも大きい意味を持つ。福祉国家は幸福度が高く、ジェンダー平等を誇る。しかし、小国なりに幸福度の維持に努力してきたことは立派だが、福祉部門は低利潤率であるがゆえに、大国が横波をたてて揺さぶってくると、政治家はそれを口実に軍事化へ進みうる、ということである。国民の高い福祉コンセンサスがあっても、それを守るのは並大抵のことではない。とくに北欧の防衛産業の利潤率が平均利潤率を鋏状に引き離しつつある。福祉国家を守るということは、安易に防衛産業の高利潤率に手を出さないということでなくてはならないのに、それが事実によって裏切られつつある。現実の軍事費もまた伸びてきている。わたくしは「北欧よ、おまえもか」との不安をぬぐえない。
日本に関してつけ加えると(図11)、1980年ごろに防衛産業の利潤率が突出した。これは、中曽根康弘の防衛産業保護による。そしてまた、2020年代にふたたびぐんと防衛産業の利潤率が上がっているのは、安倍、高市政権の仕業である。
ここでEUとNATOが抱合し、軒並みGDP5%の軍事予算をとると合唱した件を考えておこう。彼らは、ウクライナ戦争の近隣におり、またいつ世界の警察官であるアメリカ軍が手を引くか、怯えている。だから、トランプの鼻息に気押されて仕方なく軍事化に踏み切ったのだろうと見る向きもあるだろう。だがそれは間違っていると思う。図14、15、16、17
→

EUを動かす有力国家のうちドイツ、フランス、オランダ、イタリアを見ると、フランスのような伝統的帝国主義国(戦後アルジェリア、ヴェトナムで植民地戦争をおこない、太平洋で核実験をおこなった)は1995年頃から一貫して低利潤率高軍事費型である。これに対して、第二次大戦の経験から軍事化に対して慎重であったドイツとイタリアが2000年代になってはっきりと軍事費を増やし、現代帝国主義の一員となりつつある。グラフの形によるだけであまり実質的な意味はないかもしれないが、5か国をみると英仏は伝統的帝国主義国家(低利潤率高軍事費型)であるのにたいして、独蘭伊は2000年代に平均利潤率と軍事費の二つの線がはじめて交差した。交差そのものに意味はないが、両者の鋏状差が拡大している。2015年から2025年の幅でみると、どの国家も共通に高い軍事費の増加が利潤率の低下を逆転させたり、いくぶん相殺させた。さらなる専門的な分析を要すると思うけれども、これはただの相関ではあるまい。
原理論的には、<利潤率の低下→民間資本の投資が停滞する→過剰資本処理が課題となる→物質的生産から乖離した金融資本の運動が活発化する→さらなる過剰資本の処理が課題となる→財界の政府への要望が強まる→政府が軍事支出を増やす→防衛産業の高利潤が維持されさらに軍事化が進行する>という因果連鎖が高い確率で推定できる。端的にまとめれば、利潤率低下が軍事化を促す条件の一つである。こういうことがもし言えるならば、この論理的推論によって、上に見たグラフを大観すれば、ヨーロッパ諸国はどれも共通して利潤率の低下に悩んでおり、それを軍事費増加で切り抜けようとしていることは明らかである。トランプの威嚇に押し負けたように見えるが、実はトランプの威を借りてこれまでやれなかったことをやり始めたと言えるかもしれない。これはEU社会権の普遍主義を危機にさらす兆候である。社会権は、生存権の系列である。それは平和的生存権の基礎である。EU社会権、日本の憲法第9条が同時に瀬戸際に立たされるのはなぜか、という問題をこのような論理で位置づけることが今こそ重要なのである。だから、世界中の左翼はこのことを十分自覚しなければ、国民が感染しやすい排外主義と闘えなくなる。
3.現代世界の平均利潤率と防衛産業の利潤率
要点をまとめる。第一に、世界資本主義が総体として利潤率の低下を抑え込み、すこしでも高利潤率を維持したければ、軍事費を増加させて防衛産業の高利潤率を守り、いくぶんかでも過剰資本の処理に道を開かねばならない。だが、これは万病に効くわけではない。世界が総体として、民需の停滞を温存し、過剰資本を軍事にふりむけると軍事偏重の社会ができてしまう。ある程度までは国際関係を抑止論によって抑え込むことはできるだろう。しかし、民需のなかでもとくに大切なのは福祉、教育、医療のように人間性と生命にかかわる分野である。こうした分野を停滞のうちに放置すれば諸国民は不満を抱える。ところが、資本主義はこの不満を解消できない。なぜなら福祉・教育・医療はいずれも低利潤率である。だからそこに資金を誘導することを本質的に嫌うのである。
けっきょく軍需と民需のジレンマを軍需で圧倒するためには、熱戦に国民を臨界させるのが一番簡単な解決法である。抑止論をふりかざした恐怖の均衡論が出てくる背景はここにある。こうした世界は決して正常ではない。だが、こうした不正常を正当化する狡猾な総資本の戦略は常に隠れている。このことをわたくしたちは忘れてはならないのである。
第二に、森のなかの木を詳細に見ると、ここで採りあげた諸国がいずれも低利潤率と軍事費増の代替戦略をとろうとしていることがわかった。国連憲章が簡単に無視され、国連の警告をどの国の首脳も軽んじるのはいったいなぜであろうか。それは、個々の国が誰かの動きを口実にして軍事化へ流されているからである。国連は頼りにならないと人々が思えば思うほど、内向けのナショナリズムは強化される。典型はアメリカである。アメリカは、世界中に顧客をもつ強力な防衛産業を擁している。ゆえに米軍を撤収する可能性に言及すると武器の海外市場を広げることができるのである。外国向け武器販売で国内防衛産業の利潤率を引き上げることができる。ロシアや中国も本質的には変わるところがない。アメリカ、ロシア、中国は似た者同士であり、領土拡張をしないという国連憲章をあからさまに蹂躙した。中国の南沙諸島基地化などはこの近似値である。国連憲章違反が広がる背景に、世界資本主義総体の利潤率の低下があること、それを相殺したいという願望があることを見過ごすことはできない。
第三に、米中ロといった軍事大国以外の欧米日北欧諸国にも、同じ傾向があることがわかる。かつては平和の使者であったスウェーデンが中立を捨て、NATOに加盟したのは衝撃である。イギリスのEU離脱は移民問題に直面して社会権の普遍主義を放棄した結果だ。またGDP5%の防衛費にNATOが合意したことや日本の維新や参政党のような排外主義的現象も同じ傾向の一環である。戦後日本社会はアメリカによる民主化と非軍事化が1947年に逆転したことを根幹に持っている。反民主化と軍事化の「押し付け」によって、ますます憲法が周辺化される。アメリカは一貫して1947年以降、非民主化と軍事化を「押し付け」てきた。これに迎合しているのが自民、維新、参政党である。国会の多数が改憲勢力になったのは、議員政党という日本の政党の特徴が関与している。ここには、民衆が不在のため、世論の接続面が狭い。そのぶん、利潤率を軍事で代替する考えが独走しやすい。高市首相は、「我が国をとりまく国際情勢が激変している」から、国防を強化すると言う。小泉進次郎防衛大臣は、「防衛と経済の好循環」を生み出すと述べ、防衛産業とは「人の命を守る産業」であると言う。総じて、国家間の壁を高くし、「生命観」の倒錯が進行している。
以上のように、大小さまざまな諸国家の状況を考慮したうえで、日本と世界を貫通するところの、基本路線の混乱はいったいどこから来るか、を考えてみたい。この混乱は偶発的なものではなく、孤立的現象ではなく、もっと太い本流となってきている。図18→

ここに16か国の平均利潤率と防衛産業の利潤率を一枚にまとめたグラフを並べてみた。それらのお国柄はまことに多様なのだが、それにもかかわらず利潤率に還元して比較すると共通した線形が現れる。すべての国民国家の全産業平均利潤率は、例外なく傾向的に低下している。しかもすべて同じように、途中で防衛産業の利潤率と交差し、追い越されてしまう。各国首脳がどの程度自覚しているかは別としても、為替相場、株価、などに一喜一憂する現代政治の在り方は、目先の市場の動向に過敏である。そのなかでも利潤率志向は最も大きい誘因であると思われる。なぜなら、利潤率の上昇は、投資、株高、税収、賃金支払いの可能性を見込め、労資対立緩和、福祉国家維持、中間層育成の好条件になりうるからだ。政治家は、「成長」「雇用」「国際競争力」「安全保障」「イノベーション」などの多様な表現を用いるが、実のところは「利潤率」と言いたいのである。しかし、そういう表現をとるとただちに「資本家重視」「富裕層優遇」「会社側の番犬」という非難を浴びやすいので、それを言えないのである。そして密かにその好条件を政治家が追うにもかかわらず、現実はますますその願望を裏切るのである。この我慢の末に、政治家と財界は手のひらを返すように「強兵富国」路線へ転調しやすいのである。
こうして、利潤率志向の世界は日に日に深い危機へ諸国民を導くものである。現代世界を①先進国、②拡大BRICS、③東南アジア、④アフリカ(南アを除く)、⑤中南米(ブラジルを除く)に分けて、平均利潤率と防衛産業の利潤率の図を描いてみよう。図19→

現代世界を5類型にわけて、どの類型が戦争衝動を強く持つかを調べる。基準は、平均利潤率よりも防衛産業の利潤率が高いほど、それだけ戦争衝動が高いと見なしうるだろう。こういう基準から見ると、戦争衝動が最も強いのは①先進国であり、続いて②BRICSである。他の3類型のふたつの利潤率はさほど乖離していない。それだけ戦争衝動は弱いということである。5類型で振り返ってみると、21世紀の戦争は、先進国かBRICSのいずれかの国が仕掛けたものが圧倒的に多かったという事実がある。図19はこの背景を裏づけている。
以上みてきたように、世界資本主義は、総体として利潤率の低下に苦しんでいる。なかでも先進国とBRICSの悩みが深く、それだけに戦争衝動が強い。それゆえに、どの国家も「国際情勢の激変」さえあればそれを口実に軍事拡大したいと思っている。そもそも国際情勢は所与のものではない。国際情勢を日々更新しているのは個々の国家である。いかなる国家も後手ではなく、先手のプレイヤーである。先進国首脳会談で、いわば非合法で世界を指導している連中は、実は最も戦争衝動が強いふたつの類型出身者であり、他の3類型はかなりの程度「平和主義者」なのである。土俵の外に追放された「平和主義者」の諸国がもっと強い発言権を持つならば、戦争好きの2類型を制御できる可能性がある。そのために①②の左翼は奮闘する義務を負うている。
4.戦争国家/福祉国家の選択の意味するもの
ここで大事なことをつけ足しておこう。利潤率の低下が傾向的に進む、というのは事実としてある程度避けられないことがわかった。そこで現実に戦争国家化の衝動が蓄積されつつあることもわかった。武器を発注すれば、防衛産業が潤い、民間資本の過剰資本の一部が高利潤の投資先を見出す。しかしながら、武器はひとたび倉庫に貯まれば、維持と廃棄コストが増え、退役兵器の解体、無害化、保守に莫大な予算がかかる。だから、政治家は表立っては言わないが、ある程度の軍事的緊張、限定的な紛争は、兵器の循環を促し、武器の「無駄」化を回避させる。すなわち、戦争国家はますます熱戦国家に転化しやすい条件をつくりだす。
この愚を避けて通ることはできるであろうか。軍事ではなく、エッセンシャル・ワーカ―を含む福祉、教育、医療部門を拡充すれば利潤率の傾向的低下を止めることはできるだろうか。これらの部門は、利潤率が低いがゆえに新自由主義のもとで抑制されてきたのである。→図20

図20に見るように、福祉・教育・医療分野の利潤率は、常時全産業の平均利潤率よりも常に下回っている。だから、利潤率引き上げの有力な対策にはならない。もし戦争国家を福祉国家に置きかえれば、利潤率の傾向的低下が止まるというわけではない。それどころか、一層低下が進む恐れは高いだろう。福祉、教育、医療部門でも、すこしずつ機械化やロボット化は進行するだろう。利潤率の傾向的低下は、戦争国家以上に福祉国家でこそ一層激しく進行するであろう。これは避けられない。
もともと1970年代以降の新自由主義は、それまでは公的部門に属していた福祉・教育・医療分野を企業化した。企業進出の場を与えてやったのはなぜだろう。私見では、公的部門に福祉・教育・医療分野が集中していくと、税金分割闘争が熾烈化し、政治がもたないという予想があったのと同時に利潤率がすでに低下してきていたので民間投資先を与えようとしたのではないかと思う。一石二鳥を狙ったのである。しかし、一石二鳥は失敗した。福祉・教育・医療は生命とその発達にかかわるエッセンシャルな基幹分野であるから、利潤主義と新和性が低い。だからこれらの分野は荒れ果ててゆく。しかも、需要は上がることはあっても下がることはないので、政府の援助を求める声はますます高まり、けっきょくのところ、税金分割闘争(大砲かバターか)は昂進する。
だからいわゆる「福祉切り捨て」が長続きできない。そのなかで「福祉国家の再建」を訴える国民の世論は、資本主義国家にとって非常な難題をつきつけることになる。「大砲よりバター」と世論が言えば、バターを選ばねば票にならない。しかしそれでは利潤率は下がる。それゆえ、利潤率を上げようとすればバターを諦めさせるしかない。票と利潤率のジレンマのなかで各国政治家はレトリックで誤魔化すしかない。ときには軍事的緊張を煽り、ときには福祉は悲願だとも言う。政治家の言葉が奇妙に空虚なのは、こうしたジレンマが底流にあるからなのだ。
わたくしたちはこのジレンマを見据えておく必要がある。そして惑わず選ばねばならない。もし福祉国家をもとめる実践的運動を展開すれば新しい地平を開くことができる。現代の福祉国家化は20世紀における福祉国家化とは性格を異にする運動である。新自由主義以前の福祉国家は、新自由主義以後の福祉国家と同じものではない。それはいったい、どういうことであろうか。
新しい福祉国家は前の福祉国家とは違う。第一に、世界資本主義の利潤率低下に対して今度は散発的にではなく、福祉国家が連合しあうことで一層その低下に加担するという性格を帯びざるを得ない(3)。利潤率を自覚的に下げるというのは読者には違和感をもたらすかもしれない。しかし、これは動かせない定言命題である。言い換えるならば、利潤率を犠牲にしてでも生命を守るという、価値観の選択を提起するだろう。利潤率を上げることが幸福の本質であるのか、それともたとえ利潤率が低くても、否、むしろ反利潤率的な「人間的必要」を満たすことのほうが幸福の本質であるのか、という争点を世界に向かって俎上にあげるだろう。第二に、この価値観上の対立は、より一層軍儒部門を拡大するのか、それとも民需部門を拡大するのか、という選択肢を国民に提起するだろう。このばあいの民需はすなわち、福祉、教育、医療の比重の高い民需構造を維持することだから、すぐれて産業構造(具体的な歴史的労働過程)の選択である。国民はどういう職場で何をつくり、どういうサービスを享受したいのか、という構想をもたねばならない。これはすぐれて諸国民の未来展望にかかっている。
結論
ここから結論を述べる。世界資本主義がぜんたいとして利潤率の傾向的低下のうちに、現にある以上、いかなる諸国民も、それぞれの国民社会内で対外的、対内的な二つの論争点に直面し、それらを通過するに際して、利潤/人間的必要、軍儒/民需、人殺し/生命維持(福祉、教育、医療)のいずれに軸心を置いて生きるかを選択せざるをえない。客観的にみて、この価値観の選択が意味するものは、資本主義そのものの性格を根底的に変えるほど重大な可能性を孕んでいる。
一般に資本主義のもとで、労働過程は資本家によって専制的に編成されてきた。この専制なしには剰余価値を追求できないからだ。資本主義のもっともましな政治は民主主義的共和制であると言われる。政治の主体は民衆である(国民主権というかたちで)が、経済の主体は資本であって民衆ではない。むしろ民衆は、価値増殖のために編成された専制下で、資本主義的労働過程(コンビネーションという)を受容させられ、このことが絶えず歴史を一人歩きさせてきたのである。専制は体制を貫通してますます利潤志向、軍需志向、人殺し志向で運営される。専制下に置かれた民衆は死ぬほどこき使われるので、恐るべきこの現実を見てただ茫然としている。世界は21世紀になっていよいよ荒れくるい、かつまた逃れることができない惨状を呈している。だが、この惨状に直面したのは、新自由主義が到来して約50年経った後だったことを忘れてはならない。図21→

先進国が新自由主義に転換し始めたのは1970年代のことであった。図21はその効き目が世界規模で現れ、1980年から1995年まで利潤率をいくぶん上向きにさせるに寄与したことを示している。注射はたしかに効いたのである。と同時に剰余価値率をみると、1980年までは緩い右上がりであったものが、1980~1995年に急な右上がりになったことが見て取れる。つまり、1980年から1995年までの15年間にすさまじい強搾取が行われたことによって利潤率をあげることに成功したのだと見受けられる。そして1995年以降は、利潤率はふたたび下がり始めた。それゆえにまた総資本はかなり着実に右上がりの剰余価値率を上昇させていることがわかるだろう。
このように、利潤率低下を抑えたり、相殺すれば利潤量を確保できるのだが、そのためには懸命に剰余価値率をあげなくてはならなくなる。まさにこの動機が現代世界を動かしているのだ。
さて、本稿は「利潤率と軍事化」の関係をみようとしたものであった。そこに焦点を当てる以上、次の結論は動かない。すなわち、利潤率が下がるがゆえに人類は互いに武装し、その果てにおいて殺しあう臨界点まですすみ、時に熱戦をするのだ。しかし、ここにはもっと根本的な問題次元があったことを忘れてはならない。図21で見たように、新自由主義はたんに市場原理や競争や自己責任の強調ではない。それらすべてをつうじて剰余価値率を引き上げるという結末を狙うものであった。図22は,指数ではなく、実体的な率で示し直したものである。

図22は、新自由主義のカンフル注射が効いたことを実体のある百分比(%)で裏づけている。利潤率は一時的に1985年から1995年まで持ち直した。賃下げ、労働強化、非正規化、労組破壊、グローバル低賃金スパイラルなどが剰余価値率を押し上げた結果、利潤率が相殺されるどころか一時上がったのだ。しかし、効き目は永続しなかった。1945年から1980年までと同様の利潤率下落が再発した、これは新自由主義が新しい危機に直面したことを意味する。それをバージョンアップさせるための特効薬はない。ゆえに、いまだかつて見たことのないような鋭い剰余価値率上昇によって利潤量を維持しようとせざるをえない。すなわち、1995年以降、利潤率が低下するにつれ、剰余価値率はさらに上昇しつづけており、最新データによれば剰余価値率は272%まで上がった。『資本論』で剰余価値率100%を初学者は学ぶわけであるが、主として相対的剰余価値の追求により、見かけの生活はそれなりに大型テレビや携帯電話で飾られている。しかし、生活水準はプラトー状態か、もしくは下がってきており、剰余価値率は物凄い勢いで上昇しているのである。利潤率が下がるにもかかわらず剰余価値率が上がるのではない。利潤率が下がるがゆえに剰余価値率が上がるのだ。
これは何よりも長い目で振り返るならば、わかることである。そもそも新自由主義は、賃金抑制、労働組合の弱体化、規制緩和、民営化、福祉削減、非正規化、グローバル低賃金労働力の活用などを指す。もともと新自由主義は利潤率の低下を剰余価値率の上昇に転嫁させるために導入されたのだ。各個別資本は、利潤率が下がってくると利潤量を確保するために、個々に剰余価値率を上げるしかない。これを総体として加算すれば、新自由主義は資本主義体制を挽回させるためにまことに大きな寄与をなしてきたことを理解できる。
ここに本稿で主題としてきた軍事化の論理を重ねるとどうなるだろうか。新自由主義のもとで、人びとは死ぬほどこき使われ、剰余価値率の上昇と利潤率の回復に貢献させられた。だが新自由主義の舞台装置が確立されたとしても、効き目は徐々に薄れてくる。それでもいずれは利潤率が落ちてくる。すると全産業で平均利潤率の低下を相殺する手法が模索され、ますます剰余価値率を引き上げる努力が強化される。剰余価値率が上がれば上がるほど、それだけ一層購買力が相対的に落ちて、過剰生産気味になり、過剰資本は金融化、NISA、投機化へ流れていくが、それでも間に合わなくなる。ここでついに各国家は禁じ手の軍事化へ突入してゆく、といえる。いままでは、こき使われても我慢できた。しかし、利潤率がさらに落ちてくると一層強くこき使われ、それでも足りなくなって軍事費と兵役をも我慢しなくてはならなくなってゆく。すなわち、軍事費の増大は、利潤率を低下させないための循環のなかの一対策なのである。だがそれだけではなく、剰余価値率を引き上げるための国家的圧力を上げるものになってゆき、全世界的に見ると、まことに重苦しい軍事資本主義の影が強まり、大衆の疲労と貧困は吊り上げられていくにちがいない。
あらためて相互のモメントを有機的に考慮すると事態はこうなっているだろう。すなわち、企業内の資本専制を受容させないかぎり剰余価値率をあげることはできないが、そうするためには人間の従順さを可能な限り最大化させなくてはならない。教育やマスコミが総動員されていることはすでに承知のことである。
利潤率の低下を軍事化に代替する戦略は、本当は、利潤量を確保するために剰余価値率を引き上げる補償システムの一部をなすものであり、その局所的現象形態なのである。
このとき、「強くて豊かな日本をとりもどす」「日本人をナメるな」「防衛産業は人の命を守るための産業です」などの言説が流通するようになり、武器輸出が解禁され、日本版CIA設置、緊急事態法の設置などがもくろまれる。まさしく、働いて働いて死ぬか、それとも戦争で死ぬか、しか選択の余地がない社会がつくられようとしている。
筋書きはけっして解読困難なものではなく、むしろ平明でさえある。こうした一連の筋書きに従って、利潤率が下がれば下がるほど、それだけ一層剰余価値率は押し上げられていくだろう。
眼のまえの軍事化をどうやって人間的必要、民需、生命維持を志向する生産部門へ埋め込み、縮小させるかが日々問われるようになってくる。これは総体的戦略の局所がまさにその最先端で問い返されるということである。だが、局所的反転が意味するところは決して小さいものではない。なぜならば、それは、利潤を根本的動機とする生産システムの階段の最上段をこれ以上積み上げることは考えものであるという疑念だからである。本質上、この問題は資本主義的労働過程を利潤志向から人間志向へ、価値志向から使用価値志向へ、換言すれば資本主義的労働過程の編成機軸をどう構想するべきかという問題次元へはね返ってゆかざるをえない。
これはほかならぬ資本主義の根本的な転換を準備する。むろん、世界には多様な思想、多様な宗教、多様なイデオロギーがあり、人びとは「自由な思想市場」に囲まれて、自由に思想を形成する。それは結構なことである。だがいかなる思想的立場に立つにせよ、人類は総体として、軍需/民需、戦争国家/福祉国家、専制/自治、利潤/人間的必要といった一連の二者択一に頭を悩ませることになるのだろうと思われる。このことが多様な思想のもとで人類を一体化させ、連帯を義務づける(4)。いずれにせよ、利潤率の低下を剰余価値率の上昇によって補償するバーター・システムは、体制が続く限り、ほとんど際限がない。私たちが戦争、地球環境破壊、格差、生命再生産の危機に日々追われる真の理由はことごとくこのバーター・システムから来ている。そうであるだけに、私たちがますますこのシステムにピリオドを打つよう迫られることは確実である。
注
(1)本稿のグラフはChatGPTによって描かせた。根拠となる数値や典拠はその都度図の下部で説明した。私は、論理構成だけは自分に頼りたいので、技術処理のみをAIにゆだねた。
(2) アメリカを中心とする軍事投資が利潤率にいかなる影響をあたえたかを論じた著書としてAdem Yavuz Elveren,Heterodox Economics of Military Spending,Routledge,2025.を参照した。Adem Y. Elveren (2020): Military Spending and Profit Rate: A Circuit of Capital Model with a Military Sector, Defence and Peace Economicsをも参照した。エルヴェレンは、軍事化が利潤率の低下を相殺するということを実証的に明らかにした。マルクス学派の紹介もなされており、参考になる。本稿との関係で言えば彼は①軍事化→利潤率という点を実証した点で高い貢献をした。だが、本稿はむしろ逆の関係、すなわち②利潤率→軍事化という関係を重視している。私見では②が基礎で、そのうえで①を展開することが重要に思える。一層の深い検討が必要であろう。
(3) 利潤志向は、資本主義の本質から派生する一般的イデオロギーである。国民は、利潤率が低いよりは高い方が好ましいと考える習性を徐々に持つようにさえなる。すると、教育、福祉、医療などの低利潤部門を拡大することは、あまり儲からないことにあえて手を出す空費ではないかと思うかも知れない。しかし、こうしたイデオロギー的メガネを外してものごとを考えるならば、人間が天賦の才能を伸ばすこと、保育や介護、病気やけがを治療できることは本来の文明の目的であったはずである。もしそうであるならば、むしろ低利潤率部門を拡大し、あえて低利潤部門に投資を持続させ、低利潤の産業構造を建設することはまことに名誉なことなのである。したがってマルクスの利潤率の傾向的低下の法則に即していえば、この低下を一層加速させることが国民的な選択なのである。
(4) 日本被団協初代会長森瀧一郎氏(1901~1994年)が言ったとおり「核と人類は共存できない」。このことを誰が否定できるであろうか。象徴的な言葉の闘争においては、この格言に優るものはない。けれども、では具体的にどういう社会を建設すれば核のない平和な国際社会をつくることに貢献できるのであろうか。象徴的なシンボリックな闘争で勝利したとしても、それを実体の次元に定着させるのには、また別途の努力が必要である。本稿の考察からすれば、けっきょく、「資本主義と人類は共存できない」ということになるのではないかと思う。
*著者からのお断り。本稿はchatGPTを使ったという意味で、まことに試論的なものである。データの検証という点で、まだまだ不安定であり、本格的な意味での論文の要件を十分満たしているかどうか問題なしとしない。AIの成熟度が上がり、学界のAIへの態度が標準化するまでは、一切の引用をお断りする。
2026年5月9日 「利潤率の低下と軍事費の増大」
世界資本主義の利潤率低下と軍事費増大
私は計量経済学に精通しないが、ChatGPTを使えば簡単にグラフを作ってくれる。かねてから、21世紀の戦争は利潤率の傾向的低下と何らかの相関(あるいはより強く、因果連関)を持つのではないかと思ってきた。しかし、必ずしもそれを解明してくれる学者が見当たらない。それは身の回りにいないというだけかもしれないが、少なくとも日本ではお目にかからない。ともかく、こうした問題意識でグラフを作成させてみたら以下のようになった。

このグラフが示しているのは、二つの線の相関である。これを因果関係として読むためには形式上二つの可能性がある。第一に、軍事費が増大したから利潤率が低下したと読む。第二に、利潤率が低下したから軍事が増大したと読む。軍事費を増大させることが利潤率を下げるのであれば、資本主義国家はそうした策をとろうとしないだろう。もしやれば国家として失格である。財界もそれを許すまい。ゆえに、利潤率が下がるのをいくぶんかでも食い止めるために軍事費を増大させる、という因果関係が残る。第二の可能性を選ぶのが合理的な推論であり、実態もまたそちらを裏づけていると思われる。
ここにあげたグラフは世界資本主義の総体の動きである。このなかで、日本もまた同じ傾向を示している。高市首相は、「我が国をとりまく国際情勢が激変している」から、国防を強化する、と言う。小泉進次郎防衛大臣は、「防衛と経済の好循環」を生み出すと述べ、防衛産業とは「人の命を守る産業」であると言う。一言で言えば、軍産複合体を発展させることを、血税を使ってやるべきであるというところが一貫している。
しかし、グラフで見る限り真実は逆であろう。欧米日露中を含む世界資本主義の動きが、総体として利潤率の低下に悩んでいる。それゆえに、どの国家も「国際情勢の激変」さえあればそれを口実に軍事拡大したい。そもそも国際情勢は所与のものではない。国際情勢を日々更新しているのは個々の国家である。日本は、後手ではなく、先手の一員である。
もう少し根本的なことをつけ足しておこう。利潤率の低下が傾向的に進む、というのはある程度避けられないとしよう。軍事ではなく、エッセンシャル・ワーカ―を含む福祉、教育、医療部門を拡充すれば低下傾向を止めることはできるだろうか。これらの部門は、利潤率が低いがゆえに抑制されてきたのである。だから、利潤率引き上げの有力な対策にはならない。軍事国家化を福祉国家化に置きかえたとしても、利潤率の傾向的低下は止まらない。それどころか、一層低下が進む恐れは高いだろう。
一般に、生産手段の機械化が進めば進むほど資本の有機的構成が高まり、M(剰余価値)÷(C固定資本+V可変資本)=利潤率は下がる。福祉、教育、医療部門でも、すこしずつ機械化やロボット化は進行するだろう。利潤率の傾向的低下は、軍事国家以上に福祉国家でこそ一層激しく進行する。これは避けられない。
詳細は省くけれども、1970年代からの新自由主義は、こうした低利潤率部門をカットする狙いで導入されたわけであるから、軍事化の方向に進むのは、ある意味では当然である。
そうだとすれば、現在の時点で「福祉国家の再建」を訴える国民の世論は、資本主義国家にとって非常な難題をつきつけることになる。「大砲よりバター」と世論が言えば、バターを選ばねばならないが、それでは儲からない。しかし、利潤率を上げようとすれば、バターを諦めさせるしかない。これは票と儲けのジレンマである。各国政治家はかかるジレンマをレトリックで誤魔化すしかない。政治家の言葉が奇妙に空虚なのは、これによるのではあるまいか。
ゆえに、このジレンマを見据えて福祉国家をもとめる実践的運動が重要度を増す。しかしながら、それは20世紀における福祉国家化とは性格を異にする運動である。新自由主義以前の福祉国家は、新自由主義以後の福祉国家と同じものではない。
では、新しい福祉国家はいかなる性格をもつのか。第一に、世界資本主義の利潤率低下に一層加担するという性格を帯びざるを得ない。言い換えるならば、利潤率を犠牲にしてでも命を守るという、価値観の選択を提起するだろう。利潤を増やすことが幸福の本質であるのか、それともたとえ利潤率が低くても、否、むしろ反利潤率的な「人間的必要」を満たすことのほうが幸福の本質であるのか、という争点をもたらすだろう。第二に、この価値観上の対立は、より一層軍儒部門を拡大するのか、それとも民需部門を拡大するのか、という選択肢の前に国民を引きずり出すだろう。
ここからは、私見であるが、こうした二つの論争点を通過することをつうじて、各国民が、利潤/人間的必要、軍儒/民需を選択しないわけにはいかない。客観的にみて、この価値観の選択が意味するものは、価値生産から使用価値生産へ、換言すれば資本主義的労働過程の内的比重の機軸をどう構想するべきか、ということにほかならない。いかなる思想的立場に立つにせよ、人類は総体としてこのことに頭を悩ませることになるのだろうと思われる。
2025年9月18日 「たった一つの地球人の思想史」の構想2
地の利ということがある。思想史の書き手には比較優位性がないとは言えない。日本は中国の横にあって、漢字、都市計画、詩、衣服、薬、医学、儒教、仏教など、実にさまざまな文物を学び、大きな影響を受けてきた。秀吉の朝鮮侵略を脇に置けば、明治維新まで中国文化圏の中にあった。ところが、鉄砲伝来1543を契機に西洋文明に衝撃を受け、天下統一までの戦闘形態は一変した。武士社会は、実は鉄砲の所産である。通常の史観では、武士社会は恩と報恩、殿と家来、土地分配と忠義である。一見すると武士社会は最も日本的なものに見える。中国、朝鮮に武士階級の支配がなかった。日本になぜ武士支配があったか。土地を武力で取ったからだ。しかし、何によって土地を取ったかを考えると、兵農分離と鉄砲によるものだった。武士社会の成立要因にはウェスタン・インパクトが絡んでいる。もっとも日本的な封建制が、西洋的なものの所産である。
秀吉は天下統一をした。その後で西洋と向かい合うと、到底勝てぬ強敵であることがわかった。スペインは布教を装って土地を狙っている。侵略してくるかもしれない。この恐慌を感じた武士は、ある意味ではスペインに洗脳された信仰集団と闘った(島原の乱1637年天草四郎の軍の旗を見よ。ものによってはIHSイエズス会のマークがある。先住民の土地を奪ったピサロ軍と同一)。まさに西洋の植民地主義に対する恐怖ゆえに、その後鎖国1644した。
鎖国は、それゆえ、世界システムの外にあることを意味しない。「4つの口(琉球、長崎、対馬、蝦夷)」を開けて、幕府が貿易独占したのだから、近代世界システムの中にあった。近代世界システムの中にあるが、幕府が管理貿易を行うことで、民間社会を一切排除した。したがって、いわゆる鎖国とは幕府にとっての外交權の独占であり、諸藩と民間社会の貿易権の剥奪であった。
黒船来航1853によって求められた開国とはなんであったか。それは下田と函館の開港であり、外国人が遭難した場合の安全性の確保に過ぎなかった。鎖国から開国へ、幕府の管理貿易から自由貿易へ一挙に移行したわけではなく、長崎出島に加えて下田と函館を増やしたにとどまる。しかし、日米和親条約1854と日米修好通商条約1858を比べると質的に違う。1854年に和親条約を結んだのは、米、英、露、1855年が蘭だった。だが1858年の修好通商条約にはラッシュがかかり、米に続き、英、仏、蘭、露5カ国が参入した。開港地は長崎が全面開港、神戸、横浜(下田を閉じて移行)、新潟、函館となった。1858年こそが事実上の自由貿易のスタートである。
幕府はそれでも管理貿易を持続しようとしたが、5つの外国が5つの港から入り、しかも、各国の貿易商が入ってきて、諸藩や民間人と交易し始めると、もはや管理不能となった。例えば長崎の民間スコットランド人グラバーは貿易権を奪われていた諸藩と勝手に売買し、薩摩、長州、土佐に武器を売る「死の商人」だった。幕府による管理貿易が徐々に弱体化し、薩長土その他外様の藩に武器が流れるようになると幕府の武力独占は崩壊した。こうして260年の長きにわたった徳川幕藩体制はついに崩壊した。
戦国時代から振り返ると、近代西洋システムが日本の波打ち際まで来たからこそ、武士社会が成立したが、武士は世界システムの波に乗ったとはいえ、徳川幕府は民間社会の自由を許さず、外に対しては管理貿易、内に向かってはなお儒教の体制を維持した。しかし長崎その他の4つの口からオランダを中心にして西洋を監視していた。だが、黒船と5つの開港によって、西洋はなだれ込み、薩長土に武力的に追い詰められ、武家社会そのものが壊された。
単純化すれば、明治維新以降は、中国一辺倒から西洋一辺倒へ180度回転した。それから約160年間は、西洋追随である。飛鳥寺(596年)から明治維新(1868年)までの中国一辺倒は、約1300年とすれば、西洋一辺倒はせいぜい160年である。
日本と日本人は、中国一辺倒から西洋一辺倒へ移ったが、2つの層を自我の中に保持している。字のことを考えると、基層に漢字、その上に平がな、カタカナ、西洋原語という4つの層を駆使して生きている。その時々の体勢に適応するために、わが祖先はまことに四苦八苦して、口語と活字を組み合わせて生きてきたわけである。
ある意味では、一貫して大国追随である。長いものには巻かれろ、である。その都度手のひらを返すように、昨日を忘れ、明日を生きようとした。明治維新が最初の忘却なら、敗戦後のアメリカ追随は大忘却だった。だから、ここには連続性がない。日本人のアイデンティティーは、歴史的に辿れば明確なことであるが、背骨がボッキリ折れている。哀れな日本人はなんということか、背骨が折れたまま、痛みを感じることもなく1億人が歩いている。これは、驚くべき光景ではないだろうか。
なんの一貫性もないまま、ただその都度大国に追随し、強い方につくだけ。これは一貫した太鼓持ちである。このような国民にいかなる主体性や将来性があるというのか。まずは真っ当に恥よ!そう言いたい。恥ることすらできない能天気な国民に何が期待できるだろうか。ゆえにおのれ自身の背骨をまずまっすぐ建て直せ、とも言いたい。
しかし、そういう恥の感覚、日和見主義的体質への痛苦は日本国という単位に固執するからこそ起こる。恥いるからこそ、対米追随ではダメだということになる。対米追随を拒否してきたのは本土国民ではない。唯一沖縄県民だけである。本土国民は自民党という傀儡政権pupett governmentを支持する傀儡国民に過ぎない。覚醒を通じて改心する可能性はまだある。
しかし、ぼくが目指しているのは、「新しい国民」ではない。全方位外交を回復する「新しい国民」の誕生を拒否するものではないが、日本の精神的課題はもはやそこには存在しない。またそこにいつまでもとどまるべきではない。停まれば腐るだけである。
もっとずっと先を見るべきである。日本の進路は、国民社会をどのように設計するかということである。しかし、国民社会の設計は、世界社会の設計の後に出て来ざるをえない。急がば回れ、である。200カ国の国民社会の設計を足し算して世界社会を作るのではない。逆である。世界社会の設計のあとで国民社会を設計しなくてはならない。
言い換えれば、日本という国民社会の単位で物事を考える頭を一旦捨てなくてはならない。すなわち「たった一つの地球人の思想史」という視座に立つというのは、そういうことである。この視座に立てば、日本人のアイデンティティがどうあるべきかとか、背骨が折れているということはなんら問題にならない。折れていて結構である。地球人としての自己形成から見れば、日本人の身体や精神が多少傾くとか、無知蒙昧であるとか、日和見的だなどということは大したことではない。とりわけ戦後80年間アメリカのポチであったことなど世界中が知っている。それをずっと見られてきたのだから、今更恥も外聞もあるまい。
この視座からはもっと客観的にものが見えてくる。それまで、背骨が折れた身体だと見えてきたものは、別の意味を持つ。なぜなら、言語が4つの層(漢字、平がな、カタカナ、外国原語)から成り立つ、この文化の中で毎日生きているということは、「たった一つの地球人の思想史」から評すれば、中国と西洋、東と西の両方に理解力を持つことを意味するからだ。むしろ体をひん曲げてでも、世界を理解しようとする上でまことに優れた資質を本来的にわれわれが持って生まれ、生きていると見るべきであろう。これは、類まれなる融通さである。こんな国が世界中にあるだろうか。
中国を通じて東洋を知っており、近代世界システムに包摂されたために西洋をいち早く知った。しかも西洋化した時に恩のあるアジアと中国を殴った。なぜ殴ったかというと、西洋に殴られそうになったからだった。日本という自我(self)そのものが西と東の双方の善悪をよく知るように出来ており、日本だからこそ、その地の利を生かして、世界的普遍性へ近づくことができる。世界的普遍性の隣にいるのに、日米二項関係で自己の可能性を閉ざすことは、世界史に対する裏切りに等しい。われわれが目指している「たった一つの地球人の思想史」の立場が出現することは、むろん世界中で可能であるが、この日本にはある意味で、そのエネルギーが詰まっている。転向する限りこの課題は見えてこない。だが、改心(覚醒)を望むならば、このことは避けられないのである。
2025年9月8日 「たった一つの地球人の思想史」の構想1
これまでの思想史は各国別のものだった。しかし、これからはもうそういうわけにはいかない。宇宙船地球号という言葉を誰が作ったか知らないが、これからは新ノアの箱舟に乗り合わせた人間同士、なかよく生きるしかないからだ。ヨーロッパ精神史、アメリカ精神史、日本精神史などなどにたてこもることそれじたいが、すでに反動的である。
丸山眞男は『日本の思想』(岩波新書、1961)で、日本の思想は「無構造の構造」のごとく一見カオスであり、とりとめがないと論じ、「すべての思想的立場がそれとの関係で━否定をつうじてでも━自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」(5頁)と知性が自らを蓄積しながら発展する力の貧しさを嘆いた。
しかし、そこで終わらなかった。彼は、一種の通史を『丸山眞男講義①~⑥』でまとめた。この結果を一言で言うならば、座標軸の中心に古層または通奏低音を置いて、神道的な何ものかが「いやつぎつぎになりゆくいきほい」という鵺的な力として働き続け、それが他の思想の自立を押さえつけたとみた。しかし、含みとしてはこの鵺的なものにたいして抵抗する思想上の動き、鎌倉仏教、北畠親房、キリシタン、武士の精神、荻生徂徠、本居宣長、安藤昌益などが続々と登場する軌跡を執拗に取り上げた。
丸山における日本思想通史と江戸思想史の関係が如何なるものであるかについては、なかなか難しい問題があるが、とくに『日本政治思想史研究』1952の方法は、今日的にもなお示唆的である。示唆的とは、対象を日本から世界へ変えてもなお有効というほどの意味である。
私たちが対象を16世紀以降の近代世界に置くならば、座標軸の中心にあるのは西洋近代思想である。西洋には「自由・平等・友愛」という表の顔と「侵略・搾取・抑圧」という裏の顔がある。だから西洋が世界を制覇したばあい、非西洋の西洋に対する反応は必ずしも全面的屈服ではなかった。模倣一辺倒にみえる福沢諭吉のばあいでさえ、西洋に負けてたまるかという気概はある。ただしこれは、非常に歪んでしまって天皇制的資本主義の絶対化に行きついた。また漱石にもイギリス資本主義の世界支配への抵抗が一貫してみられるし、彼の言う個人主義は賃労働制の批判まで届いていた。安重根、魯迅、さらにガンディー、ホー・チ・ミン、フランツ・ファノンとN・マンデラ、E・ウィリアムズまで考慮するならば、西洋植民地主義に対する強靭な批判がアジア、アフリカ、中南米に登場したことはまったく正当であった。現代では、J・ガルトゥングやI・ウォーラーステインのような良心的な西洋人が非西洋の思想を絶賛し、それに学んで西洋近代を批判するようになっている。
こういう人々の登場を考えると、戦後80年間親米一辺倒で生き延びた日本は、いつも「ルック・イースト」で、太平洋の向こう岸の大国を世界と見間違っているように思えてしまう。核兵器禁止条約2017を起草する作業に携わったのは、ICANというイギリスの平和団体であるが、マーシャル諸島、ムルロア環礁、仏領ポリネシア、および日本の被団協の人々である。大国は、世界を動かしているのではなく、反対に世界によって追い詰められていると言わねばならない。世界の人々は、まことにねばり強く「たった一つの地球人の思想史」をつくりはじめている。
丸山が日本の思想は雑居にすぎず、「構造なき構造」しかないと見たのと同じく、現代世界の諸思想も、西と東、北と南の対立をはらんでいる。この意味においてまだ雑居であり混沌のままである。世界規模において本当の伝統はまだ形成されたとは言えない。日本の思想が雑居を雑種たらしめることを課題としており、いまなおその途上にあるのと同じように、地球人の思想史もまた、雑居から雑種へ自己を練り上げることではじめてなりたつような何物かなのである。
加藤周一は丸山思想史が日本を解明した古典であると褒めたが、M・ウェーバーが世界を説明したのに比べると、対象が狭いと論じた(加藤周一「丸山眞男の論理と心理」)。この評価はさすがに加藤だけのことはあって、考えさせるものである。しかし、そんなことを言いだせば、彼の丸山評は彼自身に還ってくる。『日本文学史序説』も日本だけを解明した古典であって、世界をまだ解明したわけではない。
ポスト丸山ということは、ポスト加藤ということでもある。真剣に生産的に考えようとするならば、丸山の日本思想通史の方法を「たった一つの地球人の思想史」へ拡張してつかみ、西洋思想と非西洋思想のあいだの模倣、屈服、抵抗の諸相から、けっきょくは西洋思想を根本的に自己批判せしめ、新しい普遍主義が現れるという方向を模索することが肝心ではあるまいか。そのときにはじめてマルクスが近代西洋を批判したことの意味と価値がわかるのであって、ソ連や中国などは、少なくとも思想史の上では、大した意味をもたないとひそかに私は思う。自分が一人のeveryoneであるということは、誰でもよい誰かになって、他人(ひと)の他者性を掴むものとなることを意味する。ちっぽけな自己主張や個性などにはいっさい目をくれずに黒子に徹しなくてはわからぬことが多い。一切の固有名的なものと対決し、わが魯鈍に鞭打って田をつくらねばならぬ。
2025年8月23日
従来の思想史は、人物や各国史的なものでした。けれども1948年の『世界人権宣言』以降、人類はどこに暮らしていようが、老若男女誰でもがeveryoneである。広大無辺の大宇宙のなかで、ほんの一瞬この地球に生まれあわせた同時代人であり、可能的なともだちです。今は厳然と国境があって、いがみあっていたりもするけれど、思想史も医者同様「国境なき思想史家」によって書かれてよい。
誰が何を言ったか、その国がどう歩んだか、ではない。そういう旧来の思想史の常識を端的に超えたもの、それを従来までの思想史の蓄積、方法の再検討をつうじて、一種の世界構造的な思想史に組み替えて、実験的に構築していきます。




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