たった一つの地球人の思想史
- 竹内真澄

- 9月18日
- 読了時間: 11分
2025年8月23日
従来の思想史は、人物や各国史的なものでした。けれども1948年の『世界人権宣言』以降、人類はどこに暮らしていようが、老若男女誰でもがeveryoneである。広大無辺の大宇宙のなかで、ほんの一瞬この地球に生まれあわせた同時代人であり、可能的なともだちです。今は厳然と国境があって、いがみあっていたりもするけれど、思想史も医者同様「国境なき思想史家」によって書かれてよい。
誰が何を言ったか、その国がどう歩んだか、ではない。そういう旧来の思想史の常識を端的に超えたもの、それを従来までの思想史の蓄積、方法の再検討をつうじて、一種の世界構造的な思想史に組み替えて、実験的に構築していきます。
2025年9月8日 「たった一つの地球人の思想史」の構想1
これまでの思想史は各国別のものだった。しかし、これからはもうそういうわけにはいかない。宇宙船地球号という言葉を誰が作ったか知らないが、これからは新ノアの箱舟に乗り合わせた人間同士、なかよく生きるしかないからだ。ヨーロッパ精神史、アメリカ精神史、日本精神史などなどにたてこもることそれじたいが、すでに反動的である。
丸山眞男は『日本の思想』(岩波新書、1961)で、日本の思想は「無構造の構造」のごとく一見カオスであり、とりとめがないと論じ、「すべての思想的立場がそれとの関係で━否定をつうじてでも━自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されなかった」(5頁)と知性が自らを蓄積しながら発展する力の貧しさを嘆いた。
しかし、そこで終わらなかった。彼は、一種の通史を『丸山眞男講義①~⑥』でまとめた。この結果を一言で言うならば、座標軸の中心に古層または通奏低音を置いて、神道的な何ものかが「いやつぎつぎになりゆくいきほい」という鵺的な力として働き続け、それが他の思想の自立を押さえつけたとみた。しかし、含みとしてはこの鵺的なものにたいして抵抗する思想上の動き、鎌倉仏教、北畠親房、キリシタン、武士の精神、荻生徂徠、本居宣長、安藤昌益などが続々と登場する軌跡を執拗に取り上げた。
丸山における日本思想通史と江戸思想史の関係が如何なるものであるかについては、なかなか難しい問題があるが、とくに『日本政治思想史研究』1952の方法は、今日的にもなお示唆的である。示唆的とは、対象を日本から世界へ変えてもなお有効というほどの意味である。
私たちが対象を16世紀以降の近代世界に置くならば、座標軸の中心にあるのは西洋近代思想である。西洋には「自由・平等・友愛」という表の顔と「侵略・搾取・抑圧」という裏の顔がある。だから西洋が世界を制覇したばあい、非西洋の西洋に対する反応は必ずしも全面的屈服ではなかった。模倣一辺倒にみえる福沢諭吉のばあいでさえ、西洋に負けてたまるかという気概はある。ただしこれは、非常に歪んでしまって天皇制的資本主義の絶対化に行きついた。また漱石にもイギリス資本主義の世界支配への抵抗が一貫してみられるし、彼の言う個人主義は賃労働制の批判まで届いていた。安重根、魯迅、さらにガンディー、ホー・チ・ミン、フランツ・ファノンとN・マンデラ、E・ウィリアムズまで考慮するならば、西洋植民地主義に対する強靭な批判がアジア、アフリカ、中南米に登場したことはまったく正当であった。現代では、J・ガルトゥングやI・ウォーラーステインのような良心的な西洋人が非西洋の思想を絶賛し、それに学んで西洋近代を批判するようになっている。
こういう人々の登場を考えると、戦後80年間親米一辺倒で生き延びた日本は、いつも「ルック・イースト」で、太平洋の向こう岸の大国を世界と見間違っているように思えてしまう。核兵器禁止条約2017を起草する作業に携わったのは、ICANというイギリスの平和団体であるが、マーシャル諸島、ムルロア環礁、仏領ポリネシア、および日本の被団協の人々である。大国は、世界を動かしているのではなく、反対に世界によって追い詰められていると言わねばならない。世界の人々は、まことにねばり強く「たった一つの地球人の思想史」をつくりはじめている。
丸山が日本の思想は雑居にすぎず、「構造なき構造」しかないと見たのと同じく、現代世界の諸思想も、西と東、北と南の対立をはらんでいる。この意味においてまだ雑居であり混沌のままである。世界規模において本当の伝統はまだ形成されたとは言えない。日本の思想が雑居を雑種たらしめることを課題としており、いまなおその途上にあるのと同じように、地球人の思想史もまた、雑居から雑種へ自己を練り上げることではじめてなりたつような何物かなのである。
加藤周一は丸山思想史が日本を解明した古典であると褒めたが、M・ウェーバーが世界を説明したのに比べると、対象が狭いと論じた(加藤周一「丸山眞男の論理と心理」)。この評価はさすがに加藤だけのことはあって、考えさせるものである。しかし、そんなことを言いだせば、彼の丸山評は彼自身に還ってくる。『日本文学史序説』も日本だけを解明した古典であって、世界をまだ解明したわけではない。
ポスト丸山ということは、ポスト加藤ということでもある。真剣に生産的に考えようとするならば、丸山の日本思想通史の方法を「たった一つの地球人の思想史」へ拡張してつかみ、西洋思想と非西洋思想のあいだの模倣、屈服、抵抗の諸相から、けっきょくは西洋思想を根本的に自己批判せしめ、新しい普遍主義が現れるという方向を模索することが肝心ではあるまいか。そのときにはじめてマルクスが近代西洋を批判したことの意味と価値がわかるのであって、ソ連や中国などは、少なくとも思想史の上では、大した意味をもたないとひそかに私は思う。自分が一人のeveryoneであるということは、誰でもよい誰かになって、他人(ひと)の他者性を掴むものとなることを意味する。ちっぽけな自己主張や個性などにはいっさい目をくれずに黒子に徹しなくてはわからぬことが多い。一切の固有名的なものと対決し、わが魯鈍に鞭打って田をつくらねばならぬ。
2025年9月18日 「たった一つの地球人の思想史」の構想2
地の利ということがある。思想史の書き手には比較優位性がないとは言えない。日本は中国の横にあって、漢字、都市計画、詩、衣服、薬、医学、儒教、仏教など、実にさまざまな文物を学び、大きな影響を受けてきた。秀吉の朝鮮侵略を脇に置けば、明治維新まで中国文化圏の中にあった。ところが、鉄砲伝来1543を契機に西洋文明に衝撃を受け、天下統一までの戦闘形態は一変した。武士社会は、実は鉄砲の所産である。通常の史観では、武士社会は恩と報恩、殿と家来、土地分配と忠義である。一見すると武士社会は最も日本的なものに見える。中国、朝鮮に武士階級の支配がなかった。日本になぜ武士支配があったか。土地を武力で取ったからだ。しかし、何によって土地を取ったかを考えると、兵農分離と鉄砲によるものだった。武士社会の成立要因にはウェスタン・インパクトが絡んでいる。もっとも日本的な封建制が、西洋的なものの所産である。
秀吉は天下統一をした。その後で西洋と向かい合うと、到底勝てぬ強敵であることがわかった。スペインは布教を装って土地を狙っている。侵略してくるかもしれない。この恐慌を感じた武士は、ある意味ではスペインに洗脳された信仰集団と闘った(島原の乱1637年天草四郎の軍の旗を見よ。ものによってはIHSイエズス会のマークがある。先住民の土地を奪ったピサロ軍と同一)。まさに西洋の植民地主義に対する恐怖ゆえに、その後鎖国1644した。
鎖国は、それゆえ、世界システムの外にあることを意味しない。「4つの口(琉球、長崎、対馬、蝦夷)」を開けて、幕府が貿易独占したのだから、近代世界システムの中にあった。近代世界システムの中にあるが、幕府が管理貿易を行うことで、民間社会を一切排除した。したがって、いわゆる鎖国とは幕府にとっての外交權の独占であり、諸藩と民間社会の貿易権の剥奪であった。
黒船来航1853によって求められた開国とはなんであったか。それは下田と函館の開港であり、外国人が遭難した場合の安全性の確保に過ぎなかった。鎖国から開国へ、幕府の管理貿易から自由貿易へ一挙に移行したわけではなく、長崎出島に加えて下田と函館を増やしたにとどまる。しかし、日米和親条約1854と日米修好通商条約1858を比べると質的に違う。1854年に和親条約を結んだのは、米、英、露、1855年が蘭だった。だが1858年の修好通商条約にはラッシュがかかり、米に続き、英、仏、蘭、露5カ国が参入した。開港地は長崎が全面開港、神戸、横浜(下田を閉じて移行)、新潟、函館となった。1858年こそが事実上の自由貿易のスタートである。
幕府はそれでも管理貿易を持続しようとしたが、5つの外国が5つの港から入り、しかも、各国の貿易商が入ってきて、諸藩や民間人と交易し始めると、もはや管理不能となった。例えば長崎の民間スコットランド人グラバーは貿易権を奪われていた諸藩と勝手に売買し、薩摩、長州、土佐に武器を売る「死の商人」だった。幕府による管理貿易が徐々に弱体化し、薩長土その他外様の藩に武器が流れるようになると幕府の武力独占は崩壊した。こうして260年の長きにわたった徳川幕藩体制はついに崩壊した。
戦国時代から振り返ると、近代西洋システムが日本の波打ち際まで来たからこそ、武士社会が成立したが、武士は世界システムの波に乗ったとはいえ、徳川幕府は民間社会の自由を許さず、外に対しては管理貿易、内に向かってはなお儒教の体制を維持した。しかし長崎その他の4つの口からオランダを中心にして西洋を監視していた。だが、黒船と5つの開港によって、西洋はなだれ込み、薩長土に武力的に追い詰められ、武家社会そのものが壊された。
単純化すれば、明治維新以降は、中国一辺倒から西洋一辺倒へ180度回転した。それから約160年間は、西洋追随である。飛鳥寺(596年)から明治維新(1868年)までの中国一辺倒は、約1300年とすれば、西洋一辺倒はせいぜい160年である。
日本と日本人は、中国一辺倒から西洋一辺倒へ移ったが、2つの層を自我の中に保持している。字のことを考えると、基層に漢字、その上に平がな、カタカナ、西洋原語という4つの層を駆使して生きている。その時々の体勢に適応するために、わが祖先はまことに四苦八苦して、口語と活字を組み合わせて生きてきたわけである。
ある意味では、一貫して大国追随である。長いものには巻かれろ、である。その都度手のひらを返すように、昨日を忘れ、明日を生きようとした。明治維新が最初の忘却なら、敗戦後のアメリカ追随は大忘却だった。だから、ここには連続性がない。日本人のアイデンティティーは、歴史的に辿れば明確なことであるが、背骨がボッキリ折れている。哀れな日本人はなんということか、背骨が折れたまま、痛みを感じることもなく1億人が歩いている。これは、驚くべき光景ではないだろうか。
なんの一貫性もないまま、ただその都度大国に追随し、強い方につくだけ。これは一貫した太鼓持ちである。このような国民にいかなる主体性や将来性があるというのか。まずは真っ当に恥よ!そう言いたい。恥ることすらできない能天気な国民に何が期待できるだろうか。ゆえにおのれ自身の背骨をまずまっすぐ建て直せ、とも言いたい。
しかし、そういう恥の感覚、日和見主義的体質への痛苦は日本国という単位に固執するからこそ起こる。恥いるからこそ、対米追随ではダメだということになる。対米追随を拒否してきたのは本土国民ではない。唯一沖縄県民だけである。本土国民は自民党という傀儡政権pupett governmentを支持する傀儡国民に過ぎない。覚醒を通じて改心する可能性はまだある。
しかし、ぼくが目指しているのは、「新しい国民」ではない。全方位外交を回復する「新しい国民」の誕生を拒否するものではないが、日本の精神的課題はもはやそこには存在しない。またそこにいつまでもとどまるべきではない。停まれば腐るだけである。
もっとずっと先を見るべきである。日本の進路は、国民社会をどのように設計するかということである。しかし、国民社会の設計は、世界社会の設計の後に出て来ざるをえない。急がば回れ、である。200カ国の国民社会の設計を足し算して世界社会を作るのではない。逆である。世界社会の設計のあとで国民社会を設計しなくてはならない。
言い換えれば、日本という国民社会の単位で物事を考える頭を一旦捨てなくてはならない。すなわち「たった一つの地球人の思想史」という視座に立つというのは、そういうことである。この視座に立てば、日本人のアイデンティティがどうあるべきかとか、背骨が折れているということはなんら問題にならない。折れていて結構である。地球人としての自己形成から見れば、日本人の身体や精神が多少傾くとか、無知蒙昧であるとか、日和見的だなどということは大したことではない。とりわけ戦後80年間アメリカのポチであったことなど世界中が知っている。それをずっと見られてきたのだから、今更恥も外聞もあるまい。
この視座からはもっと客観的にものが見えてくる。それまで、背骨が折れた身体だと見えてきたものは、別の意味を持つ。なぜなら、言語が4つの層(漢字、平がな、カタカナ、外国原語)から成り立つ、この文化の中で毎日生きているということは、「たった一つの地球人の思想史」から評すれば、中国と西洋、東と西の両方に理解力を持つことを意味するからだ。むしろ体をひん曲げてでも、世界を理解しようとする上でまことに優れた資質を本来的にわれわれが持って生まれ、生きていると見るべきであろう。これは、類まれなる融通さである。こんな国が世界中にあるだろうか。
中国を通じて東洋を知っており、近代世界システムに包摂されたために西洋をいち早く知った。しかも西洋化した時に恩のあるアジアと中国を殴った。なぜ殴ったかというと、西洋に殴られそうになったからだった。日本という自我(self)そのものが西と東の双方の善悪をよく知るように出来ており、日本だからこそ、その地の利を生かして、世界的普遍性へ近づくことができる。世界的普遍性の隣にいるのに、日米二項関係で自己の可能性を閉ざすことは、世界史に対する裏切りに等しい。われわれが目指している「たった一つの地球人の思想史」の立場が出現することは、むろん世界中で可能であるが、この日本にはある意味で、そのエネルギーが詰まっている。転向する限りこの課題は見えてこない。だが、改心(覚醒)を望むならば、このことは避けられないのである。







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